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地テシ:351 保土ヶ谷から神奈川の古東海道の旅 後篇

この正月に「コスモプラネタリウム渋谷」にて上映されている「星空を作った人々 プラネタリウム百年」を観に行ってきました。

1923年に現在と同じようなプラネタリウムが発明されて百年。それを記念したプログラムです。ドイツのカールツァイス社が開発したツァイスⅠ型では4500個もの星を投影できたそうです。

皆さんご存じの通り、星空を丸天井に投影するプラネタリウム。あれほど精巧で高度な機械が百年も前に作られていたことにも驚愕ですが、それからわずか14年後の1937年にはもう日本に輸入(ツァイスⅡ型)されて大阪で常設展示されていたってんですからこちらも驚きです。私が子供の頃に楽しんでいた大阪市立電気科学館のプラネタリウムは第二次世界大戦よりも前から稼働していたのです。

子供の頃からプラネタリウムが大好きだった私ですが、どういう仕組みで星空が投影されているのか未だによく判っていないんですよね。その一端が知れるかもしれないと思って渋谷に向かいました。

今回の番組では、冒頭の5分程が現行プラネタリウム機器の紹介、そして15分程の今晩の星空の解説があった後、30分程のプラネタリウムの歴史についての番組がありました。もちろん全て解説員の方によるリアルタイム解説ですよ。
プラネタリウムの構造について詳細な説明があったワケではありませんが、ロビーにはパネルによる機器の説明や、かつて東急文化会館で稼働していたツァイスⅣ型の内部や操作盤が展示されており、それによって詳しく知ることができました。

両端の球体の中に1000Wの電球が一つずつ入っているんですって
こちらが恒星原盤。この板に上記の電球の明かりを通して投影するのです

また、コスモプラネタリウム渋谷がある渋谷区文化総合センター大和田の2階には、そのツァイスⅣ型も展示されていますから間近で見るコトもできます。大阪の電気科学館や市立科学館だけでなく、東京の東急文化会館やコスモプラネタリウム渋谷にも行ったことのある私にとっては感慨深いモノがあります。

正面口のLBフロアではなく2階にあります

コスモプラネタリウム渋谷では他にも特別プログラムや通常の星空上映もあります。広くて綺麗なプラネタリウムですので、気になる方はいつかの機会にでも足をお運び下さいませ。渋谷南側のさくら坂を上がったあたりにありますよ。


さてさて、それはそれとして旧東海道の旅の続きです。特に望まれてもいなくても書いてしまっているシリーズですよ。ついてきて下さい。ついてこなくても勝手に進めますよ。ええと、今年は保土ヶ谷宿から神奈川宿まで古東海道と旧東海道を歩いてみたって話でしたよね。

県名が付いている駅なのに京急神奈川駅が小さくて駅前も特に賑わっていないのって不思議ですよね。大抵の県名駅は大ターミナルで賑わっているはずです。かつては国鉄にも神奈川駅というのもありましたが今はありません。なんとも不可思議な話です。実はこれと、神奈川県には神奈川県横浜市神奈川区があるって話とは関係があるのです。
時は幕末。列強の圧力により神奈川を開港するに当たって横浜を開港地としました。神奈川湊は東海道と宿場に近く混乱を招くかもしれないという幕府の配慮だとか、山と海が迫っていて土地がなかったからだとか言われています。諸外国からの抗議に対しても「横浜も神奈川の一部である」と主張してやり過ごしたのだそうです。
その後、貿易によって横浜という街が発展し規模を拡大し、そして神奈川宿をも飲み込んで成長していきました。丁度いまSNSでは横浜市よりも人口の少ない県ってのが話題になっておりますが、それほどの勢いで横浜市が拡大していったのです。それが故に神奈川県横浜市神奈川区という入れ子構造ができてしまったのは、兵庫県神戸市兵庫区があるのと同じ理由によると思われます。旧来の港町と新しい国際港との発展力の違いですね。
かつては神奈川が相模国の中心だったのに、いまでは横浜市が神奈川県の中心になってしまったというコトですよ。だもんですからかつての神奈川宿の辺りは今では寂れてしまっているというワケなのです。
とはいえ、旧東海道を歩いてみればどうしても神奈川宿は気になるし、そこはかとない風情は今でも残っているから楽しいんですけどね。

