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『傅く』 第二章 担ぎ手

久保田ひかる

『傅く』第二章 担ぎ手:島田和男

【あらすじ】
日本のどこか。山合いに位置する羽辺(ハネベ)村は古くから村に伝わる言い伝えを大切に守り継いできた。
高齢化が進み、村の終わりも見えてきた頃、突然に「新見」という若い家族が村へと越してくる。
村人は、教えに従って彼らを追い出そうとしたのだが、新見の幼い娘「絵茉」に興味深い兆候が現れ…

言い伝えによって死にゆく村と、謎の少女を擁する新見家との共生の物語。

(Ⅰ)



2月の空はかっきりと澄んだ青をしていた。所在なげに揺蕩ういくらかの雲。冬も終わりに向かいつつある事を告げるように、やや温んだ風が山合いを通り抜ける。風はやがて、薄い御影石の石板が等間隔にタイルの如く並んだ広場を吹き抜ける。広場には神妙な顔をした村人たちが円を描くように立っていた。皆が一様に赤い布を握り締めて。

円の中央には壺があり、壺には老人の残骸が収められている。残骸になった小山という老夫は半月前に肉体から解放され、天上から村を見守り、来たるべく神の降臨を心待ちにする一団に加わった。


御遣い様が祈りを捧げる。「いずれ天より来る我らが神よ。——」御遣い様が口を閉じ目を開くと、村人たちが祈りの輪唱を始める。眉間に皺を寄せる様にしてぎゅっと目を瞑り、皆一様に天を仰ぎ、口元を忙しく動かし続ける。

輪唱を一身に受け止めるようにして、円の中へと福山春子が一歩踏み出した。彼女は手に小さな瓢箪めいたものを握っている。小山老人の眠る骨壺に向けて、彼女は瓢箪を傾けた。黄金色をした液体がとろりと溢れ出て、瓢箪の中でとぷんと音を立てる。壺の表面はテラテラとした液体に覆われ、小山には祝いと赦しが与えられた。

骨壺は、整列したタイルの終わりに位置する墓穴へと移される。村人は順番に用意してきた草花、と言ってもそこらに生えているものを壺の上へと投げ込んだ。——かつて、この村では純粋な土葬が行われていた。それは古くから村に伝わる風習でもあり、始まりの御遣様の教えでもあった。しかし、現在ではやむをえない事情、つまり法の拘束により下界での火葬が根付いている。この拘束の起源は現ミツカイである桑原の数代前、明治まで遡る。明治4年に制定された戸籍法による下界の動きは、羽辺の村にも伝わっていた。これは「担ぎ手」と呼ばれた、必要最低限の経済活動のため下界と村を行き来する人間たちからの情報であった。村としては、下界との関わりは最低限にしたい、下界との交わりは彼らにとって穢れである。しかしまた、同様の理由で波風を立てることも避けておきたかった。だがやはり、明治4年の時点では下界に対し、村の存在を明らかにする訳にもいかなかった。当時の戸籍は宗門人別改帳に基づいて作成されている。これはキリシタン排斥の歴史から成るものであり、改帳に名を刻むことは仏教徒になる事である。羽辺の村にとっての教えとは御遣の教えであり、神格は村に訪れる神のみである。実際には、既にこの時代に至ると、御遣の教えは村人の解釈によって村の原始信仰と混ざり合っていたが。

そして明治6年、禁教令の高札は廃止される。羽辺の村のあった地域では壬申戸籍に宗門の記載はなかった。これを好機と見た当時の御遣、桑原彌太郎は村人全てを壬申戸籍に登録した。そしてまた、これは村人には知らぬことであるが、出自の知れない彼らは戸籍に対して“新平民”として記載される事になる。結果として、社会と繋がりはしたものの、村へと近寄ってくる人間は現れなかった。

しかし、この戸籍情報が後に問題を巻き起こす。1948年、昭和23年の事である。羽辺の村が半分は不本意ながら所属する事になった日本で「墓地、埋葬等に関する法律」が制定される。この法律は別段土葬を排除するものではない。しかし、この法律の余波で土葬を行うには墓地に関して都道府県知事からの許可が必要になってしまった。当時の県知事は古くからの地域の権力者であり、羽辺の村を「元非人の村」と認識し、それは手ひどく扱った。殆ど調べもしないまま、羽辺が山村であるというだけで生活用水の衛生を理由として土葬許可を跳ね除けてしまった。村人たちは悩み抜いた末、結局は泣き寝入りを選ぶこととなる。死亡診断書については、下界のある医者と契約を交わした。村で死んだ人間を申告するだけで発行させることと引き換えに村の娘を一人、医者の下女として貢いだという。以降、医者の一族とは代替わりの度に契約の更新が行われる事となる。

村の歴史の末、他のものと同じように小山は死亡診断され、下界で火葬され、そして今、村の墓地へと埋められた。彼の墓の上にはまだ表面の磨きの終わっていない御影石の石板が載せられた。小山の隣には何も刻まれていない真っさらな石板がある。真っさらな石板の下に眠るは石田という老人、彼は村の墓守をしていた。墓を掃除し、死者の出た時に備えて御影石を正方形に切り出し、磨き、名を彫るのが仕事であった。彼の子供も既に村からは出ていき、墓守に継ぎ手はいない。ずらりと並んだ美しい墓石の流れに見えた一点の崩れが、村人の気持ちに陰を落とした。三年前の祭りのあの日、桑原康子が洞窟で怪死を遂げて以来、村では数ヶ月に一度のペースで人死にが出ていた。


墓の前に立ち止まって囁き合う村人たちの冷めた声を背後に、島田和男は早々と引き上げた。


***


下界を走る島田の軽トラは、薄汚れて煤けて見える。村で購入した時点で中古だった車は、島田が乗ってから更に10年の時を過ごしている。車内にはラジオが流れ、島田は片手でハンドルを握り、もう片腕を窓から出しながら鼻歌を歌っている。以前は車内のラジオで下界の動向を伺ったものだが、最早、村は下界への関心を失っていた。車を買い替える気もなければ、担ぎ手の態度にも興味はない。

幼稚園の駐車場に北向きにして車を停める。島田は駐車が好きだった。四角い枠に対して、どれだけ美しいラインを描いて正確に入り込むか。この楽しみはどれだけ繰り返しても新鮮な緊張があり、成功には喜びを感じた。

14時56分、ほぼいつも通りだ。島田は時計を見ながら5時を待った。車内のデジタル時計を睨む。57分、58分、59分、…15時だ。山のある方へ意識を向けて両掌を重ね合わせる。島田の妙に甲高い声が車内を満たす。「…クニトチカラトサカエトハワガムラニアリ…カギリナクナンジノモノナレバナリ」本来であれば村の祈りは三節からなるが、担ぎ手の島田のように祈りの時間に村外にいる者には略式として一節のみの詠唱が許されている。スの祈りと呼ばれる部分を唱え終わると、島田は鼻歌を歌いながら園の正門へと歩き出した。


「島田のおじちゃん」

絵茉がニコニコして歩いてくる。幼稚園の濃紺の制服を着て、荷物の入ったリュックを背負って。

もう後ひと月もすれば彼女はこの園を卒業する。そうなれば、こうして自身が送迎をすることもなくなるのだ。島田は近頃いつもその事を思う。当の絵茉では卒園の事などなんのことかと言った様子だ。いつも笑顔で先生にばいばいしている。

「では島田さん、絵茉ちゃんをお願いします。ばいばい絵茉ちゃん」

「お預かりしやした。さあ帰ろうか絵茉ちゃん」手を振っている保育士に会釈をして、絵茉の手を引き歩き出す。

午後3時を少し過ぎた頃。日ざしは黄色っぽく弱々しい光を落とした。

「今日はどうだった絵茉ちゃん」島田は絵茉の顔に向け視線を落とした。絵茉はニコニコして「うん」とだけ言う。

「そかあ、今日も楽しい日だったな!お母さんとこ帰ろな」島田は満足そうに言った。


 橙色に変わっていく世界を島田の軽トラが走り抜けていく。田舎の道路は舗装が行き届いておらず、車はガタガタと揺れる。絵茉にはそれが面白いらしい。初めの頃は「お父さんの車と違う」と笑っていた。

郊外の田舎町を、中心地から外れへと走るのは時間旅行に似ている。幼稚園のあった街中から村に向けて走っていると、町の密度が下がっていく。犇めくように建っていた家々や店の間に空間が増えていき、建っている家たちもスカスカした印象の古臭いものへ変わる。景色の変化に合わせて、道路を走る車は見る間に減っていく。島田は気分に合わせて、拍を取るようにアクセルへと乗せる足を上下させた。羽辺へと続く林に開いた未舗装の一本の道に差し掛かった頃、車は一つの岩を乗り越えてガタリと揺れた。

絵茉と島田は二人して笑った。


「よし着いた。絵茉ちゃんちょっと待ってな」

新見家の前に車を停めた島田は車を降り、外から助手席の方へと回り込んだ。自分でシートベルトを外して待っていた絵茉を抱き抱えて降ろす。彼女はもう、一人でも車からよじ降りられる程度に育っていたが、これは昔からの習慣だった。

 彼らが呼びかけるより早く、新見綾子は家から出てきた。身につけたエプロンの裾で濡れた手を拭っている。

「おかえりなさい、島田さん今日もありがとうございます」綾子は和やかな笑みを浮かべている。

「どうも綾子さん。ほら、絵茉ちゃんただいまし」

「ただいまお母さん」絵茉は綾子へと駆けて行った。

「ほら、絵茉。島田さんになんて言うの?」

「島田のおじちゃんありがと」新見の足に纏わり付きながら、絵茉はニコニコしている。

「おう絵茉ちゃん、今日もお勤めご苦労様です」島田がぺこりと頭を下げると、絵茉も真似して「ご苦労様です」と頭を下げた。

「ふふふ、ありがとうございます島田さん。絵茉ともずいぶん仲良くしていただいて」

「いやいや、絵茉ちゃんはお利口さんだもんでね!俺も迎えにいくのが楽しみなくらいですよ。それにしても、晴之さんもお仕事大変ですねえ」

「消防士はそういう仕事ですからね。今朝仕事に出て行ったので、今夜は職場で泊まり込みです。…もうすぐ絵茉も卒園ですので、それまであと1ヶ月ほどご迷惑をおかけします。」綾子がまた頭を下げた。

去年の年末まで、絵茉の幼稚園では送迎のバスが走っていた。運転手を務めていた高齢の職員が、腰を壊して突然の休職をしてしまい、送迎が各保護者に任されたまま2ヶ月が経つ。綾子が自転車に絵茉を乗せて、片道30分の距離を送り迎えしていると敦子から聞いて、代役を島田が引き受けたのだ。

「そうだ、島田さん。来週あたり夕飯でも食べていきませんか?夫と話してたんです。島田さんにお礼しなきゃねって」

「お!そんな、お呼ばれしてもいいんですか?いやあ、嬉しなあ。絵茉ちゃんと皆さんとご飯だなんて、良いんですかねこんな小汚いおじさんが」

「ふふ、小汚いだなんて。夫が楽しみにしてるんです。ほら、私は村の方とお話しする機会も多いでしょう?敦子さんとか。でもあの人仕事もあってなかなかそんな時間取れないから、是非村のお話を聞かせて欲しいって」

「おう、村のお話しですか…、あんまり面白い話でもねえですけど、晴之さんが聞いてくれるなら」島田はやや狼狽えながら答えた。三年前のいつかの日、「まず第一に目指すべきは、善き隣人としての私達に馴染んでもらうこととなるのだろうと思う。」と言っていた桑原の顔が浮かんだ。

「なんでしたら、島田さんのご家族もご一緒に」

「いやあ、ウチは老いた母親がいるくらいで。ちょっと歳が歳なもんで、家から出たがらねえんです。夕飯には俺一人でお呼ばれしますよ。ああ、いや良いんです。あの婆さんもたまには老いた息子のいねえ方が清々するでしょうよ。」綾子の気遣いを表情に見てとった島田は先回りした。自分の善き隣人としての振る舞いに惚れ惚れするようだった。

「あらまたそんなこと仰って。ではお母様には寂しい思いをさせるかもしれませんが、来週の木曜日にでも」

「ええ、どうもお願いします」島田は頭を掻いた。


***


 煤けた土壁は、ざらりとした下地の上から、脂と汚れを何層にも纏って、裸電球の灯りの元でいっそ黒光りするようだった。半分腐って禿げた畳も、大小便を除けば人から出る大凡全ての汚れを吸ってきたちゃぶ台も、この家はどこもかしこも一様に窶れた褐色をしていた。

 黄ばんだ肌着姿の老夫と、さらに老いさらばえた老婆が黙々と箸を動かしている。欠けた飯茶碗と、切り干し大根が雑に盛られた妙に安っぽい陶器の白い平皿がちぐはぐだ。彼らは、一見向き合うように座っているが、それでも視線の合わないような絶妙な角度で食卓を囲んでいる。

