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麻賀多神社の祭礼と日ユ同祖論


皆さん、こんにちは・こんばんは・おはようございます。「見たかな?観たよ!」の中の人、ひろ-macrobiworldです。

今回は先々週に呟いていたように、
千葉県佐倉市の秋祭りで、今回初めて観た麻賀多神社まかたじんじゃ神輿渡御みこしとぎょと日ユ同祖論について書いて行きたいと思います。


麻賀多神社とは


麻賀多神社と言うと日月神示の自動書記で有名な成田の台方にある麻賀多神社の総本社が有名ですが、麻賀多神社は印旛沼の南東部でのみ見られる、珍しい名前の神社なのだそうです。

成田市に2社(台方の総本社、舟形の奥宮)、佐倉市に11社、酒々井町2社、富里市2社、八千代市1社の計18社あるそうです。

今回取り上げるのはそのうちのひとつ。
千葉県佐倉市鏑木町にある佐倉藩総鎮守の社、麻賀多神社の神輿渡御みこしとぎょです。
千葉県内で最大級の大神輿だそうです。

御祭神について


佐倉の麻賀多神社の御祭神は、古事記には「和久産巣日神」、日本書紀には「稚産霊命」と記述されているワクムスビのカミ(ミコト)。

神宮の外宮に祀られている豊請(受)比売命トヨウケヒメノミコトの御親神様で、伊弉諾命イザナギノミコト伊弉冉尊イザナミノミコトから見ると御孫様にあたる神様です。

この御親神様と御子神様は境内に摂社として祀られています。

また神仏習合の名残なのか、少彦名命スクナビコナノミコトが末社に祀られているのですが、そこに撫で恵比寿の像があるそうです。(2)


蛇足ではありますが、麻賀多神社の近くには愛宕あたご神社と言う火之迦具土神 ヒノカグツチノカミを祀った神社があります。(かつては佐倉城内にありましたが、現在は海隣寺町に移設されています。)

伊弉冉尊が死んだのは火之迦具土神 を産む時に参道を火傷してしまったから。(因みにその火之迦具土神 は稚産霊命の御親神様です。)

そして麻賀多神社の境内に医療の神とされる少彦名命の末社。
主祭神の稚産霊命は安産と子育ての神様だそうですから、このニ社(麻賀多神社と愛宕神社)でストーリーになっているのかな?と言った感じですね。


旧約聖書の記述にそっくりな神輿渡御


麻賀多神社の近くにはミスター・ジャイアンツこと長嶋茂雄さんの出身校の佐倉中学校や、史跡の佐倉城址公園、城址公園内には国立歴史民俗博物館があります。

そして麻賀多神社を中心に毎年千葉県佐倉市で開かれる「秋祭り」で使用されている、麻賀多神社のお神輿の渡御の様子が、以下の旧約聖書の記述そっくりなのです。

〉聖書には、紀元前1000年頃にイスラエルのダビデ王が、神の「契約の箱」(アーク)をエルサレムに運び入れたという記述があるのです。〉

そこにはこう書かれているそうです。
〉「ダビデとイスラエルの長老たち、千人隊の長たちは行って、喜びをもって主の契約の箱を・・・運び上ろうとした。・・・ダビデは白亜麻布の衣を身にまとっていた。箱をかつぐすべてのレビ人・・・歌うたいたちも、同様であった。ダビデは亜麻布のエポデを着けていた。全イスラエルは歓声をあげ、角笛、ラッパ、シンバルを鳴らし、十弦の琴と立琴とを響かせて、主の契約の箱を運び上った。・・・サウルの娘ミカルは、窓から見おろし、ダビデ王がとびはねて、喜び踊っているのを見た」(旧約聖書 歴代誌Ⅰ 15章25~29節)。(3)〉


資料用に撮影した動画がありますので、ぜひご覧になって上記の旧約聖書の記述と比較してみてください。(2022/10/15 佐倉の秋祭りにて撮影)


白丁ハクチョウ(下級武士が着たと言われる狩衣の一種)を着た人たちが神輿を担ぐのは、以前伊勢神宮で神輿では無いのですが、奉納品を輿に載せて運ぶ行列が通った時に見たくらいで、余り見かけません。(通常は法被はっぴを着ているケースが多いかと思います。)

白丁を来て神輿を担ぐには、何か条件や資格などがあるんでしょうかね?

