見出し画像

立花座小史:明治中期札幌の劇場界を駆け抜けた4年半



※長文を読むのが面倒な方は 1,4,5章を読むと「水天宮にあった『立花座』と刻まれた石について」の概要が分かります。また立花座だけについてを読みたいのであれば、3,6〜10章を読むと立花座についての概要が分かります。
※※この記事は2017年4月以前に書かれたものをベースに、2024年9月に若干修正したものです。文意自体は変わっていません。

はじめに:「立花座」との出会い

 出会いはいつも突然だ。

 札幌市が発行した「鴨々川・創成川 川めぐりマップ」の出来がよいので、札幌オオドオリ大学ジオ部(注1)の有志で実際にマップに沿って川めぐりを楽しんだ。古い河道の跡を示す微地形を観察したり、旧水路に沿った鍵の手状の小路を歩いたり、とても有意義な街歩きだった。マップ製作者の方は、是非ジオ部に参加するべきだ。というか勧誘したい。

 そんな街歩きの途中で立ち寄った水天宮。ふと見ると、参道の横に黒ずんだ二基の、灯籠の台座とでも言えばいいのだろうか、とにかく何かの大きな石がひっそりと置いてある。四周を見ると、市川なにがしやら尾上なにがしやらの、いかにも歌舞伎役者風の人名と、ひときわ大きくぼってりとした筆跡で寄進者名と思われる「座?立」という3文字が読み取れた。その場では読みきれず、帰宅して調べた所、「座芲立」であった。芲=花。つまり現代風に言えば「立花座」だ。さあこれは劇場か寄席か、とにかくそういう関係だろうと手持ちの資料を漁ると、1888(明治21)年に伊藤辰造という人が立花座を開業したとある。これだ!

 劇場関係者が何かの折に寺社へ寄進することは、十分ありえることだろう。しかしなぜ、水天宮だったのか。そしてそれはいつのことだったのか。写真を十分に取ってこなかったことが悔やまれる。また、立花座や伊藤辰造という人物も気になる。

 そう、私は水天宮で立花座と出会ってしまったのだ。後には引けない。調べたから何になるというわけではないが、「郷土史研究家」を自称する以上は、立花座と伊藤辰造について調べるしかない、いや調べたい。そう思った。


(注1) 札幌オオドオリ大学ジオ部:札幌オオドオリ大学は特定非営利活動法人。ジオ部はその中でも地理や地図が好きな人達の集まり(部活動)。この街歩きは2015年11月14日(土)に行われた。

1.調べてみた

 さっぽろ文庫や札幌市史をはじめとする、様々な文献資料、札幌市公文書館の新聞記事スクラップや近代デジタルライブラリーなどWebで参照できる史料、北海道立文書館での文書調査などを経て、立花座と伊藤辰造について出来る限り調査してみた。

 その結果、立花座について分かったことをまずは簡単にまとめ……られればいいのだけど、立花座が、というより伊藤辰造その人が波乱万丈な人生を歩んできたことが判明してしまい、とても簡単にはならないのであった。強引に立花座の初めと終わりだけをまとめると、

1881(明治20)年12月7日:開業(明治21年ではない!
1886(明治25)年5月4日:札幌大火の際に消失

となる。4年半という短い期間に立花座は座主・建主を何度か変えながらも「大黒座」(注2)と並ぶ札幌の二大劇場として名を馳せ、この2行には収まりきらない様々な出来事が起こり、そして呆気無く幕を下ろした。


(注2)大黒座:「大黒座」の前身は札幌で最初の劇場とされる「秋山座」(1871(明治4)年、南5西5、座主秋山久造)。その後位置や経営者が度々変わり、1880(明治20)年の時点では「大黒座」として池田新七の所有になっている。

2.立花座開業までの伊藤辰造


〔図1:伊藤辰造肖像『北海道人名辞書』大正3年刊より〕

 立花座を開業するまでの伊藤については、はっきりしないことが多い。そもそも来道の経緯が明確ではない。

 人名事典等に依ると、伊藤は神奈川県橘樹(たちばな)郡生田村稲毛郷の名主の次男として、1859(嘉永3)年に生まれた。早くから海外へ目を向けていたらしく、上海・香港・シンガポールを回る船に乗り組み渡英を志していたが、病気のためやむなく帰国した。

