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蝦名芳弘を探して 第六回

 マガジンハウスの社内事業として塩澤幸登が「平凡パンチの時代」を書いている時、「僕も会社を辞めたら、あの頃の思い出話でも書いて、本を出したいと思っているんだよ」と話しかけたのが、当時社長だった赤木洋一である。その赤木は退社後に公約通り「平凡パンチ1964」を書いた。彼は塩澤が意図的に軽視した創刊時の「パンチ」でヒラ編集者を務めていたのである。
 本書について、塩澤は「平凡パンチの時代」において「生涯を平社員として過ごした人が書いたような本。とても元社長が書いたとは思えない」と批判している。だが日経新聞でもあるまいし、元社長が自らの功績をアピールするような文章を一般人が楽しめるだろうか? アブソリュート・ビギナーズの視点からありし日の平凡出版の活気や面白エピソードを描いた方が魅力的な本になるに決まっている。本書はそうした目的を果たしている。特に「パンチ」主催のパーティにおける岡田真澄のハンサムなプレイボーイぶりは最高。こういう話こそもっと知りたい。
 塩澤が本書に良い感情を抱かなかった真の理由は別のところにあると思う。一点は甘粕章が頼れる兄貴分として出てくること(赤木は明らかに木滑より甘粕と親しい)、そして赤木が「HEIBONパンチDELUXE(通称、パンデラ)」に大々的に触れていることだ。赤木は1965年以降、この隔月刊誌の編集部に所属していたのだ。本書を読むと、「パンデラ」の存在が、椎根和と塩澤が築いててきた「平凡出版の雑誌はある時期まですべて清水達夫、それ以降は木滑良久の創作物」という伝説にとっていかに邪魔な存在かが分かる。


 「パンデラ」を企画して編集長を務めたのは、1952年に平凡出版に入社し、初期「パンチ」では副編集長を務めていた伊勢田謙三という人物である。清水達夫は表紙を大橋歩が描くことと付録を付けること以外、口を出さなかったという。しかし「パンデラ」こそが後のマガジンハウスの男性誌のプロトタイプだった。小林泰彦や横尾忠則、高田賢三、高木弓が平凡出版の発行物で活躍するようになったきっかけは、後年の「ブルータス」の世界観を先駆けていたこの雑誌にある。木滑編集長時代のサブカルな「パンチ」(1967年〜)は「パンデラ」の試行錯誤の成果を吸いあげたものだった。内容が被った「パンデラ」は部数が低下していき70年頃に休刊、赤木は「アンアン」に異動する。
 一方、伊勢田は、70年代に部数が低下していた「パンチ」本体の編集長に就任すると、逆にサブカル路線からグラビア中心に切り替えて部数をあっという間に立て直し、80年代初頭まで「パンチ」関連の発行物の責任者として活躍した。つまりひとつのスタイルに囚われないプロの編集者だったわけだ。しかしそんな伊勢田の名は現在マガジンハウスの歴史を振り返るとき語られることはない。そう、歴史から抹殺された名編集者は蝦名芳弘だけではないのである。


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