「あんた、…今日もマロウドのとこ行ってた…そうじゃないか…あたしゃまた藤木さんから嫌味を言われたよ」咀嚼の合間に言葉を漏らすせいで、老婆の言葉は聞き取りづらい。

「ん」

「ん、じゃないよ全く…あたしの気も知らずに、あんたはいい御身分だねえ」

「ん」島田の箸の動きが少しだけ早くなった。「今食ってるから」

「情けないよあたしは、あんたあのマロウドがどんな酷い奴か分かってるのかい?去年山沖さんが死んじまった時、あいつらは下界の汚れで煮染められた金なんか持って来たんだよ?それも、わざわざ選んできたみたいにボロボロになったの持ってきやがってさ。…馬鹿にしてんだよ。下界の奴らの分際でさ」老婆は箸を持った手をだらりと机に投げていた。持ち上げるのすら億劫だとでも言わんばかりに。

 島田は仕方なく口の中目一杯に詰め込んだ飯を飲み込んだ。

「だから、母ちゃんよ。説明しただろ。下じゃそういう文化なんだって、古い札を包むのが下の習慣なんだよ。何回言わせる気だよ」

「なんであたしが下から来た下衆の事情なんざ理解しなきゃいけないんだい!」パシリ、と老婆の箸が机を叩いた。

島田はもうおかずに箸を伸ばすこともせずに、茶碗を掲げてカカッと飯をかき込んだ。老婆は激昂したことが体に堪えたらしい。ふうふうと息の音がうるさいくらいだった。

「…あたしゃ情けないよ本当に。あんただって今頃はマロウドなんかにかかずらずに…嫁でも貰って孫がいたって良いってのに。あんたが勝手に担ぎ手なんて引き受けちまうから…」

その母親の言い振りが、妙に島田の勘に触った。「俺、七日後に新見さんとこで飯食ってくるから。」

「なんだって?」

「だから、俺七日後に新見さんに夕飯ご馳走になるから。そん時は俺の分の夕飯いらないってこと」

「夕飯の準備の話なんてしてないさ…あんた自分が何言ってるか分かってんのかい!」母の声が、島田の最も苦手とする周波数に達した。

「母ちゃんは俺のこといくつだと思ってんだよ。良いだろ誰と飯食ったってそんくらい。それに、絵茉ちゃんが俺たちの待ち続けた神様かもしれねえんだぞ?」

「あんた、まだそんな馬鹿な事言ってんのかい?あの娘が神様だってんなら、なんでこんなに人死にが出てんだよ。あいつらが来てから何人死んだ?小山さんに石田さんに加藤さん、藤田の奥さんに小山の正子さんに、もう覚えきれないくらいさ。この三年の間に30人以上!康子さんに始まった死人も全部あの家族のせいさ」

「偶然だろ、元々いつ死んでもおかしくねえようなじじいばばあばっかりじゃねえか。それに何回も言ってるだろ?康子ちゃんには…罰が下ったんだよ。絵茉ちゃんが神様で、その絵茉ちゃんになんかしようとしたから」島田の眉間に皺がよった。

「…康子さんに罰が下ったって、あんたそれ本気で言ってんのかい?あの絵茉とか言う娘が神様だって話もどうせ嘘っぱちさ。天罰だって言うなら、それを誰が見たってんだよ」

「いや、だから敦子ちゃんが見たんだよ。敦子ちゃんが慌てて洞に駆けつけた時には絵茉ちゃんの横で康子ちゃんが…首切られて、それで」

「だから、あたしはそれを言ってんだよ。敦子だけだろ?康子さんが死んでんのを見たのは。絵茉って娘はまだろくに喋れもしない頃の童なわけだ。じゃあ、誰かが洞で康子さんを殺そうと覚えているまいさ」母の声は鬼の首でもとったかのように勝ち誇っていた。島田は母の言ったことを噛み砕くのに数秒を要したが、どうやら母が母自身の言葉で話しているのではない、と言うことは肌で分かった。

「…じゃあなんだい、母ちゃんは康子ちゃんが死んだのは天罰じゃあねえって言うのか」

「そうさ。あんたは物分かりの悪い子だよ本当、昔っからそうさ。あたしゃ、康子さんを秘密に殺せる女がいただろうって言ってんのさ。敦子ならそれが出来たってね」

「…母ちゃん、それ一体誰が言ってた。」

「言ったらあんたどうすんのさ」

「わからん。分からんけど、下らねえこと言ってる奴がいるなら言って聞かせにゃならんことがある」島田の目がすうと翳った。

「あんたはまだそんな馬鹿なこと言ってんのかい!あたしゃあんたの母親で、結婚もしない息子に何十年と飯食わせてやってんだよ?しかも、やられた相手はあの康子さんだ。にも関わらず、まあだ敦子なんかの肩を持つってのか、あたしゃ恥ずかしいよ。息子がこんな馬鹿に育っちまって、何が悪かったんだろうねえ、どこで育て方を間違えたんか、いっそお前に申し訳ないくらいさ。昔は近所の童らを引き連れてまとめあげるような良い子だったのに、なんでこんなに育っちまって——」

 島田は母の言葉を一つも頭に入れなかった。如何にして噂を断つか、それを必死に考えていた。噂を流した人間を突き止めて見せしめに殺してやろうかとも考えたが、村内での殺しは教義によって禁止されていた。自らの救われる未来と引き換えに不届者を罰する事に一欠の愉悦を感じたが、彼はまだその選択を否定し得た。では、どうしたら相手に過ちを認めさせ謝罪させられるだろうか、しかし結局のところ島田には、力で以て威しつけるくらいの想像しか出来なかった。それも、彼が日頃温厚な男だからだろう。

 その時、ゴオウン、ゴオウンと遠くで二つ鐘が鳴った。

 親子はそれぞれに掌を合わせて、妙に高い声で何事かぶつぶつと唱えた。夕べの祈りの時間。


***


夕食を終えた後にも何かぶつぶつと小言を言っている母親に嫌気がさした。これは毎晩の事だったし、島田はそんな母を完全にいないものとして同居することに慣れきっていたはずだった。この日我慢が効かなかった一因には、彼が抱えた行き場の知れない怒りがあったかもしれない。

 彼は分厚い半纏を引っ掴むと黙って家の外に出た。村を北に向かって5分ほど歩いて、それから家々の間に入っていく。この村では殆どの家が中心の通りに沿ってずらりと並んでいるために、家の裏手に回るとそれだけで一時に人の気配が薄れる。裏通りに疎らに立っている家々の間を縫うようにして、気配を消しながら自宅の裏へと帰ってきた。古い家の土壁と地面との間に、何やら土が盛られて周囲から浮いている箇所がある。島田はかじかんだ両手に一度息を吐きかけ、それから静かに土を崩していった。

木の影は重く垂れ込め、月光を遮っている。自宅の裏を掘り進めている彼の姿はさながら手練の泥棒である。

彼は錆びに塗れた平たいアルミのクッキー缶を発掘すると、大事そうに抱えて森の深くへと入っていった。足取りは慣れたものである。少し歩くと気配を隠す必要もなくなったのだろう。ザクザクと砂や葉を踏み締めて進んでいく。

10分ほどの後、一つの流れに行き当たった。さらさらと音を立てて小さな川が流れ、その周囲だけ地面は岩に覆われて空から白い光が落ちている。島田は慣れた様子で、比較的つるりとした岩に腰掛け、持ってきた平たいアルミ缶をこじ開けた。

中から現れたのは数冊の雑誌だった。染みが着き、砂埃を纏ったそれは、つるりとした紙に毒々しいほど過激な装いの女性が映っている。島田はきょろきょろと周囲を見渡した。こんな時間に人が森の中へ来ようはずもなく、まだ寒い森は静かだった。そろそろとズボンを降ろすと、老いた身に冷気が沁みた。あまりの寒さにこの十数日くらいは我慢していたが、今夜は興奮がそれを上回っている。

月光の元、島田は女性の裸体に見入って下半身を硬化させていた。


静かな森に、劣情が真白い息遣いと変じて揺蕩った。

「——康子…康子…」島田の目は雑誌を見つめていたが、その焦点は既に揺らいでていた。


***


「敦子ちゃん、島田だけどお、」

田原家の前に軽トラを停めて、いつものように島田は戸を叩いた。しばらくの沈黙を経てから、ドタドタと足音が聞こえてきた。「おお、和男か」現れたのは、敦子の夫、田原克雄だった。

「おお、克雄さん。顔見んのは久々だなあ」久方ぶりに見る友人の顔に、島田は喜んだ。

「おうおう。悪いな、今日敦子はなんかに出かけてるみたいで」

「お、そりゃまたどちらへ」珍しいこともあるものだとその程度の想いから出た疑問だった。

「それが俺にもよく分からねんだが、なんか他所から来たのいるだろう?」

「ああ、敦子さんは絵茉ちゃんとこですかい」

「いや、違えのよう。その家族の話を聞きたがってる村人がいくらかいるとか言って、出かけてったのよ。ほらあいつ、よくあの家に出入りしてるだろう?」克雄はややばつの悪そうな顔をしていた。

「ほうほう、まあ皆んな気にしてますよ。なんてったって、絵茉ちゃんは神様なんじゃねえかって噂ですからね」

「一体馬鹿な噂だと思うがね俺は。ちゅうか、俺はもう静かに死んで行けりゃそれで良んだがね」克雄はヘラヘラと笑って見せた。「敦子も優香と良太に出て行かれて、寂しいとかそんなとこだろうよ。」

「そんですねえ、…でも俺も信じてますよ。敦子ちゃんには色々言う人もいるみたいだけど、奇跡の話をしてた敦子ちゃんの顔は嘘ついてる顔じゃねかったから」島田はやや胸を張ったようだった。彼は、自身の立場を表明、謂わば信仰告白をするような気負いであったが、克雄は不思議な顔をした。

「奇跡ってのは何のことだ?」

「え、ああ、あれですよ。絵茉ちゃんが敦子さんの傷を癒したとかっていう。もう3年近くも前ですが、あの、初めて新見さん家族に会った日のことで」島田の言葉を聞きながら、克雄はやや難しい顔をして黙っている。それから数秒の後、彼は一つ大きく手を打って笑顔になった。

「…ああ!そうだそうだ。思い出したよ。あったなあ、敦子が話してた。ところで和男、配達はあとどれ位残ってるよ」

「あ、配達ですかい、今回はあと二十軒くらい回って、残りの細かいもんを集会所に置いたら終わりだけんど」

「おう、そうかい。いや何、久々に顔見たら俺も珍しく人と喋りたくなってな。配達終わったらちょっと寄っていけや。」

「お、そう言うことならさっさと勤めを終わらせて来なきゃ、勿論お邪魔させてもらいますよ。克雄さんとゆっくり喋るなんてのはいつぶりか、じゃあちっと行ってきやす!」

「おうおうおう、ご苦労さん」克雄はにんまりとして笑っていた。島田は嬉しくなった。カツオとカズオ、と二人一組で村から扱われていた幼少期の思い出が鮮やかに蘇るようだった。


***


 島田は鼻歌を歌いながら軽トラを転がす。村は静かだ。彼が担ぎ手を始めた頃には、村の道を走っていれば子供達が走り回って騒いでいた。当時の彼は、まだ比較的新しかった車を、自慢げに子供達に見せたものだ。あの当時は週に一度は車を磨いていた。今や年季の入った軽トラはサビと埃、それに泥汚れが落とされずに放置されている。島田はそれでも鼻歌を歌っていた。

 集会所の前へ停車すると、荷台に残った荷物をせっせと下ろし始めた。記憶を頼りに粗く仕分けつつ一度全て下ろすと、集会所の扉を開けた。靴箱にはいくつも幾つも靴が並んでいて、中からは妙に高い声でいくつもの祈りが輪唱のように響いていた。

 彼の仕事には、集会所の中へ運び入れた荷物を各家庭ごとに分けるまでが含まれる。敦子ちゃんたちか、そう思いつつ島田はそっと中を覗き込んだ。こちらを向いて奥に立っている敦子がぴくりと動いて目を開けた。島田はおどけたように軽く手を上げて挨拶して見せる。

 敦子の口が閉じると、さあと波が収まるようにして祈りの言葉が引いていった。彼らは口を噤むと共に敦子の視線の先を向く。彼らの動作はただ純粋に自然な順で行われており、それが島田にはやや滑稽に見えた。

「こんにちは島田さん」敦子は変わらぬ笑顔を向けた。周りの村人の笑顔までどことなく敦子に似て見えた。

「どうもすんません、ちょっと荷物だけ下ろさしていただきますよっと」島田はそう言いながら背後の荷物を一つ抱えて集会所へ入っていった。

 荷物の一部はそのまま集会所にいた人の手に渡った。「私たちもお手伝いしましょうか」という敦子の一言で、島田の仕事は簡単に片付いてしまった。


「いやあ、どうも皆さんありがとうごぜえます」島田は笑顔でペコペコと頭を下げた。

「いえいえ、お気になさらず。私たち皆、担ぎ手のお世話になって暮らしてますからね」敦子が言うと、周囲の人間も笑顔で頷き合った。

「あ、そうだ敦子ちゃん。さっきちょっと克雄さんに会ってね。久々にゆっくり喋ろうなんて誘っていただきましたもんでね。これから、敦子ちゃん家にお邪魔しますよ。」島田はにんまり言った。

