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マゴムスメ・ライブラリー 9

 気ままな生活を送っていたら、つい夜更かしが続き、その結果として家族より起床時間が遅れていく。
 意識的な二度寝に突入しようと、スマートフォンのアラームをがっつり止めていると、細く開いたドアから重なり合うふたつの音が聞こえてきた。
 蛇口から溢れる水が弾む響き。そして、優しい音楽。
 お皿洗いをしながら、母が歌を口ずさんでいるのだ。
 口ずさむ、というか、結構な本気のパフォーマンス。
 お皿洗いのBGMにしては、かなり高音域まで歌い上げている。
 いつしかすっかり目が覚めた私は、迫力のある美しい歌声に聞き入っていた。
 呆気にとられると同時に、幼かった頃を思い出した。

 子供の時によく遊びに行った、祖父母のおうちが好きだった。
 縁側のある和室でのんびりテレビを見ていると時々、祖母の歌声が聞こえてきたのだった。
 鈴みたいに軽やかなその声は、掃除機のたてるごうごうという音の上に歌を紡ぐ。
「雨降りお月さん」、「海」、「春よ来い」。
 祖母も、母も、家事をしながら歌を歌う。
 小さかった私は毎日の生活の中で、数々の歌を教えてもらった。
 祖母は大人しい性格だし、母はカラオケには行きたがらない。
 2人とも「華やかなステージで歌を歌いたい」などという願望があるわけではないのだ。
 ただ心に浮かんだ旋律と言葉。
 誰に聞かせるわけでもない歌声は、なんて心地良くて可愛らしいことだろう。

 
 95歳になった祖母は、もう家事をすることはない。
 「ばあば、前はよく、おうちの仕事をしながら歌ってたね。」
 「そう。ばあばの母さんもね、うちの中のお仕事をしながらいつも歌ってたの。子供の頃から、そうして聞いていたから。」
 祖母は、今でも時折歌を歌う。
 だがその心は、昔とは違う色を帯びている。
 

   
   むかしをかたるか そよぐかぜ
 「若い頃は、平気で、楽しく歌っていたのにね。」
   あそびし ともびと
 「なんだか、じーんと、涙が出るのよ。」
   いま いずこ

 
 ふいに懐かしそうな顔をして、祖母は呟いた。
 「うさぎ おいし って、いう歌もあったわね。」
 「あ、それ。お母さんが、『うさぎ 美味しい』だと思ってた歌だ。」
 そう言うと、寂しげだった祖母はころころと笑った。
 「そうそう。間違えていたのよね。可愛かったし、すごく可笑しかったわ。」
 歌を歌って涙が出たら、小さかった母の、「うさぎ美味しいの話」を思い出して。
 もう悲しいことなんて、ないからね。
 まだ笑っている祖母は、うんうんと頷いた。
 
 いつかきっと私は、思わず歌っている自分に気がつくだろう。
 洗濯機を回しながら。掃除機をごうごうとかけながら。
 我が家のBGM、それはばあばの母さんから受け継がれた歌声だ。

 
 お皿洗い中の熱唱を聞かれているとは夢にも思っていなかった母は、気まずそうに笑った。
 「ところでお母さん、なんの歌、歌ってたの?」
 「森の木陰でドンジャラホイ……っていう歌。」
 祖母とはまたひと味違うその選曲に、ただならぬ個性と力量を感じる。





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