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蝦名芳弘を探して 第四回

   1960年代以降の清水達夫は雑誌のコンセプトとタイトル、デザインを決めるだけで、内容は部下に任せるようになった。椎根和と塩澤幸登の著書の問題点は、木滑良久と石川次郎を賞賛しようとするあまり、ふたりが関わった雑誌は史実通り「清水に全権を任されていた」ことにする一方、甘粕章ラインの雑誌は「清水本人がやっていた」ことにしがちなことである。
  「平凡パンチの時代」は特にその傾向が強く、1964年創刊の雑誌についての本でありながら、記述が、木滑編集長時代(1967〜70)に極端に偏っている。それでも塩澤本人が当時若手社員だったら、メモワールということで許せるのだが、1970年入社の彼は1980年代後半になるまで「平凡パンチ」には関わっていないのだ。当時の関係者インタビューは貴重だし、木滑、石川、椎根の三人が編集部に在籍していたこの時期こそがその後のマガジンハウスの男性誌の原点(1976年創刊の「ポパイ」はこの時代のパンチのリユニオンなのだ)と主張したい気持ちも分からなくはない。しかしそれならば特集班キャップだった甘粕が企画を含めて仕切っていた創刊時代にも触れないとフェアではないだろう。
    事実、マガジンハウスの社内事業として作られたこの本の最初のバージョンは、社内で内容が問題視されて発行が一年以上塩漬けになっていたという。河出書房新社から2009年に再刊されたこのバージョンの編集後記では、塩澤がその経緯を書き立てており、当時のマガジンハウスに呪詛の言葉を投げかけている。ここで疑問が浮かび上がる。木滑と甘粕の戦いは前者の勝利に終わったにも関わらず、なぜ塩澤が苦境に立たされているのだろうか。そのことについてはまたいつか。
ちなみに蝦名芳弘だが、甘粕の下で「パンチ」特集班で働き、甘粕の異動後も編集部に残り、木滑時代にはキャップに昇格している。つまり塩澤が讃えるこの時期の斬新な特集記事にも深く関わっていたはずなのだが、名前すら登場しないのである。

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