「うちの人が…そうですか。丁度良い頃合いです。皆さん我々もお開きにしましょうか」

「あら、いんかい?こっちは男二人で構いませんけれども」

「ふふ、あの人はお茶のしまってある場所すら知りませんよ。島田さんは車で行きますか?」

「敦子ちゃんが心配だっつうなら世話になりますが、車は車庫に入れて行くつもりですが」

「それは残念。私も車で送ってもらおうかと思ったんですが仕方ありませんね」

「お、そういう事か!いや、でもやめといた方がいいんじゃないか?車はほら、下界を散々走っちまってるから穢れでいっぱいだと思うが」

「ふふ、私は桑原様からある程度の許しを得ているんですよ。ほら、島田さん絵茉ちゃんを乗せているでしょう?私も久々に勉強した方がいいかしらと思って。最後に乗ったのなんて、多分私たちが下界で暮らしたあの頃くらいですからね」

「御遣様が仰ってんなら確かに問題ねえや。おう任せてくれや。隣乗せたるよ!」

「では、皆様また。絵茉様はまだ幼い子、彼女を導くのは我々羽辺の者です。陰から彼女を信じ祈ることをお忘れなきように」敦子は集まった村人たちに向かって最後に言った。人々は胸の前で盛大な拍手をして敦子と島田を送り出した。あまりに盛大な見送りに島田は流石に照れてしまった。


「あの人はなんて?」

助手席に乗り込んで、開き切ったドアを引き戻しながら敦子はさらりと尋ねた。

「いや、なんてってほどの事はなかったんだがね」島田は小気味良くライトのつまみを捻ると、普段よりもややスピードを出しながら軽トラを発進させた。眼前の光景に集中し、如何にかっこうよく運転するかという事ばかりを考えていた彼には隣の席の敦子がどんな顔をしているかは見えていなかった。


 少しの沈黙の後で、島田はふと思いつきで口を開いた。

「そういえば、明後日だったかな。俺、新見さんとこで夕飯ご馳走になることになったんだよ。」

「あら、絵茉ちゃんの送迎のお礼か何かですか?」

「流石敦子ちゃんだ。なんでもよく知ってるもんだなあ、お礼にって綾子さんが誘ってくれてさ。」島田はへらへらと笑った。狭い村内の移動は短い。田原家の前に至って、彼は車を停めようとした。

「ふふ、綾子さんがよく言ってますよ。彼女運転が苦手らしくて、それに車は晴之さんが使ってますからね。島田さんには随分お世話になってるって。でも、島田さんお邪魔する時はよくよく注意してくださいね。」島田は車のエンジンを切ったが、敦子が車から降りる気配はない。

「注意と言うと?そりゃあ勿論、村のしきたりなんか漏らさねえよ」

「疑ってるわけじゃありませんよ。そうですね、例えば出されたものは、それがどんなものでも美味しく食べてきてください。大丈夫、綾子さんはお料理が上手ですから、味がまずいってことはありません。」

「そりゃあ任せとけって、俺は好き嫌いはしねんだ。うちの母ちゃんの不味い飯だって毎日残さず食ってんだから」島田は大袈裟に笑った。

「それが例えば、動物の四つ足だったとしても、ですよ?」敦子がそんな事を言ったので、島田はまた余計に笑った。「敦子ちゃんも人が悪りいや、そんな脅さねえでくれよ」笑いながら敦子に向き直ったが、彼女は彼のようには笑っていなかった。「なんだい、本当に食うってのか?獣の足を?」

「案外美味しいものでしたよ。鳥の脚なんかね」敦子はにっこりと微笑んだ。

「鳥の足って、そんなもん食うのか下界の奴らは」

「鳥のモモの肉は下界じゃ普通に出るようでした。島田さん覚えてます?私たちが学生の頃、下でこっそり食べてびっくりした鳥の揚げ物あったでしょう。多分あれも足、モモの肉だったんだと思いますよ。」モモの肉、という言葉で島田の中に閃きが起きた。

「ああ、…じゃああのもも肉ってのは太腿の腿だったのか…」食料の買い出しのたびに行くスーパーには確かに「もも肉」と書かれた鳥が売っている。島田の内では何十年も馴染みのない食材であり、「もも」は「桃」のような肉、銘柄のようなものだと思い込んでいた。

「極力、出されたものは食べてください。どうしても食べ難いものがあったら、単に好き嫌いの問題という事にしてきてくださいね。間違っても、どれが何の料理だか分からないうちに好き嫌いなく何でも食べるなんて自慢げに言わないことです。」

「いやあ、ありがとう敦子ちゃん。勉強になった、勉強になった。…そうかあ、そんなに違うのかあ」島田は呆然としてしまった。寸前まで彼のうちにあった自信は脆くも崩れ去った。

「ふふ、私なんかよりは島田さんの方がずっと下界に詳しいと思いますが、注意は必要です。食べ物に限らず、どんな驚きがあるかは分からないと思って行ってくださいね。」

「詳しいって言うほど詳しいってわけでもねえけど、そうだなあ。よく覚えとく」

「ところで島田さん、このドアはどう開けたらいいのかしら?」島田が頷くのを確認してから敦子が言った。

「ああ、それは…」

 島田と敦子は二人で田原家に帰った。


家の居間では克雄が一人黙々と何か木を彫っていた。

「おう、和男…と敦子も帰ったか。悪いな、ちと便所だ。和男お前も付き合えや。」顔も上げずに、耳だけで二人分の気配を察した克雄が言った。

「いや、克雄さん、俺は別に小便は」島田がそこまで言いかけたところに、立ち上がった克雄が肩を組んできた「いいからいいから」


 克雄に促されるままに、島田は連れ立って一度田原家を出た。

「おう和男、お前ダメじゃねえか。敦子連れて帰ってきちまったら台無しだろう。」克雄が急に真面目な顔になって言ったものだから、島田は面食らってしまった。

「なんだい出し抜けに、集会所で会ったんだよ。丁度解散するとこだって言うから連れて帰ってきたが、良くなかったのかい?」

「そりゃあお前、あんまり詳しく教えてやらなかった俺も悪いがなあ、ちっと気が利かねえな。まあいい、敦子にはなんか言って誤魔化しとくからお前今日はもう帰れや。」

島田の落ち込んだような顔を見て、克雄が付け足した。「また、ゆっくり喋ろうや。今度こそ男二人でな」


(Ⅱ)



島田の軽トラは、今日も絵茉を乗せて走っている。

「絵茉ちゃんよ、今日はおじさんも一緒にご飯食べんだよ」

「知ってるよ」

「お、流石絵茉ちゃんは賢いな!お母さんにでも聞いたか?」

「うん。お母さんが言ってた。今日は島田のおじちゃんが来るって」

「楽しみだなあ、綾子さんのご飯は美味しいんだろう?」言いながら、島田は小気味よくウィンカーを出し村へと繋がる道に入った。

「うん。お母さんお料理上手だよ。今日はね、えっと手羽煮るって言ってた。」

「テバ?」見知った一本道を走りながら、島田は視線を助手席の絵茉へと流す。

「そう。鳥さんの手羽。美味しいんだよ。骨あるけど。」

「ほー、骨ごと食べるのかい。」島田の脳裏には先日の敦子との会話が蘇ってきた。彼にも雲行きの怪しいことは分かった。

「ううん、骨は食べない。周りのお肉が美味しいの」

「ほうほう、絵茉ちゃんの好物ならきっと美味いんだろうなあ」島田は骨のついた肉など食卓で見かけた事はない。以前、克雄が山で罠にかかったと猪を引きずって来て捌いていた時の記憶が蘇った。あの時も、骨は丁寧に肉から剥がされていた。島田も、炭火の元でこびり着いた肉を焼き落とし、焼けた骨を粉になるまで砕き、そして森へと撒く手伝いをやらされたものだった。以前と言っても、まだ島田も克雄も随分と若く、村人が活力のある食べ物を欲していた頃の話だが。

 ほどなくして、島田の軽トラは、ゴトゴトと音を立てて村へと帰還する。その音を聞きつけて、綾子が家から出てきた。今日もやはり身につけたエプロンで手を拭っている。綾子の姿を認めた島田の脳裏に、ふいに康子の姿が浮かんだが、彼にはどうしてそうなったのかが分からなかった。

 助手席の絵茉から向けられた視線に、ふと我に帰る。島田は慌てて、いつものように車外から助手席側へと回り込んで絵茉を下ろした。

「今日もありがとうございます島田さん」綾子は申し訳なさそうに眉を落としながら頭を下げた。

「いやーいや、今日も絵茉ちゃん乗っけて楽しかったですよ!もうすぐ終わりだと思うと寂しいくらいで」島田は頭を掻いた。

「そう言ってもらえると本当に助かります。ほら、絵茉もお礼言いなさい?」

「ありがとう、島田のおじちゃん」絵茉は今日も綾子にくっついてニコニコしている。

「おう!絵茉ちゃん今日もご苦労さん!」

「一応、うちの旦那はあと1時間くらいしたら帰宅する予定ですが、島田さんはどうなさいますか?まだ多少バタバタ準備してますが、いつ来ていただいても」綾子が柔和な顔で訊ねた。

「じゃあ、急いで車だけ置いてきます!綾子さんがバタバタしてる間に絵茉ちゃんにでも遊んでもらおかな!」島田は半ば絵茉に向かって、張り切って返した。

 絵茉はニコニコして、遊ぶ遊ぶと言っている。綾子も、「では、お待ちしてますね」と笑顔で返した。


村の外れにある駐車スペースまで軽トラを転がしながら、島田は久方ぶりに胸が躍るのを感じた。


***


 「どうぞ、少し散らかっていますけれど」綾子は笑顔で出迎えてくれた。

 新見家へ一歩踏み込むと、まだ新しい木の匂いが島田の胸をいっぱいに満たした。玄関には、綾子がよく履いているベージュのスニーカーと、絵茉の可愛らしい水色の靴が揃えられている。焦茶色をした木製の靴箱らしきものには、きちんと扉が付いていて、中は窺い知れない。その上、箱の上には細身の花瓶が備えれて、島田が村では見たことのないような薄紫の花が活けてあった。

「ええ、どうもお邪魔します…それにしても綺麗にしてますねえ綾子さん、これがあの福山さんの家だったなんて信じられねえよ俺」島田は、色褪せたボロボロのスニーカーを、綺麗に並んだ二足の靴に沿わせるようにして丁寧に置いた。

「ふふふ、そんなに緊張してもらうほどの家じゃありませんよ」おどおどした様子の島田に、綾子が笑いかける。

絵茉のいる気配を感じながら、島田は新見家へと入って行った。


 まだ準備が済まないと綾子は言っていたが、島田にはそうは見えなかった。部屋に置かれた背の高い机には、いくつもの料理が並んでいた。それも全て、真白い陶器やガラスの器で、清潔に光り輝いているようだった。料理から立ち上る醤油由来のいい香りが玄関とはまた違った形で島田の鼻を活発にさせる。先程までの、何を食べさせられるかと不安がっていた気持ちも、簡単に吹き飛ばされてしまった。

 少し観察してみて島田に分かった事には、どうやら、匂いの元は食卓ではなくキッチンにあるらしい。

「いい匂いがしますねえ、この匂いが例のテバ、ですかい?」

「あら、絵茉が話したのかしら?そうなんです。ちょっとお客様に出すには食べづらいかなっとも思ったんだけれど、あの子に、『島田さんにお夕飯、何食べてもらおうか?』って聞いたら、手羽元の煮たのがいいって言うもので」綾子は島田に返答しながら椅子を勧めた。

 綾子がキッチンの方へと戻っていくのと入れ違いに、襖で仕切られた隣の部屋から絵茉が駆け寄ってきた。

「島田のおじちゃん、これ読んで」絵茉は絵本を抱いている。

「お!絵茉ちゃんは本が好きか、賢くなるなあ。おじちゃんが読んでやろう。」

「ユウくんがね。絵本好きなの」

 島田は、読み書きに多少自信があった。羽部に長く暮らしている者にはそれがやや怪しいものもいる。村で暮らす分には、読むも書くも、そう多くの種類は不要である。しかし、担ぎ手である彼にとって、下界の文字を読み取ることは必要で日常的な能力であった。

 ただ、いざ読んでみると平仮名ばかりで難しい字などなかった。文字の簡単だった事はがっかりだったが、その絵、一枚一枚の丁寧で美しい事には驚きがあった。「お花、これはチューリップ、これはバラ、これはパンジー」膝の上の絵茉が、絵に描かれたものを指差ししながら呼んでいく。その度に、「ほー」とか「綺麗だ」とか言いながら、島田は一緒に感動した。描かれた美しい世界の中で、魔法のクレヨンの力で旅する少女の笑顔が彼には眩しく見えた。


