艶紅花
それは、艶紅といった。
宝塚の舞台で芸妓の役をさせてもらう時、必ずさしていた口紅の名だ。
あまりに深いあかなので、舞台上では真っ黒に見えてしまうから使わないひともいた。
でも、私にはどうしても必要な紅だった。
黒く発色しないよう顔の地色を工夫してまで、芸妓を演じる時は決まって艶紅をさした。
お化粧といって思い出すのは、5歳の時に出たバレエの発表会。
お姉さんみたいなメイキャップにわくわくした。
とりわけ口紅をつけてもらう時の高揚は言葉にならなかった。
少しくすぐったい紅筆の感触。鏡の中には赤い唇をした自分がいた。
急に大人びた自らの顔に驚き、友人たちと自慢し合ったものである。
もっとも、ジュースが飲みたいお菓子が食べたいと言って、せっかくの口紅をすぐに滲ませて叱られたのだけれど。
知人からシャネルのルージュを贈られたのは、高校生の時だった。
お洒落をしたくても何から始めるべきかわからない、どうしようもなくダサい女の子だった私にとって、それは危険なほどに魅力的な代物だった。
まったく、分不相応もいいところだ。
曇りなく輝く黒色のキャップを、恐る恐る外した。
そして上等な女の誉れを初めて纏った私は、5歳の時と同じように驚愕した。
ルージュの美しい発色に、ではなく、その強烈な香りに。
お化粧初心者どころか、薬用リップクリームも塗り忘れるお芋女子高校生には、まだまだ早い芳香だった。
こんなに濃厚な香りを、唇に塗るなんてムリ。
私は泣く泣くギブアップして、未来の自分に託すべくルージュをしまいこんだ。
憧れのココ・シャネルが、クスリと笑った。
「あなたが夢見るのは、どんなリップ?」
大女優である森光子さんがテレビの画面に映ると、私の目はいつも釘付けになった。
凛としたお顔の中で、その唇は少女のような桜色に輝いていた。
ただ上手に色を塗っているだけではなく、語る、微笑む、結ぶといった所作の全てが、口元の端正さを際立たせている。
森光子さんほど可愛らしくて清らかな唇を、私は見たことがない。
私が演じた女のひとたちも、それぞれの紅を持っていた。
様々な時代と場所で、息づいていた彼女たち。
古の都に生きた芸妓はきっと、初めて唇を染めた日のことを記憶していただろう。
町外れのかさついたあぜ道で野風に吹かれる白粉花を摘み、仕込みの少女はその小さな唇に花の色を移した。
淡い、花の色水。
道草を食った上に着物を汚して姐さんに叱り飛ばされても、少女の胸中にはほのかな花の香が残っていた。
あの日から幾つもの季節が通り過ぎて、白粉花を摘んだ指先は芸事一筋に磨かれた。
花びらの色は褪せ、かわりに深い紅がその口元を染めていた。
それは心に積もった行き場のない情念や、暗い川底を漂う悲しみをしまいこんだかつての少女が、噛み締めた唇を伝う血の一滴。
だから私は、唇にあの色をのせて彼女を演じる。
底知れぬ艶紅の、あか。
或いはそれは乾く寸前の、誰かの黒光る血痕のような。
今の私は、深いあかをささない。
舞台を降りて艶紅をつかうには、まだまだ修行が足りないから。おんなとしての。
肌に馴染む、極めて平凡な色が私には似合いだ。
そんな薄い色合いのリップスティックでも、塗れば口の形がくっきりとあらわになる。
ひとを嗤ったり、くすんだ言葉を吐き出す時、口は歪む。
そんなことばかりに使っていると、とびきりの笑顔を作ってもどことなく、口は歪む。
昔日の芸妓たちも、そんなことを憂いただろうか。
彼女たちの小さな手鏡には、なにが映っていたのだろう。
鏡の中で私の唇が醜く歪んでいる時には、自分の心持ちを叱る。
それから、私は白粉花の種を探す。
どんな言葉を、どんな歌を、どんな優しさを唇に蒔けばいい?
この歪んだ口に、花咲かせなくては。
読んでくださり、本当に有難うございました。 あなたとの、この出会いを大切に思います。 これからも宜しくお願いします!