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〈セゾン文化〉について改めて考える


「脱埋め込み」と「再埋め込み」

 前記事(「「脱埋め込み」への異議申し立て」)において、主に松原淳氏の『建築家の解体』を引用しつつ「場所と空間の違い」や「脱埋め込み」という概念について説明したが、松原氏は「脱埋め込みは再埋め込みを伴いながら進行する」とも述べている。なぜなら、「脱埋込みが進行すればするほど、人々は慣れ親しんだコミュニティに根ざした安心感や親密感を担保してくれる「場所」に包摂されたいと望むようになる(松村『建築家の解体』p.216)」からである、と。

 「再埋め込み」とは、「脱埋め込みを達成した社会関係が、時間的空間的に限定された状況のなかで再度充当利用されたり作り直されたりしていくこと」であるとされる。「安全・安心や機能性・合理性・効率性を追求した生活圏は、息苦しさを伴う。そうした閉塞感を緩和するために自然的要素や親密さに溢れたコミュニティなどが希求される。こうした要素を空間の中に埋め込んでいくフェーズも再埋め込みである。いわば空間の中に場所を埋め込んでいくのである。」と松村は言う(松村前掲書p.273)

「再埋め込み」としてのセゾン文化

 「「空間」の中に「場所」を埋め込んでいく」という表現から私が思い起こしたのは、1970〜80年代にかけて一世を風靡した〈セゾン文化〉である。〈セゾン文化〉については前記事でも言及したが、西武流通グループが池袋と渋谷を中心として展開した文化戦略の総称である。

 西武流通グループの総帥・堤清二氏は、その本拠地である池袋のまちを「文化」の拠点とすることを企図して、1975年に西武池袋本店最上階に「西武美術館」を開館させる。当時の百貨店系美術館としては珍しく自館の学芸員を擁し、先鋭的な企画展を数多く開催した。堤清二氏は同美術館のこけら落としとなる「日本現代美術の展望」展の図録に「時代精神の根拠地として」という一文を寄稿している。以下にその一部を引用する。

1975年という都市に東京に作られるのは、作品収納の施設としての美術館ではなく、植民地の収奪によって蓄積された富を、作品におきかえて展示する場所でもないはずです。それはまず第一に、時代精神の根拠地として機能するものであることが望ましいとすれば、美術館は、どのような内容を持って、どんな方向に作用する根拠地であったらいいのか。
                                           (中略)
この美術館が街のただ中に建っているということは、空間的な意味ばかりでなく、人々の生活のなかに存在することに通じているべきだと思います。
                                          (中略)
美術館であって美術館ではない存在、それを私達は”街の美術館”と呼んだり、”時代精神の運動の根拠地”と主張したり、また”創造的美意識の収蔵庫”等々と呼んだりしているのです。

堤清二(1975)「時代精神の根拠地として」「日本現代美術の展望展」図録

 「街の美術館」「空間的な意味ばかりでなく、人々の生活の中に存在すること」、そしてなによりも「根拠」という表現に、堤氏が池袋という「空間(space)」に美術館という文化の拠点=「場所(place)」を埋め込もうとしていたのではないかと私には思えてならない。

 セゾングループは同時期に渋谷にも文化の拠点を埋め込むべく活動を展開していた。当時はまだ「区役所通り」と呼ばれていたさびれた場所に1973年に渋谷バルコと西武劇場を開業して通りの名を「公園通り」と改称、その後パルコパート2(75年)、パート3(81年)、クアトロ(88年)へと、ファッションだけでなく劇場やライブハウスなどの拠点を、点から線、線から面へと展開することで、公園通り一帯、のみならず渋谷のイメージを「若者の街シブヤ」へと大きく変えることに成功した。

 このように、池袋と渋谷は、「脱埋め込み」が進む東京において、セゾングループという一民間企業が「まちの個性」を演出する(特定の「場所の意味」を「再埋め込み」する)ことに(一時的にとはいえ)成功した事例であると評価することができるのではないだろうか。