 その後が問題なのだ。複数の文献に、「明治4年開拓使外事課雇として来札、明治5年ケプロン来道の際に西洋洗濯の必要性を開拓使が感じ、明治6年伊藤を開拓使用度課へ雇い西洋洗濯の任務に当たらせた」という意味のことが(多少の違いもありつつ)書かれている。
 このことについて、明治7年7月1日から8月3日までの、お雇い外国人ケプロンのシャツやズボン、ハンケチやソックス、カラーやハラマキなど様々な衣類や布類の洗濯を、合計225品(おそらく延べ枚数)8円55銭を、開拓使用度課へ請求している記録が残っている(注3)。なおこの頃ケプロンは三回目の来道中であり、小樽や石狩などへ行き港や道路等の工事視察、また花畔辺りの屯田兵予定地(ここは実際には屯田兵移住はなされなかった)の視察など、精力的に活動している。従って、明治7年のこの時点で、伊藤はケプロン付きの洗濯係として、開拓使用度掛御雇の身分であったことは間違いない。しかし、道立文書館にある開拓使の雇・御用係も含めた開拓使関係者の目録には、伊藤辰造の名はない。この目録に出ていないということはほぼ確実に、開拓使に公式に(◯等出仕などの形で)雇われはていないということを意味するが、今で言う臨時職員のような形での「御雇」という雇用形態があった可能性がある。

 また、1875(明治8年)8月25に札幌学校(=後の札幌農学校)の生徒の衣服洗濯方として「洗濯屋 伊藤辰造」が雇われている(注4)。札幌学校はこの年の9月7日に、東京から移ってきた開拓使仮学校を引き継ぐ形で開校した。その時のスタッフとして伊藤は名を連ねていたのである。

 この時期の伊藤についてより詳細に明らかにするには、明治5~6年の伊藤の足跡、特に西洋洗濯職として開拓使の雇としての実績を、開拓使文書などから丹念に追っていく作業が必要となるであろう。


(注3)ケプロンの洗濯請求書:北海道立文書館所蔵 請求記号:簿書/6786『略輯旧開拓使会計書類 第四号 第八百八十八札(回議留)』の件番号126「明治7年札幌本庁繰替払ノ教師ケフロン食料品其外買上代戻入ニ付出方ノ件」

(注4)札幌学校の衣服洗濯方:北海道立文書館所蔵 請求記号:簿書/6118『開拓使公文録 儀式・学制・外事・文書・職官 明治八年』の件番号6「札幌学校(中略)更ニ生徒衣服類洗濯方トシテ伊藤辰造雇入ノ件」

3.「橘座」開業

 ここで話は1873(明治6)年に遡る。その年に開業した東座(あずまざ。南2西2)は、初め松本代吉(注5)が、次いで石川正叟(注6)が座主であったが、さらに1886(明治19)年に土岐新四郎へ譲渡された。しかし、土岐の事情により劇場「大黒座」の持主である池田新七(注7)へ、抵当に差し入れられることとなった。

 しかし東座と大黒座は共に劇場、つまり同業者=商売敵であり、池田にとっては何かと不都合があった。そこで伊藤が、1887(明治20)年春、土岐の金を立て替え(明治20年9月16日北海道毎日新聞)、東座を引き取ることとなった。

 ところでこの間、伊藤は何をしていたのだろう。明治8年の段階で西洋洗濯屋として借りていた旧官舎は、翌9年に開拓使から払い下げを受け、営業を続けている(注8)。1878(明治11)年3月には、洋食店を開業する為の準備として開拓使からラセン(敷物)3枚の払い下げを申請している(注9)。
 1879(明治12)年には、冬2月に出産した貧乏な夫婦へ、綿入れなどを恵んだことが記録に残っている。私設札幌消防組一番組の組頭を勤め始めたのもこの年だ。札幌学校の洋服洗濯を引き受けてから10年後の1884(明治16)年、伊藤は西洋洗濯の事業を堤敬治郎に譲り、翌明治17年には洋服裁縫店を開業したようであるが、これまた実際に開店したかどうかは不明である。
 なお、同17年6月11日には古物商営業願を札幌県令調所廣丈宛に提出し、「願ノ趣聞届監察下渡候事」と願いが聞き届けられている(道立文書館 簿書/8990 『札幌県治類典 営業取締 合五冊 第四 明治十七年自五月至九月』件番号24)。

