ツノ出せ、きみの殻から
「梅雨といえば、なんですか?」
「紫陽花。」
「紫陽花といえば、なんですか?」
「うーん。かたつむり。」
「では、かたつむりといえば?」
「…気持ち悪い。」
そこは、外からは入り口の見えないタイプの、瀟洒なレストランだった。
今の時期は限られた人数のお客さんしか入れていないこともあり、凛とした静けさがあった。
消毒液や体温測定までも、一貫してスマートかつスタイリッシュ。
そんな非日常的な空間で趣向を凝らした食事を楽しんでいた紳士は、私の質問によって場違いな気色悪さを思い出していた。
少しだけ、申し訳ない気持ちになった。
かたつむりは気持ち悪いと、そう紳士は言ったのだ。
彼らの、あのぬめり感。
哺乳類と歩み寄る気の無い姿形は、完全に我が道を行っている。
だから、彼らのことを気持ち悪いと言う紳士の言葉は、大いに納得できる。
それでも私は、やはり反論したくなってしまう。
雨に濡れた葉っぱの裏側に、あのこを見つけた時の喜び。
小さいツノを動かして、ゆっくりと滑るように歩く。愛くるしい。
目玉をぴんと伸ばしている様は、遠くの空を見ようとしているみたい。
小さいのも大きいのも、綺麗な殻をちゃんと背負っている。
自分の大きさに相応しい、殻。
反論するかわりに、私は質問を続けてみた。
「どうして、そう思うのですか?」
紳士は少し沈黙して、記憶をたぐりよせ語った。
「子供の時にかたつむりをお母さんに見せたら、気持ち悪いっ!って言われたことがあったな。」
青い壁、青い椅子、そして青いテーブルクロス。
その深い色合いと間接照明のあかりは、薄暗い空間をどことなく照らしている。
青みがかった暗がりは、かたつむりの殻の内部だ。
うつらうつら、小さな柔らかい生き物がまどろんでいる。
遠い記憶を封じ込めた、青い闇の螺旋。
フロアの真ん中に飾られた堂々たる樹の緑が、ずぶ濡れの私を雨の庭へ誘い込もうとしているようだった。
紳士は昔、かたつむりが好きだったのではないだろうか。
だからこそ、お母さんに見せてあげたかった。
面白い形の摩訶不思議な生き物を持って行って喜ばせようとしたのに、思いがけずお母さんに嫌がられてしまった。
少年は、がっかりしただろう。
そうか、これは気持ちの悪いものなんだ。
そう自分に言い聞かせて、ちょこちょことツノを動かすかたつむりをしょんぼりと眺めたのではあるまいか。
梅雨が終わる気配を見せると、一気に夏が追いかけてきた。
雨上がりの空がやっと眩しくなり出した頃、軽井沢に住む素敵な女性が沢山の野菜を送ってくださった。
うちで段ボール箱を開けると、生きている植物の香りが溢れてきた。
「あ! でんでんむし!」
母の声を聞いて近寄ってみると、本当に一匹のかたつむりがいた。
瑞々しいとうもろこしを包んだビニール袋に、褐色の小さな殻がじっとしがみついている。
軽井沢からはるばるやって来た、小さなバッグパッカー。
うっかり遠出をしてしまっても、背中におうちを乗せているのだ。これ以上、安心な旅はない。
そんなに身軽なかたつむりが、今はとてもうらやましく思える。
人間だって、この背中に背負えるくらいの持ち物で充分に生きていけるのかもしれない。
祖母にかたつむりを見せた後、お庭の葉の上に移してあげた。
目醒めたら、軽井沢の豊かな森林が見えないことにびっくりしてしまうだろうか。
それとも、小さなかたつむりからすれば、森もお庭も変わらないものなのかな。
どうか、ここがあのこにとって居心地の良い場所でありますように。
小さなお庭でも、広大な森林でも、かたつむりは変わらない速度でつるつると歩いていく。
家に入ると、祖母が言った。
「でんでんむし、雑草の上に置いたの? 紫陽花の上に置いてあげれば良かったのに…。」
続いて、母が言った。
「でんでんむしだけど、除草剤を撒いても届かない場所に置いてあげた?」
私がかたつむりを愛でるのは、この家庭で育ててもらったからだということは間違いなさそうだ。
生き物を大切にする気持ちは素晴らしいが、それにしても娘以上に丁重な配慮を受けるかたつむり。
お母さん、除草剤の撒く場所なんて知らないよ。
かたつむりだって、自分でどっか行くだろう。
雑草の上に置かれても、私もつるつる歩いて行こう。
なんだか世界が狭苦しく感じる日々だけど、大きな森はきっとある。
案外それは、自分の背中に乗せた小さな殻の中に。
ようやく、私たちの夏が始まる。
読んでくださり、本当に有難うございました。 あなたとの、この出会いを大切に思います。 これからも宜しくお願いします!