「あ、お父さんだ」三冊目の絵本が積まれた頃、膝の上の絵茉がぴくりと反応した。島田の膝からするりと降りると、玄関へと駆け出して行った。言われてみれば、確かに車を駐車しようとしている音がした。

顔をあげてみると、食卓にはすっかり料理が並んでいる。おそらくテバであろうと思われる肉が、大皿に盛られて美味しそうに照り輝いていた。

「絵茉の相手をさせちゃって、ごめんなさいね。島田さん。お陰で料理も捗りました」キッチンで洗い物をしているらしい綾子が言った。

「いやいや、絵茉ちゃんは賢いから。むしろ俺が遊んでもらってる側みたいなもんでしたよ。これ、本どうしましょう?」島田は手に残された絵本を持て余した。

「あ、その辺に置いておいてください。絵茉に片づけさせますから」言ってから綾子は、玄関の方に顔を向けて声を張り、絵茉を呼んだ。ドタバタと戻ってきて、襖の向こうの部屋へ絵本をしまい、それから再び玄関へ戻っていく。幸福で平明な家族の聖域に踏み込んで、島田はなんだか無自覚に浮かれていた。

「どうもお待たせいたしました島田さん!いつも娘がお世話になっております。」新見晴之は真っ黒に日焼けをした顔に若々しい笑みを浮かべて帰宅した——


——「島田さんはお酒はお好きですか?」食卓を挟んで向かいの席に着くなり、晴之が笑顔で訊ねてきた。

「あら、ごめんなさい、先にお出ししておけば良かった!」綾子が慌てたように口を挟む。

「お酒ですか?お酒か、ああ、お酒はそうですね…」島田はやや狼狽してしまった。

彼にも酒は飲んだことがある。しかし、彼には酒に好き嫌いという表現が馴染まなかった。——祭りの際には、村で作った酒が少量ずつ村人に振る舞われるしきたりがある。しかし、彼にとって、村人にとっての酒は神の一部であり、神に繋がるための媒介であると教え込まれている。神聖な酒は、——敦子の忠告が、先代から当代までの桑原の言葉が、村人たちの顔がぐるぐると頭を駆け巡ったが、最後に彼の顔に浮かんだのは渋い顔をした母だった。

「お酒はもう大好きですよ!」島田が勢いで言ってしまうと、晴之は笑顔でキッチンへと立った。

「どうします?島田さん、ビールか酎ハイか、あとはハイボール、ウィスキーがありますが。ビールでいいですかね?お、しかも今日は発泡酒じゃないのが冷えてる!」

「あ、ああじゃあ、びいるで!」

 訳もわからず選んだびいるは、晴之の手によって簡単に島田の元へ届いた。敦子に手渡された流麗な切りの入ったグラスを、島田には見たことのない泡だった酒が満たしていく。「島田さん、グラス起こして起こして」晴之に笑われて、島田は慌てて晴之がわに傾けていたグラスを縦にした。白い泡がグラスの上部に溜まって、黄金色をした酒が姿を現した。

 初めてみるびいるに目を取られている島田をよそに、晴之は手酌でビールを注ぎ、そのまま綾子にも一杯注いだ。絵茉は、パックのグレープジュースをもらってニコニコしている。

「さあ、乾杯しましょうか」晴之の音頭で、皆が乾杯した。

 島田は、皆と共に掲げたグラスを胸元まで降ろした。気を抜いたらグラスを落としてしまいそうな気がして、ゆっくりと慎重な動作で再度持ち上げる。まずは鼻に近づけてみたが、島田には形容できないような不思議な匂いがした。目の前の晴之は、美味そうにグラスの半分ほどを飲み干している。再びに、島田の脳内を村人たちの顔が駆け巡って視線が泳いだ。──視界の端で微笑む絵茉の目が、一瞬青く見えた気がした。

「よし。」島田は小声で呟くと、びいるを一気に傾けた。白くてふわふわした泡が唇に当たり、それからきりりと冷えた液体が口内を満たした。苦くもあり、酸っぱくもあり、甘みも遠くにあるだろうか、鼻からは何か発酵した香りが抜けて、島田はこれを評価する適切な言葉を持たなかった。しかし、きりりと冷えた液体が胃の腑まで落ちていく感覚は心地良く、気が付けばごくごくとグラスの半分ほどを飲み干していた。

「お、島田さん良い飲みっぷりですね!うちはいつもサッポロなんですが、島田さんはもしかしてこだわりとかありましたか?」晴之は、いつの間にか空にした自分のグラスにビールを継ぎ足しなら言った。

「あ、いや、俺もこれが好きですよ!やっぱり冷たいってのはいいですねえ」

「流石分かってらっしゃる!いや、私もね。今日は綾子にお願いしましてね。家に着く30分くらい前からビールは冷凍庫に入れておいてもらったんですよ。これで季節が暑ければもっと美味いんですけどねえ」

「いやあ、確かに。こんなに冷たいのは暑い日だったらさぞ美味いでしょうなあ」島田はもう一度グラスを煽った。真夏のカンカン照りの日を思い浮かべて飲んでみると、ビールの味も冷たさも非常に快いものに感じられてきた。


「ふふ、お酒も美味しいでしょうけれど。今日はお料理の用意がたくさんありますからこっちも食べてください」綾子がニコニコしながら料理を取り分けてくれた。晴之も一緒になって働く姿が、島田にはなんだか新鮮で美しく映った。

島田の前には、白米に味噌汁に、それから何ものか、肉の様なものと白い豆腐の様なものが乗った生野菜のサラダ、そして大根と卵と一緒に煮たテバらしきものが並ぶ。

 島田は、まじまじとテバを見た。確かに肉の塊らしいが、骨のようなものの先が見えている。島田の知っている食用の肉の姿ではないのは確かだ。しかし、恐ろしく美味そうな匂いがした。絵茉を見ると、彼女はテバを手掴みにして噛り付いている。骨から、肉をはぎ取るようにしてむしゃむしゃと食べている様子は、不思議と島田にとって馴染みのいいものでもあった。この時初めて、彼は自分の背筋がぴんと伸び切ったままだった事と、ぼんやりした腰の痛みに気が付いた。

「島田さん、ごめんなさいね。お客さんに出すにはちょっと食べづらいわよね」綾子が笑った。晴之もテバを手掴みにして食べている。

「いやいや、むしろ気楽に食えて嬉しいくらいですよ!」島田も、口に残ったビールの苦味を感じながら、テバの一本をむんずと掴み取り、眺めた。テラテラと油とタレで輝いた肉は、見知らぬ形をしているとはいえ美味そうに見える。敦子がいつか忠告してきた時に思い浮かべた肉とは全く違う。島田は家では全く失ってしまった食欲を強烈なまでに感じた。どうせ、自らの身は担ぎ手の仕事で穢れている。今更何を悩むことがあろうか、そんな言い訳を一通り捏ね回し、やはり食欲に勝てずに一口齧り付いた。

 甘く、濃い味が口内を満たした。柔らかい肉は簡単に島田の歯を受け止め、勢い余って固い骨が現れた。滴るような甘い肉を食べたのは久しぶりだった。時折貰ったり供されたりする、山で獲れた捌きたての肉に似ていた。

夢中で咀嚼するうちに、気づけば島田の手には骨だけが残っていた。焼けた肉の破片と、なんだかよく分からない汚れがこびり着いた骨。

「島田さん、骨はこちらに」綾子が小皿を一枚寄越してきた。この骨はどうなるのだろうか、やはり焚き上げて埋葬するのだろうか。しかし、島田にはその骨が薄汚れたゴミのように感じられて、それから初めて自分がいつもとは違う何かを口にしたのだという実感が湧いた。

「綾子さん、俺は実はこのテバっての初めて食べたんだが、こいつは一体どんな肉なんだい?」島田は骨を真剣に見つめながら静かに問うた。晴之が、一瞬焦ったような顔で綾子を見た。

「あら、初めてでしたか?手羽はあれですね。鳥の、手…羽のあたりのお肉で、これは手羽元だから、肩とか二の腕のあたりかな?」綾子は少しだけ不安げに眉を寄せた顔で、自身の腕に触れながら説明した。絵茉が、「そうなんだあ」とやけに分かったような相打ちを打った。

「ほう、鳥の腕ですか。うん!こいつは美味い。流石だなあ綾子さんは」島田の声に、綾子と晴之の顔が戻った。

「お母さんのお料理は美味しいね」絵茉がニコニコしている。

 綾子が、さらに数本の手羽を島田に取り分けた。空になったグラスには晴之がビールを注いでくれる。島田も、晴之にお酌をしてみた。勢いよく泡が立ってしまって、彼は参った。

 若い家族の賑やかな会話と、下界由来の美味しい食事に包まれ、島田はその日ふらふらと千鳥足で帰宅した。

「また来てくださいね、なんて言われちまったよ」


***


 フロントガラス越しの村の景色も随分と白を帯びてきた。余りの明るさに、島田は目頭を揉んだ。

 開け放った軽トラの窓から吹き込んでくる空気も随分と重たくなってきている。「夏が来るなあ」島田の独り言が、夏めいた風の中に紛れていった。——


 午後4時半、今日一日の担ぎ手としての仕事も無事終えた島田は、駐車場へと車を移動した。6月の空はまだ真昼の色を示している。ぎりぎりと照りつける日光で、いかに老体とはいえ島田の体は汗まみれである。肌着を引っ張るようにして軽く顔の汗を拭って一息つき、それから助手席に置いてある缶を手に取った。

 缶の開け方は、この間新見家に行った時に晴之の動作を見て覚えた。その時には既に、彼の頭の中は暑い日にビールを飲むという野望がいっぱいだった。

 プシュっといい音を立てて、ビールのプルタブを引き上げる。興奮を抑えきれず、島田は一気に喉へと流し込んだ。流し込んで見てから、島田はまじまじと缶を見た。確かに新見家で出されるサッポロのビールである。白地に黒と黄色のマークが入っているから間違いはない。しかし、何かが違う。

 もう一口飲んでみて、それからやっと分かった事には、島田が買ってきたこのビールは温いのだ。味で言えば、新見家で飲んだものと大きな違いはないが、あの冷えた喉越しがないだけで、魅力は半減していた。ややがっかりしながらも、彼はビールを飲み干した。


***


「あら!和男くんおかえりなさい」藤木が慌てた様子で言った。

 島田が帰宅すると、家には母とその友人である藤木がいた。

「ああ、藤木さん。お宅の分の配給は集会所に置いてきましたよ」

「ええ、ありがとう。じゃあ、島田さん。私も今日はお暇しようかしら?」

「そうね。またゆっくり話しましょや」島田の母と藤木は立ち上がった。

土間でのすれ違いざま、藤木は島田の前で怪訝な顔をした。

「和男くん、なんだか変な臭いね」藤木は無遠慮にすんすんと鼻を鳴らした。

「そうですかい?今日は仕事がありましたからね。下界の臭いかもしれねえ、嗅がねえほうがいいですよ」さっさと土間から上がった彼の顔には珍しく冷めた笑みが浮かんでいた。

「じゃあ、あたしゃちょっと藤木さんそこまで送ってくるから」

島田の母は、曲がった腰を気持ち持ち上げながら藤木と出ていった。

 藤木と母が話していた事について、島田は考えを巡らせた。どうせ、敦子たちの動きについてまた何か邪推をしていたに違いない。敦子ちゃんが康子を殺すはずがない。島田はそう信じている。彼らはほぼ同時期に学生時代を過ごした仲間だった。島田の目には、敦子と康子はずっと姉妹か親友のように見えていた。そんな敦子ちゃんが康子を殺すはずがない。敦子が嘘をつくはずがない。絵茉に触れられた手が治ったのも、康子が死んでいたのもきっと本当だ。だから、絵茉が神様なのも、——しかし、改めて問い直した時、それは彼には馴染みのない感覚であった。

 絵茉は、新見家の夫婦の間で健康に平明に笑っている幼子でしかなかった。


 頭の中がぐるぐると回ると、少しだけ足取りがフラつくのを感じた。なんだか無性に酒が欲しかった。

 彼は家の裏手に隠してある焼酎のボトルを引っ張り出す事にした。ボトルに入ったこの酒も、新見家で覚えたものであった。彼にとっては、頭の中を甘く柔らかにしてくれる魔法の液体のように思えていた。酒さえ飲んでおけば、嫌な顔をした母が帰ってくることも、また母と共に味のしない飯を食べることも乗り切れた。


(Ⅲ)



 数日が経ったある日のことである。7月を目前に控え、太陽はぎらぎらと照り付けていた。

 島田には、その日も担ぎ手の仕事があった。夏の力仕事は老体に堪えたが、この日ばかりは体を流れる汗が心地よかった。

 スーパーの駐車場で軽トラを停め、開け放してあった窓を一応閉める。

ひんやりした店内でメモを確認しながら、幾度かに分けて必要分の食料を買い揃える。とは言え、村の食糧事情は大方賄えている。洞で採れるオオゲツを使えば、食べ物に困ることはない。調味料や、大豆系統の加工食品、それから村では獲れない魚が買い出しの中心であった。常温で問題ないものは、そのまま軽トラの荷台に積み込んで幌を被せた。魚などは大きなビニール袋に氷と共に入れて助手席の足元に突っ込んだ。もう30年以上繰り返してきた作業は頭よりも体が覚えていた。