〔図2:『札幌繁栄図録』(明治20年)より伊藤辰造宅〕

 こうした動向から思い描く伊藤の人物像は、義侠心と起業への意欲に富み、消防組の組頭を務めるなど親分肌で頼りにされており、また貧しい人には私財を惜しみなく差し出すような人物であると筆者には感じられる。しかし、前述のとおり明治20年に土岐の負債を立て替えることになり、その結果伊藤の家産が傾いたようである。ともあれ、ここでようやく、立花座と伊藤辰造がつなが……らない。つながるのは、もう少しだけ先になる。

〔図3:立花座(橘座)の位置「札幌市街之図」(明治22年)に筆者加筆〕

 東座を譲渡された伊藤は、そのまま居抜きで営業を再開したわけではなかった。いったん東座を取り壊し更地にして、跡地(南2西2)へ劇場を新築したのである。
 建物は西洋造りで内部は「前面は小判なりに手摺を張り出し」、東西とも舞台の見やすさに工夫をこらし、「後面は間毎に唐戸を立て土間はその床下を高くしすべて上等の敷物を入れ」た。また、「土間の中央にて看客の山を押分けてせりあげの器械を設け自由に見物を引っ張る工夫」や「中乗は真に虚空に舞うて居る」ように改装した。つまり、単なる舞台ではなく、大遠具や登場人物をせり上げたり宙を舞わせたりといった、大仕掛を導入したのである。さらに屋上には汽船の如きデッキを張り四方に鉄柵を設けて観客にが月見や雪見をできるようにした。当時としては相当にモダンな劇場だったようである。また衛生面にも気を配り、便所には豊平川から水を引き、匂いの発生しないように配慮した(明治20年10月30日北海道毎日新聞)。落成の上は「寿座」と改称すると当初は予定されていたことを思わせる報道もある(明治20年10月30日北海道毎日新聞)。

 このように開業準備を整え、1888(明治20)年12月7日、「橘座」として開場した。そう、「立花座」ではないのである。但し、新聞紙面上でも、まだこの時期は「橘」「立花」両方の表記が見られ、実際にはどちらでも通用していたのかもしれない。本稿では劇場名の表記について、第6章までの時期を「橘座」、第7章以降の時期を「立花座」と区別しておく(詳細は第7章参照)。
 なお、当初は12月5日開業予定であったが、ライバル大黒座の改名一周年記念興行が5日に行われるというので、日取りを延期しての開業となったようである。開業時には、地元俳優以外にも東京より中村竹三郎、中村芝幸、中村芝鶴、中村時三郎など5人を呼び寄せる力の入れようであった。なお、「橘座」という劇場名の由来は定かではないが、想像をたくましくするならば、伊藤の出身地である橘樹(たちばな)郡から採ったのかもしれない(注10)。時に伊藤38歳(数え年)であった。