 しかし、その後バブル崩壊を受けてセゾングループは経営が悪化し、堤清二氏は1991年にグループ代表から退き、西武百貨店はセブン&アイ・ホールディング傘下に、バルコはJ.フロントリテイリング傘下に入ったのは周知のとおりである。セゾングループ亡きあと、池袋や渋谷の街はどうなっただろうか。もちろん相変わらずどちらのまちも多くの人でにぎわっている。渋谷については東急グループが、池袋については東京建物グループがそれぞれ中心となって大規模な都市再開発が現在も進行中である。しかし、文化とか流行の発信地という観点で見ると、どちらの街も80年代のような磁力を失ってしまっているように感じてしまうのは私だけだろうか。

多孔化する現実空間

 考えてみると、ある特定の都市空間の付加価値を向上させる(集客力を高める、不動産の賃料を高めるetc)ために意識的・意図的にまちの魅力だとか個性を創り出すということ自体が、もはや無理な時代になりつつあるのかもしれない。

 鈴木謙介氏は、スマホやSNSの普及に伴って、「現実の空間に付随する意味の空間に無数の穴が開き、他の場所から意味=情報が流入したり、逆に情報が流出したりする」ことを「空間的現実の多孔化」と呼び、「多孔化した現実空間においては、同じ空間に存在している人どうしが、互いに別の意味へと接続されるため物理的空間の特権性が失われる」と指摘する(鈴木『ウェブ社会のゆくえ』p.137)。

空間的現実の多孔化(鈴木前掲書p.137より転載)

 セゾン文化が一世を風靡した1970〜80年代においては、まだ情報通信機器の利用が一般的ではなかったため、人々は特定の場所に実際に足を運びそこに身を置くことでしか、その場所が持つ固有の意味を体験・体感することができなかった。だからこそ、セゾングループは文化や流行といった情報を、「ここにしかない(ほかにはない)」というかたちで池袋や渋谷といった特定の「場所」に「埋め込む」ことを通じて、「物理的空間の特権性」を強化することで自社の就業施設が集積するエリアの価値を高めようとしたわけだ。しかし、情報通信機器の発達とソーシャルメディアの普及を通じて、人々はわざわざ西武美術館に行かなくても最先端の現代アートに関する情報を入手することができるようになったし、わざわざ渋谷パルコまで出向かなくても流行のファッションを身にまとうことができるようになった。

 「情報通信技術が空間の意味を書き換えることで生じる現実の多孔化は、人々の間で空間の意味を共有することを困難にしていく」と鈴木は言う(鈴木前掲書p.183)。セゾングループが1970〜80年代において池袋や渋谷において取り組んだ、都市空間の価値創造の取り組み〜進行する「脱埋め込み」に対して新しい場所の意味を上書きするという「再埋め込み」の試み〜が潰えたことは、は、一見するとセゾングループの経営不振によるもののように見えるが、実は情報化の進展がもたらす現実空間の多孔化の帰結であったと見るべきであろう。

都市空間の均質化は止まらない

 実際問題として、セゾングループの後、少なくとも民間企業のレベルでは、特定の都市空間に新たな意味を上書きすることでエリアの魅力を高めようとする「再埋め込み」に取り組もうという野心的な企業は現れて来ない。情報化の進展に伴って生じる「空間的現実の非特権化」の流れに抗うことはもはや無理だということなのだろう。

 だから、近年の都市開発においては、まちの魅力や個性といった「場所の意味」をエリアに新たに上書きするという「無駄な努力」をするのではなく、逆に、都市空間の「脱埋め込み」を所与として、つまりエリア間の差異が均質化していくことを前提として、その中でいかに収益を上げていくかという方向へのビジネスモデルの転換が進んでいる。具体的には不動産をREITやファンドなどの投資家に保有させ、その運営(アセットマネジメントAMやプロパティマネジメントPM)でフィーを稼ぐというビジネスモデルだ。加えて、2001年から始まった政府の都市再生プロジェクトが、都市空間の「脱埋め込み」の流れをさらに加速する。
 
かくして都市空間の均質化はますます進んでいくこととなる。


【参考文献】

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