 あとは村へと帰るだけ、という所まで来たとき。島田は再びスーパーへと向かった。早足で飲み物或いは酒類のコーナーへ向かうと、一本のビールを手に取った。買ったものと使った金の報告は後で出さなきゃいけないが、下界の金など村びとは誰も触りたがらない。多少財布の中身がズレていても気がつくような人はいないと、島田はたかを括っている。

 会計を済ませ、さっさと車に戻る。駐車していた車内の蒸せ返るような熱気の中で、手の中の缶は張り付くほど冷えている。新見家で注がれた冷えたビールの感覚が喉に蘇った。

 気がつけば島田は、車内でビールのプルタブを引いていた。粘ついた唾液で不快だった口内を、黄金色をした液体が泡立ちながら流れていった。欲望に任せて喉を鳴らすうち、下ろしたビールの缶は軽くなっていた。その軽さが無性に寂しくて、いても立ってもいられなくなった。急足でスーパーに戻った島田は、もう一本のビールを購入していた。

 車内に戻った島田は、いそいそとエンジンをかけた。妙に焦っていた彼は、アクセルを踏み込みすぎた。回転数が上がりすぎた状態でクラッチが繋がれ、急発進した車体が一瞬跳ねるように揺れた。慌ててブレーキを踏み事なきを得たが、駐車場を歩いていた親子が不安げな顔で島田のことを見ていた。

 その目を見た時、島田は飲酒運転が禁止されていることを思い出した。免許の更新に行くたびに教官が何やら言っていたが、彼には全く関係のない話としてしか了解されていなかったことが、親子連れの目線で一突きに繋げられたようだった。

 一瞬の逡巡はあった。しかし、彼には解決策が何一つ浮かばなかった。立ち止まってこちらの様子を伺っている親子連れに向けて、ニコリと一つ微笑むと彼は再び車を発進させ駐車場から公道へと進み出した。


初めの数分こそは、何者かに咎められるのではないかとビクビクしていた。咎められれば、下界のルールの中で罪を裁かれる事になる。そうなれば、村人に隠していた飲酒が発覚してしまう。母が自分をどう詰るかと思うと、嫌な気がした。反抗する事もできず、ただ嫌味と説教に晒されている時間の想像が、次第に強迫的な色合いを帯びてくる。——馬鹿みたいに凝り固まった教えを守ってるたって、結局は下界の便利なものが欲しいんだろう?だから、俺みたいな担ぎ手を作って押し付けてんだ。俺はお前らの生活のためにこうやって下界に来てやってるのに、勝手に穢れだなんだって心配した振りの嫌なもん扱いして、村の輪から外して…。畜生、飲んでやるさ。ビールくらい飲んでやる…。康子だってそうさ。お前らが勝手に代わりを欲しがって、その犠牲にしたんだろう。俺だって本当は康子と二人で…、こんな担ぎ手なんかじゃなくて、——

「俺が誰のために働いてると思ってる!」ハンドルを殴りつけた拍子に、ビイと破壊的な音を立ててクラクションが反応した。

 すると、前方を歩いていたランドセル姿の子供二人がこちらを振り返った。黄色いランドセルカバーを着けた背の低い男女の二人組と目が合うと、少女の方が微笑みかけて手を振ってきた。果たして、その少女は絵茉であった。隣の小柄な男児は、見知らぬ顔である。その表情は、先ほどの親子が島田に向けてきた顔と二重写しになって見えた。

 島田は必死に笑顔を作って、すれ違いざまに手を振った。

 バックミラー越しの二人が見えなくなると、再び缶の中身を煽るのだ。缶を握る島田の手は震えていた。


 軽トラが村まで帰ってきた時、車内の時計は14時50分を示していた。

 島田は配達の業務を始める前に、一度駐車スペースへと車を戻した。缶に残されたビールを飲み干しながら時を待った。

 やがて、ゴオウン、ゴオウンと遠くで二つ鐘が鳴った。

 島田の妙に甲高い声が車内を満たす。「…クニトチカラトサカエトハワガムラニアリ…カギリナクナンジノモノナレバナリ…」


***


 仕事を終えた島田が家に帰ると、家には母と敦子がいた。母は黙って台所に立っており、敦子は汚い居間で小さく正座をしていた。

「お、珍しい。敦子ちゃんじゃねえか」

「あ、おかえりなさい。島田さん。今、お母さんに言って島田さんを待たせてもらっていたんです。帰ってすぐに申し訳ありませんけれど。ちょっと着いてきてもらって良いかしら?詳しいことは行きしなに話しますから。」敦子は一息にそれだけ言った。

 敦子は島田の母に一言お礼を言って家を出たが、母は何も答えなかった。


「なあ敦子ちゃん。一体、急にどうしたんだい?どこ行くんだよ」急ぎ足で村を歩く敦子の後ろを歩きながら、島田が訊いた。

「これから、私たちは桑原様のところへ行きます。桑原様からじきじきのお呼び出しです。でも、その前に一度ひとのいない場所で話したいので、ちょっと森へ行きましょう」敦子はそれだけ答えると再び黙然として足を進めた。島田は訳もわからず後を追った。

 村を外れて、森をしばらく行くと、島田が時折秘密に訪れる川に行き当たった。島田は、もしかすると、自分がこっそりと隠し持っている下界の雑誌が見つかったのではないかと焦り、赤面した。

「ここで良いでしょう。島田さん、あら、顔が赤い…」敦子は立ち止まった島田に向き合う。

島田の口元に、敦子の顔がずいと伸びてきた。訳もわからず狼狽する島田の口元を、敦子はすんすんと鼻を鳴らして嗅いだ。

「島田さん、今日何か飲みましたね?」

「なんだよ敦子ちゃん突然に」

「私たちはこれから桑原さんの所に行く訳ですが、とにかくまずは口を濯いでください。それから、出来るだけのお水をここで飲んで。」

「水か?分かった。分かったけど、なんだってんだい?」島田にも、敦子が意図するところが分からないではなかった。しかし、自白する気にはなれなかった——


——「島田さん。あなたが下界の酒を嗜んでいると、そんな噂が届いております。これについて伺いたい。」

桑原の家の、小さな客間に4人の人間が詰めていた。一番奥で腕組みしているのは桑原。桑原に対するように正座をしているのが敦子と島田、そして出入り口に当たる位置に控えて、何やら書きつけているのは福山春子である。春子が淹れてきた薬茶が、他の三名の前に置かれ、複雑な匂いが部屋を満たしていた。

 青い顔をして黙っている島田の横で、敦子が先に口を開いた。

「島田さんは、確かに下界のお酒を口にしました。しかし、それは新見家との関わりの中で必要上のことです。島田さんは、新見家から絵茉様の送迎を幾度も頼まれているうちに、そのお礼として夕食に招かれていました。そこで供されたものは出来るだけ口にするようにと言ったのはこの私です。島田さんはただ、絵茉様を村で見守るために、私の言ったことを守ってくれただけなんです。」敦子はあくまで冷静な口調でそう言った。どんな顔をして喋っていたのかは、下を向いていた島田には分からなかった。

「それくらいの事は私も十分に承知しています。敦子さん、あなた自身が私に許可を取りに来ましたからね。絵茉という少女が何者か、という点については私は未だ結論を出していませんが、期待も込めてある程度の禁忌を許しました。これが、私にとって小さな決断でなかったことは十分に伝わっていると思っておりましたが。」桑原は、ゆったりとした動作で湯呑みを取りあげると一口茶を啜った。

「仰るとおりでございます。」敦子はそれだけ言った。

「それで、島田さん。あなたの事を伺いたいのですが。黙ったままでいらっしゃると、あなたに不利になりますよ。」俯いたままの島田の方を、桑原はもはや見ていなかった。

「——申し訳ねえ、確かに俺は晴之さんに教えてもらってからちっとばかり酒を飲みました。でも、そんなに何度もじゃねえ、下界の酒を飲むと気持ちが良くなるもんで、うちの婆さんの小言に耐えかねると偶にどうしても…、」島田は絞るようにして小声で謝罪をした。謝罪を始めると、言い訳が止めどなく流れ出てきたが、桑原に「島田さん。」と呼ばれて再び口を噤んだ。

「あなたが、どうして下界の酒を飲むことにのめり込んだのか、なんて事には私は関心がありません。」

「申し訳ねえです」項垂れている島田を、敦子が心配そうにちらと見た。

「酒とはなんですか?」

「酒は、俺らの神様に繋がるためのものです」

「そうですね。私たちは酒を通して、自らの意識をより神に近づけます。まだ分かっていらっしゃらないかもしれませんが、酒は喉の渇きを潤す為のものではありません。下界の酒を飲むということは、異教の何かと意識を通わせる事に他なりません。それに、あなたは唯でさえ担ぎ手です。」

「そう、ですね」返事をした島田の口角がピクリと動いたことを、桑原は見逃さなかった。

「あなたがそうやって働いてくださっている事には、村のもの一同感謝しています。もし、この感謝を忘れている村人がいれば、私から言って聞かせましょう。そういう仕事です。あなたの就いている立場は。しかし、担ぎ手というのはやはり穢れと共にあるものです。村でともに生きる者として、私はあなたにも神の寵愛があって欲しいと願っている。自らそれを拒むような振る舞いは避けていただきたい。」

「ありがたいお言葉です。俺みてえな担ぎ手の事も村の一員として数えてくださるのは、流石桑原様でいらっしゃる。ほんに、仰るとおりでごぜえます。」島田は俯いた顔を一瞬だけ上げて桑原の目を見ると、三つ指をついて平伏した。敦子も隣で小さく頭を下げた。

「今日のところは、あなたをこれ以上追及するのは止しましょう。私に届いたのもまだ一件の噂話めいた報告だけですから。ただし、次という事は考えずに頂きたい。私も、あなたが芯から神を愚弄するとなれば、今回と同じには出来ません。」

「よくよく心に留めておきます。」そう宣った島田の言葉は妙に軽快だ。桑原は一瞬妙な目をしたが、敦子の方へと顔を向けた。

「それから、敦子さん。あなたにもよく覚えておいてもらいたい。確かに、私はあなたの言う絵茉という少女に現れた兆候を、非常に興味深いものだと捉えている。今の村を思えば、多少の無理をしてでも確かめてみる価値があると思っている。あなたは頭の良い人だ、分かってくださいますね?」桑原は、そこで一度言葉を切った。

「私など、一人の馬鹿な婆に過ぎませんが。桑原様が村人を導きまとめ上げる難しいお立場にあることは重々承知している積もりでございます。」

「私は確かに村のために何かを決断する立場にはいるが、私の意思で村が決まる訳ではないという事は御承知いただきたい。特に、この数年で多くの方が亡くなった事など含めて、あなたの考えに反感を持っている人間もいる。私があなたに何かを許すためには、許せる環境がなくてはならない。そういう話です。」

「ご忠告、そしてお気遣いをいただきましてありがとうございます。私も、今後はもう少し振る舞いに気をつけて参ります。」敦子も、先の島田同様に平伏した。

「お二人とも、顔をあげてください。今夜は私からの話はこれで、ああそうだ。島田さん。こちらをついでにお渡ししておきます。下界の弟から金が届きました。」

「ああ、秋光さんから。お預かりいたします。」

「いつでも構いませんが、頃合いを見て金の話をまとめて提出にいらしてください。」

「分かりました。」島田は中腰で金の入った封筒を受け取ると、小さく頭を下げた。

 島田の背後で、春子がすっと襖を開ける音が聞こえた。

「なあ、桑原様」

「なんでしょう。」

「いや、…申し訳なかった。明日からまた真面目に働かせてもらいますんで、よろしくお願いします。」島田は立ち上がると、再度美しく頭を下げた。

 島田と敦子は、春子にお茶の礼を言いながら桑原邸を辞した——


——「なあ、敦子さんや。」帰り道を歩きながら、島田が不意に口を開いた。

「なんでしょう」

「俺のことを桑原さんに伝えたのは誰だと思う」

「いや、どうでしょう。…島田さんには予想が付いているんですか?」

「まあ、多分だけどよ。藤木の婆さんだと思うんだよな。」

「ああ、藤木さん」敦子は言葉を探すように、右手を摩りながら沈黙した。


結局、彼らは黙ったままに敦子の家へと辿り着いてしまった。

「じゃあ、敦子ちゃん悪かったな。俺のせいであんたにも迷惑をかけた」島田は真っ直ぐに敦子を見た。

「あの、島田さん。とにかく、お酒はやめていただいて、あまり目立ったことはしないようにだけお願いしますね。」

敦子から向けられた視線を避けるように足元を見ながら、島田は一つ問わねばならないことを思い出した。

「そうだ。敦子ちゃん、ちょっと聞きたいんだけれども。康子ちゃんの——死に様をどう思った。」

「死に様、ですか?」

「うん、どう思った。」

 敦子の頬を、じりじりと汗が垂れた。

 いつの間にか、視線は逆転していた。今度は、島田の方が敦子を目で刺していた。

「…寂しいと思いました。」そう言って、目線を上げた敦子に映った島田の顔は、見たことのない苦悶を示していた。彼の目は、敦子に更なる言葉を要求していた。「康子さんは、村を憎んでいたと思います。それに、絵茉ちゃんを…直接言うわけではありませんが、あまり子供が好きでない人だったと思います。…けれど、やっぱりあんなにも、他人も自分も愛している人はいません。そんな康子ちゃんが死ななければならなかったのは、形代様の呪いだと、思います。彼女は、絵茉ちゃんに恨みを向けるしかなかった。それが、どんな事か分かっていたからこそきっと、そうでした。…それが、私は寂しい。」