(注5)松本代吉:侠客。旅籠渡世(=旅館)を営んでいたが、東座を建設。その隣で一杯屋をやっていたらしいが、そこにはお酌をする白塗りの女性も居て、男性客の袖を引くなどということもあったようだ。狸小路の語源(狸=白首の異名)の一説ともなっている。
(注6)石川正叟:1826(文政9)年江戸の商人の子として生まれる。1872(明治5)年、東京為替店の札幌支配人として来道。札幌における最初の会社組織である馬車運送会社を設立。また旅館業やマッチ製造業などを手がけ、札幌における民間事業の先達として幅広く活動した。札幌で初めての新聞社である創成社をつくり「札幌新聞」を発行したのも石川である(これはおよそ1年で廃刊)。1888(明治21)年没。
(注7)池田新七:1845(弘化2)年、近江国に生まれる。1856(安政3)年江戸に出て、豪商饗庭又兵衛の店員となる。1856(安政6)年、横浜へ出て、榎本六兵衛の店員となる。主人の榎本は後に開拓使保護のもと札幌で官庁用達及び住民への資金貸付を行うが、この時選ばれて1871(明治4)年札幌に来たのが池田である。その後、マッチの軸木製造業を経て、1886(明治19)年に南4西3にあった劇場遊鶴座(長谷川某所有)を買収、大黒座と改めた。札幌区総代人など公職にもついたが、1891(明治24)年没。大黒座は、座主がその後竹前覚司を経て1896(明治27)年には若狭謙吉へと移り、繁栄していく。
(注8)西洋洗濯業:実店舗については、南2西2の旧官舎を改装して使用していたと思われるが、南2西5に店舗があったとする文献もあり、はっきりしない。
(注9)敷物の払い下げ:西洋料理店開店の普請は出来ているが座敷の敷物としてラセンの払い下げを願い出ている。この願出に対する可否や、実際に西洋料理店を伊藤が開業したのか否かについては明確な裏付けがとれていない。
(注10)橘樹郡:橘樹(たちばな)郡は現在の横浜市の一部及び川崎市の一部に相当する。昭和13年消滅。

4. 水天宮との関係

 ところでこの頃(明治20年)の水天宮は、どういう状況だったのだろう。

 宮司さんに話を伺ったところ、快く応対していただいた。最初は南2西4のあたり、今の水野メガネ店さんのあたりにあったのだけど、後に今の場所に移ってきたと仰っていた。南2西4なら立花座の位置にも近く、伊藤の住居があった南2西3とも近い。なるほど、それなら水天宮に奉納するのも納得……かと思われたのだが、北海道神社庁のWebサイトを見ると、水天宮は1885(明治18)年に鴨々川沿いに移転してきているのだ。現在地(南9西4)に社殿を建てたのは1888(明治21)年。単純に「近い」という理由は成り立たなくなってしまった。

 実は宮司さんも、この石が水天宮にある理由などはご存知ないそうで、氏子さんと集まった際にも話題には出たもののご存じの方はいらっしゃらなかったそうである。とはいえ、元々はご近所さんであったことは事実であり、そうした付き合いの中で奉納されることになったのかもしれない。

(この項、新聞記事によって加筆予定)

5. 水天宮の立花座石

ここで、運命の出会い(?)となった、立花座と彫り込まれた灯籠の台座のような2基の石(以下、立花座石と略記する)の各面を詳しく見てみることにする。

〔写真1:水天宮本殿と立花座石の位置関係〕
※写真は筆者撮影、下部のURLは現在無効(以下同じ)

 写真1のように社殿に向かって左側に2つの立花座石が置かれている。それぞれの向きは正反対で、向かって右側(以下、石Aと略記)は「座芲立」(=立花座)の文字が社殿に背を向けており、従って写真にも写っている。一方、向かって左側の方(以下、石Bと略記)は反対に社殿に「座芲立」の文字が向いている。石A・石Bともに、三方にはそれぞれ文字が彫られている。

 以下、石A及び石Bについて、「座芲立」以外の三面をそれぞれ見てみよう。読める範囲で翻刻を試みたが、欠損もあり、全てを完全に読めたとは到底言えない。間違いも当然あると思われるので、X(旧ツイッター)の@yanapong あるいは yana_pong アットマーク hotmail ドット co ドット jp までメールで是非ご指摘いただければ幸いである。なお、判読出来なかった箇所は□で表している。

5.1 石A

〔写真:石A右側面〕
〔石A右側面の翻刻(案)〕

 比較的読めるが左端2名の部分に欠損がある。尾上・中村・坂東・市川など役者らしい苗字が並ぶ。中村駒五郎は「なりこまや」として贔屓が多かったようだ。尾上夛之助(田之助)は垢抜けた女方とされている。