前回は神奈川宿に着いたあたりで終わりました。コレと言って名残はありませんが、この辺りが神奈川宿だったんだなあと感慨に耽ったのも束の間、割と短い旅程だったのでなんとなく物足りない気分です。
となればもう少し旧東海道の旅を続けても良いのではないでしょうか。というか、そのつもりで歩き始めています。私の気分次第の散歩ですから好きなように歩きましょうよ。
というワケで、このまま旧東海道を川崎宿の方面に向かって歩き始めました。川崎宿はさすがに遠いから無理でしょうけど、歴史が感じられるあの場所まで歩いてみましょうか。


神奈川宿からは第一京浜沿いに歩きます。京浜の大動脈とも言える大通りですから特に歴史的な景観もなく、幅広い歩道をひたすら歩きます。あまり面白くはありません。これでは単なる散歩です。替わりといっては何ですが、せっかくですから並行して走っている京急の姿でもお楽しみ下さい。

低い高架を走る京急。潜った先は笠䅣(かさのぎ)稲荷神社の石段です
細い、ほっそい踏切
参道が踏切になっている遍照院。踏切寺として有名です

さあいよいよです。京急新子安駅あたりを越えてしばらく行きますと、旧東海道が第一京浜から離れる地点になります。そしてココが今日の最終目的地であるこちらです。

色がはげていて読みにくくてすみません

そうです、「生麦」です。あの「生麦事件」で有名な生麦です。二代将軍秀忠がこの地を通る時に道がぬかるんでいたので、近隣の人々が畑の生麦を刈り取って敷いて通れるようにしたからだとか、名産の貝をむく「生むき」が転じたものだとか言われておりますが、歴史の授業で習うような事件が起こった場所なのになんだか生活感のある地名から印象の強かった土地です。生麦ってねえ。早口言葉じゃないんだから。
そんな生麦の高速道路の下にあるキリンビール横浜工場の横に、生麦事件の碑はあります。

キリンビールの敷地に食い込むようにあります
いや食い込んでるんじゃなくて、この碑が先にあって後から工場ができたようです

実は事件が起こったのはこの地点ではありません。この地点はイギリス商人リチャードソン氏が落命した場所だそうです。

幕末の1862年、島津久光の行列を乱したイギリス人四人に切りつけた生麦事件は後に薩英戦争を引き起こし、さらには薩摩とイギリスとを結びつけて明治維新へと繋がっていくのです。
この慰霊碑の辺りで第一京浜と旧東海道は別れます。では、このまま旧東海道を川崎方面へ上っていきましょう。

左が第一京浜、そして正面やや右が旧東海道
路面にもこんな案内が埋め込まれています

そして、この旧東海道沿いに「生麦事件発生の地」碑があります。

諸外国と日本との慣習の違いがこの悲劇を起こしたようです
こちらが旧東海道。と言われてもピンとは来ないと思いますが

いまでは普通の住宅地が続くこの道路が実は旧東海道で江戸時代の大動脈だったとは想像もつきませんが、かつては人馬行き交う街道だったのですね。

さあ、今日の目的は果たしました。京急生麦駅へと向かいましょう。その途中の生麦小学校辺りで面白いモノも発見しましたし。

今ではあまり見かけなくなった二宮金次郎像がある生麦小学校
いわゆる琺瑯看板だと思いますが何故こんなサビサビなのに括り付けられているのか
神奈川駅と同様にこぢんまりした生麦駅

そんなこんなの保土ヶ谷宿から神奈川宿、そして生麦へと至る約13km、約4時間の古東海道と旧東海道の旅でした。さすがに都会すぎて古街道の趣をはっきりと感じられるポイントは少ないのですが、大通りから一本外れた生活道路に少しだけ感じられる緩やかなウネりとか、敷地が広くて蔵のある一軒家とか、そこはかとなく風情が感じられる道でした。それが大都市横浜のすぐ横にあるってのがまた良いんですよね。
別に旧東海道を走破するぞってな壮大な目論見はないのですが、東京エリアの日本橋〜品川〜大森あたりは断続的に歩いてはおりますから、近場は歩けちゃってるんですよね。まあ、気が向いたら関東エリアだけでも歩けたらいいなとか思っております。


あ、それから、劇団☆新感線が2007年に上演した「朧の森に棲む鬼」が歌舞伎NEXTになって帰ってくるんですって!

知らなかったからネットで情報見つけて驚いちゃった。もちろん作・中島かずき、演出・いのうえひでのりですよ。2015年の「阿弖流為」も面白かったから気になるよねえ。気になる方は続報をお待ちくださいませ。