 島田の顔に、月光が降りた。そして、彼の目から光が降った。

「うん。やっぱり、敦子ちゃんは流石だ。…康子ちゃんはさ。寂しかったんだよな。」

昂った感情の遣り場を探しあぐねた島田は、敦子に向けて右手を差し出した。それに応えた敦子の右手は、島田の掌の中でうっとりするほどつるりと滑らかだった。

 敦子は薬茶の後味の残った粘ついた唾を飲み込んだ。島田の顔を見て、分からないと感じたのは敦子の人生で初めての事だった。


***


 敦子と別れ、まだ昂りを抑えられなかった島田は、久方ぶりに例のアルミのクッキー缶を発掘した。母の起きている時間には、どうしても家に帰りつきたくなかった。

 夏は間近とはいえ、森に踏み入ると空気はひやりと心地よく、濡れた下生えが島田の足にひたひたと張り付いた。以前に訪れたのはまだ冬だった。

確か、と島田は記憶を辿る。あの頃は、初めて新見家に夕飯の誘いを受けた頃だ。あれから数ヶ月の時が経った。絵茉は幼稚園を卒園し、可愛いランドセルを背負って小学校へと通うようになった。小学生になった絵茉は、バスと徒歩で小学校に通っている。最早、送迎の必要はなくなったが、新見家との思い出はあの頃より増えていた。すっかり晴之の飲み友達のような立場になった島田は、一月に一度くらいの頻度で新見家へと通っていた。焼酎も、日本酒も、ビールの味も晴之から教えられた。赤黒い色をしたワインなる酒は、島田の知る村の酒に似ていた。酒だけではない。綾子の料理で、島田は海老の味を知った。エビフライの作り方を聞いて、スマートフォンという妖術めいた下界の道具を知った。彼が昔に下界で見たテレビによく似ているが、小さい上に画面を触ると動くのだ。それに、好きなものを見られるという。島田にも、村を出て行った若者の気持ちが少し分かるような気がした。

絵茉は小学生になってよく喋るようになった。昔と変わらない幼子の笑みを浮かべながら、時折ヒヤリとすることを言う。つい先日は、「島田のおじちゃんは、お母さんが嫌いなの?」と不意に訊かれて狼狽したものだった。

 あの冬の日から数えて、四ヶ月ほどが経った。そんなにも、この夜の森に訪れていなかったと言うことが、島田には今更になって不思議に思われた。これまでだったら、一月も空いたことがなかった。


 そんな事を思案している内、彼はいつもの川に行き当たった。夏めいた季節と共に、上空の緑は隙間を埋めあって濃くなっていたが、この場所は変わらず白い月光が水面を輝かせていた。

 島田は石の一つに腰を掛け、持ってきた平たいアルミ缶をこじ開けた。しかし、不思議と中の雑誌に食指が伸びなかった。彼は、今日一日の出来事を頭の中でゆっくりと振り返っていた。暑い車中で飲んだビールの罪な美味さ、道を歩いてた絵茉と少年の姿、不安な顔で待っていた敦子、桑原からの呼び出し、そして先ほど別れた敦子。

 島田は思い出したように缶の底近くから一冊の雑誌を引き抜いた。適当に本を開けば、それだけで目的の写真は現れた。中央で分けた、長い黒髪。細面の顔に、やや白すぎるくらいに塗り込んだ肌。きりりと吊り上がった目。そして、くっきりと赤い紅が主張する横に広い唇。その女性の姿は、若い頃の康子に似ていた。紙の上の彼女は、薄い紫色をした浴衣に身を包んでいる。

康子に似た女が載っていた、それだけの理由でもう二十年近く昔に隠れて購入した雑誌である。パリパリと貼りついた紙を慎重に剥がしながら捲っていく。その内、一枚の写真で彼の手は止まった。東屋のような場所で浴衣をはだけさせた女が、妖艶に微笑んでいる——


——夏の夜の空気はじっとりと質量を伴っており、いくつも焚かれた火がぱちぱちと焦げ臭い匂いをまいていた。

 闇の中に、村人たちが一斉に集っていた。地面に敷いた茣蓙の上に整列するように座り込んだ彼らの手には、真紅の布が握りしめられている。彼らの視線の先には祭りの舞台が設られていた。舞台は、地面より一段高い檜の台を下地に、四つ角から柱が伸びる。簡易的な屋根が据えられ、一見すると東屋のようだ。舞台の内にいるのは、赤い着物に身を包んだ御遣様、先代桑原である。彼は一心に祈りを捧げ、鬼気迫る表情で静かに舞っていた。

村の殆どが御遣様を見つめている中で、島田の視線は舞台の右方向、闇の中に向けられていた。果てしなく続くかに思われた御遣様の舞いも、勢いを増して終わりへと向かっていく。それに伴って村人たちの祈りの声も熱気を増して行く。静寂さまでも感じさせるような、よく訓練された熱烈な祈りと舞踊で、舞台は異様な雰囲気に包まれた。その中にあっても、島田だけは一人血走った目で闇を見つめた。

やがて御遣様は舞いを止め、舞台の中央で傅いた。すると、闇の中からそろそろと白い影が立ち現れる。普段の村での生活ではまず見かけないような鮮烈な白が、焚き火の灯りにチラチラと照らされていた。舞台へと辿り着いた影は、白い着流しに身を包み、目元に青い隈取りをした形代様、まだ15、6の康子である。彼女が形代様としての役を負うのは今日の祭りが初めてだった。

形代様が東屋へと踏み込むと、村人たちは一斉に顔を伏せた。祈りの言葉も止み、パチパチと薪の爆ぜる音と、息遣いだけが満たした世界で、御遣様と形代様だけの舞が始まる。本来、村人たちはこれを直視することは禁じられている。しかし、一部の噂好きな者や、好色な者、そして島田和男はそれをこっそりと盗み見ていた。

御遣様が差し出した手を康子が握り、彼らは絡み合うようにして踊り始めた——


——あの日、島田が見たのは、豊穣を祈る先代桑原と康子の踊りだった。熱を帯びた行為の中で、一瞬だけ客席の島田を刺した冷たい康子の目が今なお生々しく思い出される。思い返すといても立ってもいられなくなって、額にはびっしりと玉のような汗が浮かんだ。

どうにもならない邪悪な思いを抱えながら、気づけば島田は下半身を硬化させていた。

自らの邪悪と、村の掟の邪悪を芯から感じながら、彼は今宵も康子の名前を吠える。その瞳は、カッキリと冴えていた。


(Ⅳ)



翌日、島田は昼まで寝入っていた。村の人間たちは、農業に、林業に忙しく精を出している季節だが、彼の参加は任意である。古い時代には担ぎ手は農業林業など、村の仕事への参加が禁止されていた時代もあったらしい。本来、彼らは物資と共に穢れを運ぶ存在でもあったのだ。

 目が覚めると、蝉の声が聞こえた。肌着にびっしょりと汗をかいていて、不快なあまりに再び寝入ってしまいたくなる。しかし、一度聞こえてきた蝉の声はなかなか耳から離れない。頭の中で毒づきながら、島田はゆるゆると床を出た。

 錆びの浮いた水道を捻って、しばらく水を出してから触ってみる。まだ冷たいとは言い難いが熱湯でなくなった事を確認してから口を濯ぎ、少し水を飲んだ。体の内に水が溶け込んでいく感覚がして、島田は多少は気分が晴れた。釜に残った黄ばんだ飯と、鍋に残ったぬるい味噌汁を直接掬って口にする。この生活と母への不快感が相まって吐き出したくなるような味がするが、無理矢理に飲み下した。


 島田が、空になった鍋を洗っていると玄関の戸をがらがらと開けて母が帰宅した。

「あんた、今頃朝飯かい?」母は出しぬけに島田を睨んで吐き捨てた。

「今片付けてるだけだろ。母ちゃんこそ、随分早えじゃねえか。」

「今日は松下さんと倉山さんが暑さで倒れましてね。あんまり暑いから、続きの作業はもう少し夕方になったらしようって事になったんですよ。こんにちは、和男くん」母の代わりに答えたのは、後から入ってきた藤木だった。

「ああ、そうかい」島田は苦虫を噛み潰したような顔で、やっとそれだけ答えた。

「今から昼飯用意するからそこどきな」

 母親と藤木は並んで台所に立った。

 島田は水浴びでもしてこようと、一度家を出ることにした。


 母と藤木の言うように、日光は目に苦しいほど真っ白な日差し落として、突然真夏のような暑さだった。島田は手で日差しを避けながら井戸まで行くと、冷たい水を頭から浴びた。ついでに肌着も洗ってよく絞り上げた。

 冷水で頭がすうとして、力を込めて肌着を絞り上げているうちに、島田の中にはむくむくと藤木に対する苛立ちが湧き上がってきた。帰ったら何を言ってやろうかと、頭の中で考えていると、突然背後から声をかけられた。

「おう、和男じゃねえか。」そこにいたのは、田原克雄だった。

「お、克雄さんじゃねえか。しばらくぶりだなあ」

「悪いな。前に、今度呼ぶ、なんて言って全然呼ばねえで。敦子に釘刺されちまってさ。…なんだお前え、そんな怖え顔して」

「え、変な顔してますかね俺」島田は慌てて水を掬い取ると顔にばしゃばしゃとかけた。

「まあ、いいや。いやあ、なんか敦子からよお。珍しく真面目な顔して、『いつかきちんと私から話しますから』なんて言われちまって。」克雄は笑っていた。島田には敦子がどうしてそんな事を言ったのかよく分からなかった。

「でもまあ、今日お前に会ったことだし。敦子が最近ドタバタやってる事について、お前なんか知ってんだろ?」

「ドタバタってなると、あれかい。村人を集会所に集めたり、絵茉ちゃんのことだったり」

「ああ、そう。それだよ。なんか知ってんだろ?」

 島田の頭の中で、敦子と藤木と母の顔が浮かんできた。自分が誰の肩を持つべきかは明白だった。島田は、克雄に向き直ると、彼の両手を掴んで強く握りしめた。

「克雄さんよ。俺からのお願いだ。敦子ちゃんが自分で話すって言うなら今の俺から言えることはねえ。でもどうか敦子ちゃんを信じてやってほしい。この通りだ。」彼は握りしめた克雄の手に向かって、縮こまるように頭を下げた。

「なんだなんだ、お前までそんな改まって。安心しろよあいつは俺の女房だ。別に悪いようにはしねえさ」いきなりの島田に、克雄はやや狼狽していた。そんな克雄に、島田はへへへと笑った。

「そうだよな。克雄さんは敦子ちゃんの味方に決まってるよな。良いもんだなあ…、夫婦ってのは」

「お前なんか変だぞ、暑さで頭やられた口か?とりあえず帰って寝た方がいいや」

「おう。そうだな。俺は帰んなきゃいけねえ。またな克雄さんよ」島田は克雄の手を離し、硬く絞り上げた肌着を広げて着ると、力強く家へと帰っていった。彼の胸の内は使命感に燃えていた。


***


 島田は肩を怒らせて帰宅した。

「あら、和男くんおかえりなさい。」藤木が台所から玄関へと笑顔を向けた。

「ただいま」先手を取られた気分で、島田はどかどかと居間に入り、どっかりと座り込んだ。

 藤木と母は、明らかに島田の存在に気を遣いながら小声で何やら囁きあっていた。島田にはその態度が気に食わなかった。

「なあ、藤木さんよい。」島田の呼びかけに、驚いた藤木が「あえ」と変な声を出した。

「なんでしょう?」こちらを向いた顔は柔らかい笑みを浮かべている。

「あんた、この前俺が変な匂いだって言ったの覚えてっか」

「あら、私そんなこと言ったかしら?」藤木は、隣にいた島田の母へ笑いかけた。

「あんた、男の癖にそんな馬鹿みたいなことぐちぐち言ってんじゃないよ!」母は会話を島田へと投げ返した。

「藤木さんよ。あんた俺からは何の匂いがしたよ。」島田はあくまでも藤木だけを標的に定めていた。彼には母と藤木を一度に相手取る自信はなかった。

 じっと睨みつけているうち、笑顔で誤魔化していた藤木が少しずつ居心地の悪そうな顔をし始めた。島田はただ、負けてはいけないとそれだけを考えていた。

「ええ、そうだわ。今思い出した。あの日ね。なんだか、島田さんはうっすら顔が赤くて、まるでお酒でも飲んできたような顔をしていたように見えた、ような…」

「そうかそうか。あの時、あんたには俺が酒を飲んでるように見えたんだな。村で勝手に飲んじゃいけねえ事になってる酒を。それで、俺にはそうは言わずに桑原さんにこっそり教えたんだな。島田和男が勝手に下界の酒を飲んでるって。母ちゃんよ、あんたの友達はあんたの息子を酒飲みだって密告したみたいだが、母ちゃんも聞いてたのか?」島田は冷静に淡々と、母の反応を見ながら言い切った。母は、一瞬血走った目で島田を見て、それからゆっくりと藤木を見た。しかし、再び島田の方へ向き直った。