5.1.2 背面

〔写真:石A背面〕
〔石A背面の翻刻(案)〕

 全ての面の中で最も読めない面。この石を奉納する世話人について書かれていると思われるが、浅?の部分は半分欠損しているので他の文字の可能性もある。また老?の部分は岩かもしれない。そうすると岩内通(注11)となり、そこだけは意味がつながる。但しその上の浅?とは繋がらないが……。いちよ留(る)も意味がとれない。柴は世話人の略称か。

5.1.3 左側面

〔写真:石A左側面〕
〔石A左側面の翻刻(案)〕

 この面も役者名や関係者名だろうか。丸に亀は、当時の屋号を調べると南4西3の農具製造販売業藤原亀蔵が使用しているが、該当するか否かは不明。一番右側の□は、松の異体字「柗」かもしれない。だとすれば「松(柗)本清次朗」と読める。

5.2 石B

5.2.1 右側面

〔写真:石B右側面〕
〔石B右側面の翻刻(案)〕

 この面も、役者名・関係者名であろう。左から3人目は齋の字のみやや欠損していて確実ではないが、ほぼこれでよいと思われる。

5.2.2 背面

〔写真:石B背面〕
〔石B背面の翻刻(案)〕

 左端に一人だけ氏名が掘られている。石屋だろうか。

5.2.3 左側面

〔写真:石B左側面〕
〔石B左側面の翻刻(案)〕

左から、伊東辰造は伊藤辰造だろう。その右側に小さく何か彫られているが、殆ど読めない。尾上幸笑は東京下りの座頭(役者の取りまとめ役)、沢村紀久寿は立女形(注12)。市川滝太郎は旧来からの地元役者、市川新蔵は東京下りで共に中々の人気だったそうだ。この面は役者・関係者の中でも重要な人物が多く彫られているように感じた。


(注11)岩内通:現在の西11丁目通に相当する。
(注12)立女形:一座で最高の女形のこと。

6. 最初の罹災

 橘座の話に戻ろう。

 年が明けて1888(明治21)年1月20日には、座主が笠原文治へと変わる(明治21年1月13日北海道毎日新聞)。笠原は、薄野で花月楼という貸座敷を経営している人物で、札幌ではちょっとした名物漢であった。花月楼は、昇月楼・北海楼等と並ぶ薄野遊郭でも有名な貸座敷の一つだが、この時なぜ笠原が座主になったのかは不明である。

 橘座あるいは立花座は、この「座主」や、後述するように「建元」がしばしば変わるのだが、その詳細は今のところわからない。劇場の経営者はあくまで伊藤辰造であり、具体的な俳優及び演目の手配など興行一切の現場を司る人物が入れ替わっているのか、経営自体も別人になっているのか、はっきりしないのである。ただ、最後まで伊藤が橘座=立花座に関わり続けることは確かである。

 その僅か2ヶ月後の3月19日。南2条西2~3丁目に火災が発生し、橘座も全焼してしまう。火元は南2西3で、出火は午後10時。橘座はこの日興行中だったが、出火時はちょうど幕合だったため観客は無事だった(明治21年3月21日北海道毎日新聞号外)。

7. 再建「立花座」と度々の建元変更

 全焼から2ヶ月後の5月に、早くも劇場は再建された。

 再建に当たっては、座付俳優の尾上三喜三郎が青森・弘前・函館から俳優6名を連れてきている(明治21年5月19日北海道毎日新聞)。ちなみに、座主は伊藤辰造へ戻っている(明治21年5月9日北海道毎日新聞)。

 新築された劇場は間口9間(≒16.4m)、奥行21間3尺(≒39m)、土間は48坪、桟敷鶉にして42間(花道の両側に桟敷がある)、花道8間(≒14.5m)。5月23日に上棟式、24日に舞台開きを行った。

 そして、この新築された二代目劇場こそが「立花座」だったのである。つまり当初「橘座」だったのが焼失再建をきっかけに「立花座」へと改名したことになる。どの文献にも「立花座は明治21年開業」とある理由はこの点にあったのだろう。しかし実際は前年明治20年から、但し「橘座」という名称で、開業していたのである。

