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遠慮をしない。

小さな頃、わたしはどうやら育てやすい子だったらしい。
たまに駄々をこねたりするよその子を見て母がこう言う。

「あなたは、あぁいうこと絶対にしなかったのよね。」

その言葉を聞くたびに、モヤッとしたりチクッとしたり感情が忙しい。
母にもちろん他意はない。
多分ただの事実だろう。
わたしが割と良い子だったのよね。というだけの。

育てやすい子だった?
まぁ、そうだろうよ。と思う。
わたしは遠慮して生きていたからね。

例えば泣いていた時。
「歯を食いしばって!」と泣かないように教えられた。
それでも泣くことがやめられなさそうな時は、歯をカタカタさせながら自分で泣くことを止めようとした。

例えば友達が、わたしが欲しい何かを買ってもらったりした時。
「欲しがらない、羨ましがらない。」と物欲を抑えるように教えられた。
わたしはひとりっ子なので、必要なものや欲したものは与えられていたとは思う。

人を羨んで生きることは、美しくない。
泣いても解決出来ないことがある。

その価値観自体は何ら問題はない。
むしろその視点を植え付けてくれた親にはすごく感謝している。

しているが。
それを身につけた結果、わたしは人に甘えたり弱いところを見せることが出来なくなった。
そして、誰に対しても相手の気持ちをやたらと慮るようになった。
自分の言いたいことは半分ぐらいしか言わなくなった。(え?言ってるじゃんって?アレ、実は半分だったのよ。)

そして、「あなたは育てやすい子だった」と言われるたびに自分の子育てを否定されているような気がして勝手に傷付いていた。
我が子はワガママも言うし駄々こねることもあるし、それをさせてしまうのは親としてどうなのよ。みたいな。
直接そんなことを言われたわけじゃないので、まったく傷つく必要はないと今は思えるんだけどね。

そんなわたしがこの夏なぜか「なんか、もう良くね?」と思ったのだ。

もう今更わたしが、いい子でいることもないんじゃないかという気持ちが芽生えてきた。
周りに気を遣ったり、先回りして色々考えたり。
それ必要なん?と。

思えば誰かが何かを買ってくれるとかの話の時も、ちょっと遠慮したものをリクエストしていた。
外食したとしても、これも食べてみたいけど…でもちょっと高いからやめとこう。とか。

自分が図々しい人だと思われることに、すごく嫌悪感があったのだ。
いいよって言ってくれてるんだから、欲しいものを言ったところで図々しいなんて思われるはずがないのに。
何を恐れていたんだ。

そんなある日、両親が上京してきて焼肉を食べに行こうという話になった。(もちろん親が出してくれる。)
ちょっといいお店に連れて行った。
1杯700円のビールを遠慮なく頼んだ。
ちょっと食べてみたいなーと思ったやつは全部頼んだ。
遠慮しないってこういうことかも。と初めて思った。
それ以降、わたしは両親と外で食事するときは好き勝手に食べるようになった。

そして、この前帰省して、両親と話していたとき。
「わたしさー、ふたり(両親のことね)に遠慮するのやめることにしたんだわ。」と高らかに宣言してみた。

今後、息子入学がらみでも色々とお金がかかるであろうこと。
義実家と息子の何を買う?とかで揉めたくないこと。
それならばいっそお金で貰った方がありがたいこと。
色々なことを話して、何かから少し解放されたような気持ちになった。

両親に宣言したことで、世界全部に対して遠慮しなくていいなと思えてきた。
つまり、これから先はぶちかましていくということだ。

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