「あんた、…あんたそんな事になってたのかい…」

「昨日敦子ちゃんが来てたろう。桑原さんに呼ばれたんだよ」

「敦子…敦子が、克雄が久々にあんたに会いたがってるって言うからあたしはてっきり敦子の家に行ったもんだと…」

「敦子ちゃんが気ぃ遣ってくれたんだなあ」

 島田の言葉に、好機とばかりに藤木が口を挟んだ。

「島田さん、聞いて!和男くんがお酒を飲んだのも、変になったのも全部あの敦子のせいなのよ。きっとそうだわ。あの女が、康子さんを殺して、村を下界の文化で穢してるのよ。あの新見とかいう家だってさっさと追い出せば良いのに。桑原様にもどうせ色目を使ったんだわ。桑原様も桑原様よ。好色だって話は有名だけど、何もあんなのに騙されなくたって、


 ——島田の目の奥で、火花が飛んだ。——


「あんた、あんた藤木さんになんてことしてんだい!」

気がついた時、島田の目の前には怯えた顔の老婆、藤木がいた。彼の手は、藤木の胸ぐらをがしりと掴んでいた。慌てた様子の母が島田の腕を必死で藤木から引き剥がそうとしている。

「あ、ああ」島田は狼狽しながら藤木から手を離した。彼が現実で他人に手をあげることは、この数十年の間で一度もなかった事だった。


引き剥がされた藤木も母も、そして島田自身も一様に怯えた目をしていた。

 島田は何も言葉を見つけられないまま、逃げるようにして玄関から飛び出した。


***


 川が流れている。蝉が鳴いている。手に持った大きなペットボトルがチャプチャプと音を立てている。そして、それらを掻き消すほどの心臓の音がする。

 島田は震える右手でキャップに手をかけた。彼の手にはまだ、先ほど掴んだくたびれた麻のシャツの感触が残っている。それを上塗りするように、右手に力を込め、そしてまたびくりとして力を緩める。彼は随分ともたつきながらキャップを外した。

 ボトルの口を唇に当てて、持ち上げてみるが、彼は唇の外だけを焼酎で濡らすと、力なく下ろした。敦子との約束があった。桑原の目があった。母の嫌な顔があったし、ほくそ笑む藤木が見えるようだった。幾度か繰り返して、島田はついに焼酎のボトルを投げ捨てた。頭の中がいっぱいになった彼は、結局のところ頭の中の康子に助けを求めた。彼女がいたら、康子ちゃんはどう思うよ、なんてぶつけられたら。


——「島田さんは飲みたいの?それ」飲みたいんだよ。「飲むとどうなんのさ」飲むと楽しくなるんだ。でもみんなが怒るんだよ。「みんなって誰よ」敦子ちゃんとか、桑原さんとか、母ちゃんもうるせえんだ。「敦子ちゃんは平気よ。あたしが言っとくわ。本家の言う事なんか聞くだけ馬鹿よ。あんたのお母さんは、あたしは嫌いじゃないけど。いいわ。あたしが許してあげる。」でも、康子ちゃんよお。康子はもう死んでいねえんだ。俺が喋ってるだけなんだよ。「何、あんた。あたしが許すって言うんじゃ足りないっていうの?」——


 どこにもいない康子の言葉に、島田はハッとして目を開けた。そして、思わず頬を綻ばせた。その瞬間に、彼はただ納得してしまった。

「康子ちゃんなら、そう言うに違えねえやな」

 のろのろと立ち上がると、横倒しで半分ほどが溢れている焼酎のボトルを拾い上げ、肌着を引っ張って飲み口を拭った。

 熱く、力強く、体を刺すような刺激のある歓喜が喉へと流れ込んでいった。


(Ⅴ)



 熱か酔いか、島田が薄ら赤い顔をして家の近くまで戻った頃、通りの南側から慌てた様子の綾子が走ってきていた。

「島田さん!よかったお家にいらっしゃったんですね」島田の元へ辿り着いた綾子は肩で息をしていた。

「お、おう綾子さんどうしたんだい」お、まで言ったところで一つ吃逆が出かけて、島田は慌てて胸を押さえつけた。

「…それが、絵茉の小学校の近くで、包丁を持った男が出たらしくて…、それで学校から急遽下校にするから夕方までに迎えに来てくれって電話があって…、近所の子がいたら誰かに頼んでも良いそうなんですけれど。ほら、うち近所の子なんていないし、うちの車は今晴之が乗って出ちゃってるし帰りは明日になるしで…、突然で本当に申し訳ないんですけれど、絵茉を学校まで迎えにいってもらえないかと思って」綾子は、島田が見たことのない顔をしていた。

「おお、おお、わかった。絵茉ちゃんが危ねえんだな。小学校まで行きゃ会えるんだな。分かった。任してくれ。俺に任してくれや!」島田は、綾子の肩を掴んで言った。

 綾子は小さくなってお礼を言っていた。


 島田は足に力を込めて走っていくと、自宅の扉をガラガラと開けた。

「あんた、どの面さげて帰ってきたんだい!」驚いた母が罵声を飛ばした。

「うるせえ!俺には今から大事な仕事があんだよ!」島田は下履きも脱がずにどかどかと居間に入り込むと、怯えた藤木も、睨みつける母も無視して軽トラの鍵を引っ掴んだ。

「あんたまた下界の酒なんて飲んでんじゃないだろね!」

「飲んでるわけねえだろ!」島田は怒りに任せてそう言い切ると家を飛び出した。彼の頭の中では、包丁を突きつけられて怯えている絵茉の姿が浮かんでいた。


 回転数の上がり過ぎたエンジンはブオンと強烈な音を村に響かせて村を出ていった。——島田の家で、母が小さく祈るようにして手を合わせた。


***


 小学校の校庭は車でごった返していた。ジャージを着た教員に案内されるままに車を停めると、島田は子供達がいるという体育館へと走っていった。

「絵茉ちゃん無事か!」飛び込んだ島田の声が体育館に反響する。子供も保護者も皆んなして島田を振り返った。

きょろきょろと辺りを見回してみると、ニコニコした絵茉がこちらへと歩いてきていた。島田は慌てて駆け寄ると、しゃがみ込んで彼女を抱きしめた。「おお、絵茉ちゃん無事か。良かった、怖かったな」島田が絵茉の頭を必死で撫でていると、奥からワイシャツ姿の男性がツカツカと歩いてきた。

「どうもこんにちは!絵茉ちゃんのお知り合いの方ですか?」ニコやかに問いかけてきた男性に、島田は一瞬答えを迷った。

「ううん、先生。おじいちゃんじゃなくて、島田のおじちゃんだよ。」絵茉は男を先生と呼んだ。

「どうも先生、こんにちは。俺は絵茉ちゃんと同じ村で、絵茉ちゃんとこ、新見さんとこと仲良くしてる島田和男っつうもんです。」島田は立ち上がってぺこりと頭を下げた。

「ああ、村の…、そうでしたか。今日のお迎えは保護者の方々にお願いしているんですが」先生がそこまで言うと、横からもう少し年配の女性の教師が現れた。「あ、藤崎先生、先ほど絵茉ちゃんのお母さんから「島田さん」という方がお迎えに行くと職員室に電話があったんです。お伝えせずすみません。」

「そうでしたか…、これは失礼いたしました。では、島田さんよろしくお願いします。」藤崎という教師はさっと頭を下げた。

「任せてください!じゃあ、絵茉ちゃん、帰んぞ!」島田が元気良く言うと、絵茉は彼の腕を逃れて、少し離れた所に並べてあったランドセルを背負った。そのまま、まだ迎えのこない児童の整列の中に入っていき、一人の小柄な男子生徒の手を掴んで連れてきた。

 絵茉に手を引かれた少年は、年齢にそぐわない訝しむような目つきが特徴的だった。島田はその少年を知っていた。いつかの日にも、絵茉の隣で全てを疑うような怯えた目をしていたあの少年だった。彼は毛玉だらけの透けるほど薄いTシャツを身に纏っていた。

「ユウくん一緒に帰ろ。」絵茉はニコニコしている。

「僕は、いい」ユウは俯いている。絵茉はかがみ込んでその顔を見つめた。「ユウ、ユウくんは一緒に帰るの。」

「…分かった。ランドセル取ってくる」ユウという少年は、とぼとぼと荷物を取りに歩いていった。絵茉も手を握ったまま着いていった。彼の取ってきたランドセルは、そのボロの服には似つかない綺麗な細工の入ったキャメル色のものだった。

「悠太くんは、絵茉ちゃんと一緒に帰るんだね?」帰ってきたユウ、悠太に先生が問いかけた。

「はい」

「お家には…、この時間は出ないかもしれないけど、一応電話を入れておくね。」

「ありがとうございます」悠太の声には、諦めのようなものが滲んでいた。

「ではすみませんが、島田さん。うちの生徒をよろしくお願いします。」藤崎先生は再度頭を下げた。——


——「ゆうくん、で良いのかな?君はどこん家の子だい?お家まで案内できそうか?」島田は、自分のシートベルトを着けながら聞いた。隣の座席からは絵茉用のチャイルドシートが外され、無理やりに二人が一席に押し込まれている。

「はい。出来ます」悠太が答えると、横から割り込むように絵茉が口を挟む「ユウくんは家に一緒に帰るんだよ」

「お、なんだ。ユウくんは絵茉ちゃん家で預かるのかい?」

「いや!違います。僕は自分の…家に帰ります。」悠太は慌てたように声を荒げた。

「ううん。そうだな。今日はお家の人も心配してるかもしれねえ。ゆうくんも家に帰った方が良いだろうよ。お友達と一緒にいたいのは分かるけんど、分かるな?絵茉ちゃん」島田がチラと横を見えると、絵茉は不満そうな顔をしていた。悠太はただ黙って俯いていた。

 島田は教師の誘導にしたがって、軽トラを校庭から出した。

 絵茉は終始ニコニコと悠太に話しかけており、悠太はやはり俯いてぼそぼそと相槌を打っていた。島田はこれ幸いと必死でハンドルを握った。アクセルに足を乗せると、隣に乗っている悠太のあの日の顔が頭に浮かんだ。

 慎重に運転しようとするほどに、普段の感覚は見失われていくようだった。ハンドルの重さも、アクセルの重さも、いつもより軽く感じる。真っ直ぐに走ろうとすると車線の右側に寄りそうになる。島田の車はスピードに嫌な緩急をつけながらフラフラと進んでいった。載せているのは、大事な絵茉と下界の子供である悠太だ。もし何かあったら村を揺るがす一大事である。彼に帰る場所はなくなるだろう。

「あ、ここ右です。」突然に悠太が言った。

「お、ここか?」島田は慌ててブレーキを踏んだ。背後からギュウとクラクションが鳴る。バックミラーに見える後続車のフロントは驚くほど大きかった。島田は窓から身を乗り出して背後の車に「申し訳ねえ!」と叫ぶと、冷や汗をかきながら右折した。

 島田は悠太に何も言わなかった。言う余裕がなかった。しかし、何を察したのか悠太の道案内は早く的確に変わっていった。


「この辺りで降ろしてください。」いつもの帰り道から外れて5分ほど走った頃、悠太が突然言った。

「お、この辺が家か?そこまで行ってやるから大丈夫だぞ」

「いえ、この辺で降ろしてください。」

「遠慮しねえでいいんだぞ」

「お願いします。降ろしてください。」

「…そうかあ。じゃあこの辺で降ろすな。」

島田は道に寄せて車を停車した。

「ユウくん、帰るの?」絵茉が尋ねた。

「僕は帰らなきゃいけない」

「ユウに帰らなきゃいけない場所なんてないんだよ。人は帰りたい場所に帰るの。」

「絵茉ちゃんの言うことは難しいよ。」

「おう絵茉ちゃんや。お友達と一緒にいたいのは分かるけどな。今日は帰してやろうな。今日はちと遊ぶには危ねえんだ。」島田は、悠太を引き止める絵茉を愛らしく思った。

「ユウくん、手貸して」絵茉は悠太の手をむしろ迎えに行くようにして握った。島田の目には、悠太が頬を染めたように見えた。

「島田のおじさん、ありがとうございました。絵茉ちゃん、また明日」悠太は小さく頭を下げて車を降りようとした。島田が慌てて降ろしてやろうとしたが、助手席側に回るよりさきに悠太は車をよじ降りていた。「無事帰れな!」島田は慌てて声をかけた。