 ともあれ、ここでようやく本当に、伊藤辰造と立花座がつながったのである。ちなみに、この再建以後は、新聞紙上でも「立花座」で統一されている。

 再開当日(24日)の演目は二転三転した模様で、当初は狂言「弓勢智勇の源」だったのが(明治21年5月19日北海道毎日新聞)、狂言「江戸桜縁の紫黒手組の助六」中合「源平咲分躑躅(つつじ)扇屋の段」より「玉織庵室熊谷蓮生坊物語」に変わり(明治21年5月22日北海道毎日新聞)、しかし当日の演目は狂言「操の松女児雷也」大切「名吉原孝女の讐討(なもよしわらこうじょのかたき)」であった(明治21年5月26日北海道毎日新聞)。特に新しく一座に加わった中村路若の児雷也は喝采を浴びたという。

 ところが、開業から3ヶ月ほど経ったころ、立花座を同町新盛楼の西谷権次郎が引き受け興行するという広告が北海道毎日新聞に掲載された(明治21年8月7日北海道毎日新聞)。新盛楼は会席料理屋であり、明治19〜20年には大黒座の仲茶屋(食事などの売店)を引き受けていたこともある。西谷は、記事には明記されていないが建元ということだろうか。伊藤は座主として経営者で在り続け、一方で舞台・演目・俳優に関する実務は建元である西谷が行うこととなったのであろうか。それとも伊藤は当時既に消防組や区総代人など公職で多忙なため(注13)、一応の所有者ではあったものの実質的には西谷のような代理人に建元として全てを任せていたのだろうか。詳しいことはわからない。

 西谷が建主となった立花座の開業式は8月9日より四日間行われた。出し物は、狂言が第一番目「扇々万歳曽我」、中幕所作「須磨の浦松風村雨」「小稲半兵衛道行」、大切「蝶花形名歌嶋台八つ目)」。俳優は「替名助六、清正(い十郎)佐五平、新右衛門(芝幸)右衛門、権兵衛(三喜三郎)兵部(梅崎)修治、葉末(路若)白玉(芝喜三)花里(喜見三)真弓(いてう)揚巻(歌芝久)門兵衛(内匠)仙平(い三造)其他所作は松賀連(注14)にて此平(小蝶)松風(きよ)行平(つや)村雨小稲(小勝)半兵衛(末吉)」と新聞記事にある(明治21年8月7日北海道毎日新聞)。

 建元変更は、その後も続いた。
 明治22年4月23日より木戸銭放楽(=無料)で興行し、26日より大道具や器械等の新調の為、5,6日休業した(明治22年4月25日北海道毎日新聞)。その後5月1日より5日間開業式として正午より開業した。この時は東京より市川弁歌他二名を呼び出演させた。この5月1日から建元の名が伊原林平と変わっている(明治22年4月25日北海道毎日新聞)。
 また、同年11月17日より再び新盛楼(西谷)が立花座の建元となるという広告が出た(明治22年11月16日北海道毎日新聞)。こうした建元の変更に際して、連続的に(伊藤―西谷―伊原―西谷と)建元が変わっているのか、それとも一時的な交代(代理)なのかは明確でない。


(注13)公職で多忙:伊藤は1879(明治12)年から札幌消防組一番組組頭を、また1887(明治20)年以前より札幌区第一部の区総代人(地域によって第一部から第五部まで分けられていた)を務めていた。
(注14)松賀連:当時札幌にいた踊の師匠松賀亀治の門下生か。(明治21年5月22日北海道毎日新聞)

8. 立花座内の日常風景

 ところで、立花座の日常風景はどうだったのだろう。

 座内の茶店は、明治21年9月14日より狸小路の天狗寿し魚清が引き受けることとなった。下記はその時の広告(注15)。

今般同座内茶屋を引き請け、御料理割烹その他一式これまでよりも一層念入に致し御便利を旨とし差し上げ申し聞くべく、御引立てのほどひとえに願い上げ奉り候
第九月十四日より 字狸小路天狗寿し 魚清