また世話人と書かれた提灯を持つ人たちは黒の紋付袴に黒の山高帽で、こちらも何やら正統派ユダヤ人の装束を連想させます。

麻賀多神社の祭礼自体は江戸の中期に発展したとのことなので、直接的にユダヤ人に関係があるわけでは無いのでしょうけれど、何故この様な装束になったのか何とも不思議です。


麻とユダヤと御神事


元々印旛沼の南東部周辺地域を含む千葉県北東部から茨城県南部(?)にかけての地域は、経過報告①でも取り上げたように、俗に言う「ユダヤ人埴輪」が多数出土している地域でもあります。

正統派ユダヤ人が今の様な装束になったのはもっと後の時代なのでは?と言う異論もありますが、
(ハタ氏が祖先だと主張していたとされる)秦の始皇帝はユダヤ人だったのでは…?と言う説もある様ですし(4)、動乱で秦国に居られなくなった秦氏が、朝鮮半島を経由して渡来し、その中から麻の栽培及び紡績技術を持った彼らが阿波国→安房国→印波国にやってきて、技術指導していたと考えれば、ユダヤ人がいたと言うこと自体に矛盾は無いような気もします。

事実、『古語拾遺』(大同2年(807年)成立)や『先代旧事本紀』の説話に秦氏同様にユダヤ人説のある阿波忌部氏東遷説アワインベシとうせんせつがあり、そこには

〉各地の斎部を率いて種々の祭祀具を作っていたが、さらに良い土地を求めようと阿波の斎部を率いて東に赴き、そこに麻(アサ)・穀(カジノキ)を植えたという。
同書では続けて、天富命アマノトミノミコトが植えた麻が良く育ったのでその地を「総国(ふさのくに)」というようになり〉

とあるそうです。

この総国が
上総かずさ(=安房←阿波から派生?)・下総しもうさ(=印波、後に印旛へ変わる)を総称して、千葉県が所在する半島を房総半島と呼びますが、その地名の由来にもなっているとのことです。

安房国の名前の由来、阿波の忌部氏とは


忌部氏がユダヤ人なのではとされる理由として、忌部神社の御神紋(御社紋も同じ)が梶の葉であることが挙げられます。

また諏訪大社の御神紋(同上)も梶の葉で、この梶の葉の葉脈はメノラーを図案化したものだと言うのが、イスラエルから来訪した研究者の主張なのだそうです。(諏訪大社の件は後述します。)

ただ忌部氏や秦氏がユダヤ人だったかどうかについては、古代の話だけにそれを決定付ける一次史料が見つかって無いので、忌部氏&秦氏=ユダヤ人と言う仮説は、肯定も否定も出来ないと言うことですね。

学術的には秦氏は百済人説が主流の様ですが、日本人が持つYAP遺伝子の問題もあり、遺伝子レベルではそうとは断定できない
(むしろユダヤ人説の方が説明が付く?)
話だと、個人的には思っています。

なお秦氏ユダヤ人説については、
秦氏の祖先とされる弓月君=弓月と言う国の王と解釈する場合、弓月国は現在のアフガニスタンとアラル海の間、正確には,現在の中国とカザフスタンの国境付近にあったと考えられています。

また弓月は三日月のことを指し、ユダヤ教の象徴でもあることから、秦氏ユダヤ人説が出て来ているようですね。
(ディアスポラ=民族離散によって国を追われたユダヤの「失われた十支族」の一部が、この地に逃れてきていたとの前提に立った仮説。)


神事と旧約聖書


日ユ同祖論に興味がある方は既にご存知のことだと思いますが、伊弉諾命は旧約聖書に出てくる「イザヤ」のことではないか?と言われています。

また麻賀多神社がある佐倉と言う地名は、元々は麻の倉だったのではないか?それが転じて佐倉になったのではないか?印旛沼周辺で神事に欠かせない麻の栽培が行われていたのではないか?
という説があります。

『古語拾遺』にも記載されているように、徳島県(阿波国)からユダヤ人もしくはその子孫が南房総に渡ってきたのではないか?と茂木誠先生も動画内でお話しされてましたね。

その阿波国では、古来より大嘗祭に使われる白妙の為の麻が栽培され、忌部神社で織られた麁服あらたえが朝廷に献上されてきたと言います。

その麻の栽培に関わったユダヤ人の子孫たちが遠い昔、阿波国から安房国に移住し、さらに北上して、印波国(後の下総国)の印旛沼周辺でも麻の栽培を始めた(技術指導?)と言うことなのでしょうか。

阿波国の剣山の麓には例の古代ユダヤ教の神殿に似た石積みの遺構が残る神社がありますし、忌部神社の御神紋はメノラーを図案化したと言われる梶の葉です。

また、麻賀多神社の御神紋は左三つ巴、御社紋は麻の葉が描かれていますが、御社紋の形状は六芒星(ダビデの星=ユダヤの象徴)に通じますね。

麻賀多神社自体は、平安時代に編纂された「延喜式」にも名前がある様な古い神社(奥宮と本宮の二社)で、

応神天皇の御代に印波国造インバノクニノミヤツコとしてこの地に派遣された、神武天皇の御子の
神八井耳命カムヤイミミノミコトを始祖とする、多一族の伊都許利命イツコリノミコトが、荒れていたこの地を収める為に、
応神天皇20年(西暦289年)の年に現在奥宮が置かれている成田市舟形に社殿を造営し稚産霊命を祀ったのが始まりと言われているようです。

