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蝦名芳弘を探して 第二回

 岩堀喜之助は「平凡」を創刊した際、大政翼賛会で知り合った元電通マンの清水達夫に内容のすべてを任せた。朴訥なユートピア主義者の岩堀ではなく、日本橋生まれの江戸っ子で欧米好きな清水こそマガジンハウスの創業者と見なす考え方が現在では主流となっている。事実「平凡パンチ」も「アンアン」もコンセプトを考えたのは清水なのである。しかし1985年に刊行された清水の自叙伝「二人で一人の物語 マガジンハウスの雑誌づくり」を読むと、清水が岩堀なくして自分は存在しえなかったと考えていたことがわかる。その狂おしいほどの愛は、宮崎駿が抱く高畑勲へのそれに等しい。
 清水の両腕と言われたのが、木滑良久と甘粕章である。両者は社内で競い合ったが結局、清水は立教大の後輩にあたる木滑を後継者に選んだ。本書にも木滑および彼の腹心である石川次郎は登場するが、甘粕には触れられていない。
1984年の東大五月祭で東大俳句会が主催したシンポジウムに招かれるエピソードが興味深い。招聘理由は、清水が自らコンセプトを立てた最末期の雑誌「鳩よ!」が刊行されたばかりだったからである。ところが清水は『「鳩よ!」の編集長の方が本命で、むしろ、私はその介添役ということなのであろう。』とまで書きながら、編集長の名を文中に記さないのである。その人物こそ、甘粕の腹心だった蝦名芳弘なのだ。
 そんな邪険な扱いをしながら、清水が「鳩よ!」を甘粕ー蝦名ラインに委ねざるをえなかった理由も本書を読むとわかる。清水は高校生の頃、モダン文学作家として一世を風靡していた竜胆寺雄の主宰するアマチュア文芸サークルに属していたらしい。たしかにモダン文学のオプティズムや資本主義肯定感、そして軽やかさはマガジンハウスの雑誌に通底するものだ。だがそんな元・文学青年によるルーツ回帰的な雑誌作りを任せるには編集者に文学的なセンスが不可欠である。それには木滑ー石川ラインよりも、東大仏文科卒で、「週刊平凡」のライター時代の向田邦子に文章の書き方を伝授したという甘粕、そしてオリーブ文体を発明した蝦名の方が適任と判断したに違いないのである。

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