明治21年9月15日北海道毎日新聞

 しかし2年後の1891(明治23)年3月、魚清は座内茶店を都合により親族へ譲り渡すこととなった。ご贔屓への謝罪のため、明治23年3月25日より5日の間大小とも四銭の木戸銭に引き下げて公演を行った。この時の演目は、「川中島□□(攻誉か)山本」桔梗ヶ原猪退治の場、勘介庵室の場、輝虎本城の場、直江山城屋敷の場、川中島合戦の場、武田信玄本陣の場より謙信討ち入りまで、大切は「恋娘昔八丈」白木屋店の場、向島大立廻りまで。浅尾与六丈八人形ぶり、竹本国恵太夫の出語りであった。

 時間を戻して、明治21年12月22日よりの替り狂言は、忠臣蔵大序より大切まで幕無しで一気に興行した。この時の役者は直義力弥お軽(芝喜三)塩谷勘平(梅鶴)若狭之助弥五郎(芝之助)顔世一文字屋女房(比□)本蔵薬師寺(内匠)九太夫定九郎平右衛門(昇鶴)小浪総右衛門(梅之助)おかや(い調)由良之助善六(い十郎)。木戸銭は歳暮のご祝儀として26日まで大札五枚にて興行した。(明治21年12月23日北海道毎日新聞)

 また、1889(明治22)年4月2日より、午後2時の開場とし、大小札を問わず一人毎に□を差出し、当り番の見物人には種々の景物(=景品)を贈ることとした(明治22年4月5日北海道毎日新聞)。(この後少しして、前章に書いたように木戸銭放楽の後、建元が伊原林平へ変わっている)

 ところで、先に伊藤は義侠心にあふれる人物だと書いたが、実際に被災者に対する行動を立花座を利用して2度行っている。
 1つは、明治22年10月6日午後2時より諸県の水害(注16)罹災者の為の祭典を執行した(明治22年10月8日北海道毎日新聞)。この時は、最初に神官の祭事があり、九時よりは幕合毎に2、3のの弁士による神道演説があった。
 もう1つは、明治24年5月5日正午から6日午後5時にかけて、強風のため野火が札幌郡篠路村・新琴似村・札幌村の三村に渡り延焼するという事件があった。その為、伊藤(この時の座主は伊藤辰造となっている)は同月15日に義捐芝居を興行し、収益一切を罹災者へ贈るとのこととなった(明治24年5月13日北海道毎日新聞)。

〔図4:札幌篠路新琴似三村延焼範囲(明治24年5月7日北海道毎日新聞)〕

図4は黒い箇所が延焼範囲(図の下方が北)。創成川に沿う2本の路は、それぞれ「ハラトミチ」(=茨戸道)、「イシカリシンミチ」(=石狩新道)か。
 いずれも、単なる劇場興行主というだけでは語れない、伊藤の性格を垣間見ることができるエピソードである。


(注15)引用した広告は、読みやすいよう適宜句読点や送り仮名などを追加した。明治21年9月15日北海道毎日新聞
(注16)水害:明治22年8月に奈良県で発生した十津川大水害のことと思われる。明治22年10月8日北海道毎日新聞

9. 政談演説会

 明治10年代より明治大正期を通じて、札幌でも度々政談演説会が行われた。開場となる場所は大勢の聴衆が入るスペースということで、勢い劇場も会場として使われることが多かった。

 実際に立花座でも、筆者が把握しているだけで、実に12回の政談演説会が行われた(表1)。ちなみに同時期、他の場所(大黒座、あるいは寄席など)でも政談演説会は行われているが、立花座が存在する時期に限って言えば、新聞記事に現れる政談演説会の開場としては、立花座の使用回数が群を抜いている。

 演説会の聴衆は、300余名から多い時は500余名もあったという。それだけの聴衆を集めるパワーが、当時の自由民権運動の場にはあったのだろう。弁士の演説内容も白熱し、時には途中で中止させられ場内が紛糾することもあった。