調べてみると御神紋の三つ巴は元々八幡さまのお印だった様で、その八幡さまは誉田別命ホンダワケノミコト=応神天皇とも言われているそうです。

なるほど!…ですね。

この舟形に社殿を作られることになったわけは、
景行天皇42年6月晦日、東征中の日本建尊ヤマトタケルノミコトが当地を訪れ、杉の幹に鏡を懸け「この鏡をインバノクニタマオキツカガミと崇めて祀れば、五穀豊穣になる」と言い、伊勢の大神を遥拝したからなのだそうです。


なお多一族の傍系に信州の「金刺カナサシ氏」があり、金刺氏は諏訪大社に関係しているのだそうです。
これもまた何やら因縁めいた話ではありますね。

何故なら諏訪大社の御柱祭や御頭祭は、旧約聖書に書かれているイサクの故事を再現する様な儀式で、諏訪大社は秦氏と関係があるのではと言われているからです。

諏訪大社には、イスラエルの駐日大使が就任時と離任時に挨拶に行くと言う噂もあります。



いずれにせよ、新羅から大和への入国を妨害されていた秦氏が、百済経由で応神天皇の許可を得て日本に渡来し帰化したのは、応神天皇14年だそうですから、時代的にも麻賀多神社創建の頃と一致します。

因みに秦氏の秦というのは、機織り→機→秦になったのでは?と言われているので、その一族・集団の中に機織り師だけでなく、当然、亜麻の栽培や亜麻の繊維から糸を紡ぐ職人がいたことでしょう。

茂木誠先生の動画によると神道の確立が3世紀ごろとの事なので、秦氏が渡来した時期と重なるんですね。

飛鳥時代(7〜8世紀頃)に唐の律令制を取り入れて中央集権体制が確立して行った様に、

遡ることその500年ほど前に、まだ発展途上だった神道の祭祀祭礼が、農耕その他の技術と共にユダヤ人が確立していた祭祀祭礼を参考に作られたとしても、不思議は無いのかもしれません。

阿波国で栽培された麻の織物が朝廷に献上・奉納され神事に使用されているように、かつて印旛沼周辺で栽培された麻の織物は、麻賀多神社は勿論の事、東国の神宮・神社に奉納され、神事・祭礼に使われていたのでしょうか?

想像が膨らみますね。


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【脚注・引用/参考資料】

(1) 神仏習合;明治政府が神仏分離令を出すまでは、日本は神仏習合という独特の信仰形態を持っていました。
例えば天照大御神は大日如来と、牛頭天王は須佐之男命と、大国主命は大黒天と、少彦名命は恵比寿さまと同一視されていました。

日本では今でも結婚式は神道、葬式は仏教という方が多いと思いますが、それは神仏習合の名残で、
「ハレはカミ、ケは仏」という役割分担があったからだと言われています。

これは皇室も同様で、石川真理子氏によると、神仏分離令が出されるまでは皇族も、結婚の儀は神式で、葬儀は仏式で行われていたとのこと。それは天皇も例外ではなく、神道の祭祀王であると同時に仏教徒でもあったとのことです。

(2) ・御祭神・御由緒 -佐倉藩鎮守 *麻賀多神社*


(3) 【日本とイスラエル】神社のお神輿と古代イスラエルの契約の箱(1) | 日本人の信仰と聖書について考える会ブログ

(4)因みに秦氏に関してはユダヤ教ではなく、日本に渡来する頃には「景教ネストリウス派」に改宗していたのでは無いか?とする説もあります。
茂木誠先生はこの説を採っておられるようです。
・ネストリウス派|Wikipedia

ハプログループD(YAP遺伝子)|Wikipedia

応神天皇|Wikipedia

忌部氏|Wikipedia

秦氏|Wikipedia

神紋(社紋) | 日本の家紋

三つ巴の家紋が神社が多い理由!使用している神社まとめ18選 | | お役立ち!季節の耳より情報局

八幡神|Wikipedia

No.15 – 大嘗祭と阿波忌部 東京都会員 高尾 義彦 | 一般社団法人 忌部文化研究所

千葉山中に伝わる秦氏と四条天皇伝説|もぎせかチャンネル

封印された江戸時代の戦い|もぎせかチャンネル

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