 悠太は、車の背後に回ると発車を見送るかのように立ち止まった。動かない様子を見て、島田はエンジンをかけた。悠太を降ろした事で多少肩の力が抜けていた。そのせいだろう。島田はいつもの通りに無心で発車しようとした——


島田の体に後ろへと引っ張り込まれるような衝撃。止まらないリバース。バックミラーに張り付いた悠太の驚いたような顔。島田は慌てて背後へと体を捩る。一瞬だけ見えた絵茉の青い目。島田が目を瞑ろうとした瞬間、視界の端で絵茉が手を突き出した。その手は、ハンドルから離れた島田の左手に向けられていた。世界の音が全て消えるほどの恐怖の中に一つ、二つの掌を突き合わせる音が、


——パン——


 島田が目を開けた時、彼の車は静かに停車していた。バックミラーの中で、悠太は目を固く瞑って何かに備えていた。慌てて隣を見ると、青い目をした少女が静かに島田の手を握っていた。柔らかい少女の指が、まるで息子を撫でる母のような温もりを伝えていた。

「帰るよ。島田さん」少女の顔は冴えるほど柔和な笑みを浮かべていた。

 島田は悠太のことも忘れて慌てて車を出した。彼は、ただ起きたことを知っていた。


***


 帰った家には誰もいなかった。

 島田はただ静かに一本の包丁を抜き取ると、再び家を出た。

全てに変えても為さなければならない仕事があった。


 夕暮れが近い。大半の村人は、涼しい時間に合わせて農業に精を出している。通りには誰もいない。

 剥き身の出刃包丁を手にした老いた男が一人、ゆらゆらと歩みゆく。


 懐かしい記憶が蘇った。

 道を走っていく子供達の群れ。先頭を行くのは克雄である。その後ろには康子、そして康子に向けてずっと話しかけているのは鼻水を垂らした島田自身、いく人かの更に幼い子供を急かしながら最後尾に着くのは敦子である。いつも4人を中心に山で遊んだ。山は子供達を、村人たちを愛してくれると教えられて育った。子供ながらに父から教育されていた克雄はよく山を知っていた。康子はいつも、そんな克雄に活発にくっついて行った。島田はそんな克雄を羨ましく思ったものだった。夕暮れ時になると、毎日続くことだと言うのに名残惜しい気持ちを抱えながら走って村まで帰ったものだ。


 老いた島田の胸が詰まった。涙を流すなんて、いつぶりだろうか。しかし、彼に後戻りは出来なかった。やはり、康子は正しかった。敦子は正しかった。絵茉は、ただの愛らしい少女ではなかった。

 そして何よりも、今村人と共に働いていない島田にまでその掌は届いた。酒にも、康子にも為せなかった救いが彼の元へ届いた。


 遠く夕闇の中に、帰ってくる村人の影を確認して、島田は大通りを離れた。家々の裏を通って、目的の家へと辿り着くと、島田は息を殺して蹲った。右手に握りしめた包丁は、使い古されて鈍い輝きを放っていた。不安になった島田は左手の人差し指を軽く切りつけた。すうと血が滲むのを見て安心すると、指先を口に含んで止血を試みた。舌に触れた手はうっとりするほどつるりと滑らかだった。——ああ、敦子ちゃんは正しかった——


 家の中から、人の気配がした。

 島田はさらに神経を過敏にさせて、家を挟んだ先の通りから人が消えるのを待った。

 永遠にも感じる時間の後、家々には明かりが灯り、村は静まった。時間だ。


 島田は背後に包丁を隠すと、そろそろと表に回った。

「おう、藤木さん。島田だ。あんたに謝りたいことがあって、ちょっと開けてくれないかね」島田は藤木家の玄関で、情けない声を出した。

「あら、和男さん?」訝しげな声が中から帰ってくる。

 ガラガラと音を立てて、戸が開いた。

 島田は、一歩家中に入ると、そのまま藤木の口に左手を押し当てて彼女を押し倒した。老婆を相手にするには、担ぎ手で鍛えられた島田の体は余りにも強かった。組み伏せた藤木の口をこじ開け、指を突っ込み叫ばれることを防ぐ。そして島田は、彼女の胸に一息に出刃を埋めた。まるで二人で練られた舞のようだった。

静かで迅速な動作によって、島田は藤木を刺殺した。


***


「母ちゃんただいま」

島田が家に帰ると、母は島田のほうも見ずに、「どの面さげて…」と吐き捨てた。

「なあ、ちょっとこっち見てくれよ。」

 母の息を呑む音が聞こえた。心底驚いた時の母親は叫び出すよりも声が出なくなる性質だと言うことは、島田には知っていたことだった。

「俺さ。もう、ここにも村にも帰らねえからさ。母ちゃんに謝っとくけど、包丁ダメにしちまった。あと、お願いなんだがこの鍵を桑原さんか村長に返しといてくれや。」島田は軽トラの鍵を居間になげた。

「あんた、それ誰ん血だい」母の声は震えていた。

「聞かんでいい」

「どうせ…、藤木さんだろ。」

「なんだよ。折角母ちゃんの為に隠してやったのによ。」島田は壁にもたれかかった。

「あんたは、康子さんの味方をしてくれるもんだとばかり思ってたがね…。まさか敦子の側に付くとわね。」母はどうやら泣いているようだった。

「それは違えや、母ちゃん。敦子ちゃんも、康子ちゃんも、同じことを見てたのさ。本物なんだよ。あの絵茉って子は。」

「んな馬鹿ん話があるか…!それに本物だとしたって、お前にゃ関係ねえ話じゃねえか。お前は自分から担ぎ手になってあたしを泣かせたのを忘れたんかい?」

「それがさ。違うんだ。あの子は、俺のことも救ってくれたのさ。誰もはっきりは言わねえが、そうだよ。担ぎ手なんてのは、穢れだ。村じゃ一番救いから遠い存在だ。まあ、母ちゃんは嫌だったんだろうけんど、俺はさ。康子ちゃんの事が本気で好きだったんだよ。でもほら、あの子は形代様だから。同じように村のために苦労しようって、そう思ったんだ」

「馬鹿だね…そんな事…」

島田は、壁にもたれた身を起こした。「じゃあ、俺は行くよ。」彼は玄関の戸に手をかけた。


「待ちない、…あんたもう帰ってこない気なんだろ?」

「ああ、どこ行くかは決めてないけどな。穢れは村にはいられねえよ。」

「じゃあ、聞いていきな。…あんたはね、康子さんが好きだったかも知れないけど。どうせあんたたちは結婚なんて出来なかったのさ。」

「なんだよ急に」島田が振り返ると、母は小さく正座をして、膝を握りしめていた。

「康子はね。あんたの妹だったのさ。」


母は一度立ちがると、洗い場で乾かしている湯呑みを取って水道から水を汲んだ。自分で一口飲むと、残りを島田に手渡して元の位置に戻った。


「あたしは若い頃長いこと石女だった。あんたが生まれたのは、あたしが30の時さ。それで康子が生まれたのはすぐ次の年さ。うちの父ちゃんが馬鹿だったし、あたしも子が出来づらい体だと思ってたからね。まさかすぐ妹が出来るなんて思わなかった。あんたが生まれるまでは毎年村長に届出を出してたさ。嫁子のいないあんたでも知ってるだろ?村じゃ子作りをする年には村長に届出を出して許可を貰わなきゃいけない。養える食い扶持にも限界があるからね。それで、その許可を出してない子供はいなかったと同じさ。あたしみたいに、許可をもらっても出来ない女もいるから、大抵の年には急に出来た子にも恩情はある。だけんど、康子が生まれた年には偶然に、空きがなかった。でも、あたしはあんたが生まれるまで長かったのもあってね。折角身籠った次の子をどうしても間引きたくなかった。だから村長に相談に行った。そしたら村長が言うんだ。先代の形代様の喜代様がじきに引退を考えてるとね。もし次の子が女の子だったら、形代様として引き取ることを条件に生かしてやると言われた。あたしも迷ったさ。結局、決められねえ内に女の子が、康子が生まれた。そしてあの子は、うちの子じゃなくなった。島田と呼ばれることは二度となかった。形代様の、桑原の康子になった。

 ただでさえ、康子がそんなだってのに、父ちゃんは早くに死んじまうし、お前は変に康子なんか思って、あたしに相談もせずに担ぎ手なんかになっちまったし…。

 絵茉が、担ぎ手のあんたを救っただ?あたしからすりゃ、あの子があたしの家族を二人も、それに今最後のあんたまで取り上げてったようなもんさ!」

ガシャンと大きな音が鳴った。それが自身の手から落ちた湯呑みが割れた音だと島田が気づくには数秒の時間が必要だった。


「——出ていきな」母の声は震えていた。

「母ちゃん、」

「さっさと出てけってんだよ!」島田の脳に響く嫌な周波数の声だった。

「長いこと飯食わせてくれてありがとう。」島田は玄関の戸へ向き直った。「長生きしろよ。」


 その晩、村を出ていった島田和男がどこへ消えたのか。その行方は杳として知れない。


(Ⅵ)



 その晩、島田の母ミツ子が力なく項垂れていると、玄関を叩く音がした。

「すみません、夜分遅くに申し訳ありません。島田さんはいらっしゃいますか?新見綾子です。」

ミツ子は、文句の一つでも言ってやる気でノロノロと立ち上がり、玄関の戸を開けた。

「あい。和男なんていねえよ」

「こんばんは、あの、島田さんのお母さんですか?いつも和男さんにお世話になっております。綾子と申します。実は島田さんに謝りたくてきたんです。」

「謝るだって?」

「あの、今日実は和男さんに絵茉を迎えに行っていただいたんですが、私その時ちょっと気が動転していて、急に面倒なことを頼んでしまったなと。後で電話で主人に伝えた時にも怒られまして…。それで、これお詫びというかお礼というか、ちょっと料理を作ってきたので、良かったら食べてください。」

「あ?」殆どミツ子が喋る隙もなく、綾子は捲し立て、大きなタッパーを手渡してきた。

「また、和男さんに直接お礼は伝えますね。どうも、遅くに突然申し訳ありませんでした」綾子はぴっと頭を下げると帰ってしまった。

 村人と違う勢いで話す彼女に圧倒されているうちに、ミツ子とタッパーだけが残された。


 ミツ子は一人、下界の料理を捨ててしまおうと思って、薄明かりの台所でタッパーの蓋を開けた。中身は、どうやら肉と野菜がトマトで煮込まれているらしい。ひどく食欲を誘う良い香りがした。

 昼から何も食べていない事を思い出したミツ子は、サジを取ると料理を一口掬ってみた。彼女は投げやりな気分でそれを口にした。

老婆は長いこと、口をもぐもぐと動かしていた。それは味わっているようにも、飲み込みかねているようにも見えた。


「ふん。あんた、こんなもん食ってたのかい。そりゃあたしの飯なんか美味くねえわな」ミツ子の声は独り寂しく夜に吸い込まれた。


***


ミツ子はふん、と鼻を一つ鳴らすと、力の入らない老体に鞭打って家を出た。彼女の手には油で満たされた瓢箪とマッチが握られている。

 家の裏手に回ると、大凡の予測を元にして鳥目気味な目を凝らす。古い家の土壁と地面との間に、何やら土が盛られて周囲から浮いている箇所を見つけた。彼女は掘り出したアルミのクッキー缶を抱えて、猫背気味の背中を必死で起こしながら夜の森へと入っていった。

 殆ど整備されていない方面の森の中に、うっすらと獣道のように隙間ができていた。一筋だけ下草が踏まれている。彼女はその足跡を追って行った。

 20分も歩くと、一つの川の流れに行き着いた。さらさらと音を立てて小さな川が流れ、その周囲だけ地面は岩に覆われて空から白い光が落ちている。


 ミツ子は石の一つに慎重に腰掛けて、アルミの缶を開いた。

 中身を確認することはしなかった。それに、もう何十年もの昔から、彼女にはその予想が立っていたのだった。

 ミツ子は、アルミ缶へ向けて瓢箪を傾ける。黄金色をした液体がとろりと溢れ出て、瓢箪の中でとぷんと音を立てる。彼女は慣れた動作で一本のマッチに火をつけ、缶の中へと落とした。途端にびょおおという音を立てて火の手が上がった。ぱちぱちと紙が燃える音がして、細かな灰が宙をまった。


 中身が燃え尽くすまでの間、ミツ子は両手を合わせ、黙然として祈りを捧げ続けた。

 ちらちらと燃える火が、老婆の頬にこびりついた涙の跡を、撫でるようにして照らしていた。



(第二章 終)

第三章 御遣の女:福山春子 11月号掲載予定









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