〔表1:立花座における政談演説会〕北海道毎日新聞及び新札幌市史より作成。一人の弁士が複数回演説することもある為、弁士数と論題数の合計が合わない場合がある。

10. 札幌大火:二度目の罹災

 明治25年5月4日、札幌が大火に襲われた。火元は狸小路と言われる。南1〜3条、大通2〜4丁目の887戸が消失。

 そして、この時に立花座も消失した。一度は火災から立ち直ったものの今回は再起かなわず、当時の札幌の二大劇場の一つが、4年半という短期間の興行に幕を下ろした。

 立花座が消失した後、しばらく大黒座の一人相撲が続くこととなる。それが却って大黒座の慢心を呼んだのか、こんな新聞の投書もみられる。

大黒座は競争の精神緩みたるやの傾きありしが去る十日以降の演劇を観るに役者はいずれも芸に身が入らず幕間は素敵滅法長く又調子外れも中々多く斯くては好劇家をして満足せしむる事は出来ましければチト勉強して欲しい

明治26年1月14日北海道毎日新聞

それだけ、立花座の消失は札幌市民にとってはショックな出来事だったのだろう。

おわりに:劇場再起に賭ける伊藤の情熱と悲運

 札幌大火は立花座を消失させたが、伊藤にとって劇場興行の終わりというわけではなかった。実は以前から、小樽の劇場「住吉座」を買収していたのだ。これが何時の事かは判然としないが、(初代の)橘座開業より後であろうと思われる。しかしこの住吉座も1894(明治27)年、皮肉にも焼失してしまう。

 今度こそ伊藤は劇場を諦め……なかった。伊藤はどうしても、もう一度劇場を立ち上げたかったのだろうか。札幌大火の復興もようやく落ち着いてきた頃の1895(明治28)年に、今度は南4条西5丁目の地に劇場新築を出願しているのである(明治28年8月9日北海道毎日新聞)。これは建築予定地の実地検査に着手するところまでいったのだが(明治28年8月14日北海道毎日新聞)、その後立ち消えとなってしまった。何故か。

 この年の暮れ、12月17日に、またもや南2条西2~3丁目は火災にみまわれるのである。しかも今回の火元は、南2西2の伊藤が所有する三軒続きのうち西端の建物だった(*37)。ここは当時空家だったのだが、浮浪者が泊まり込んで暖をとったのが火元となったことが判明した。若い時から消防組の組頭を勤め、前年の明治27年には二代目の公設札幌消防組組頭として、これまで常に札幌の消防組織の最前線に居た伊藤にしてみれば、自分が直接の原因ではないとはいえ、火元が自分の所有する空家という事実にやりきれない思いがあったに違いない。思えば最初の「橘座」も焼失し、再建した「立花座」も、買収した「住吉座」も焼失した。

 伊藤はこれ以後、ついに劇場に関わることはなかった。

 劇場から離れた後の伊藤の人生、そして劇場に関わる前の伊藤の人生については、稿を改めて挑みたい。いずれにせよ、波乱万丈の劇場であるとともに劇場それ自体が芝居の演目とでもなり得たであろう「立花座」の物語は、ここで完全に幕を閉じる。


主要参考文献

  • 金子郡平,高野隆之編 1914 『北海道人名辞書』 北海道人名辞書編纂事務所:16-17,41,94.

  • 河野常吉編 1978 『さっぽろの昔話』明治編上 みやま書房:107

  • 札幌市教育委員会編 1983 さっぽろ文庫25『札幌の演劇』 北海道新聞社:10-12.

  • 札幌市教育委員会編 1986 さっぽろ文庫36『狸小路』 北海道新聞社:78-79.

  • 札幌市教区委員会文化資料室編 1989 さっぽろ文庫50『開拓使時代』 札幌市・札幌市教育委員会:72-73,78-81,222-225.

  • 杉本実編 n.d. 『札幌の劇場記録:(寄席、芝居小屋、そして映画館)』 杉本実:1-3,23.

  • 高崎竜太郎 1887 『札幌繁栄図録』 高崎竜太郎.

  • 船山馨 1970 『石狩平野 全一冊』 河出書房新社.

  • ホーレス・ケプロン(西島照男訳) 1985 『ケプロン日誌:蝦夷と江戸』 北海道新聞社.

  • 北海新聞、北海道毎日新聞、北海タイムス各紙記事

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?