黒薬草になった男
泊木 空
その植物をどこで見つけたのか、いまとなっては思い出せない。
駅前の公園だったか? そこなら毎朝の通勤で近くを通る。
いや、そこでなくて家の前のコンクリートの裂け目だったかもしれない。
いずれにしても、どこにでも生えていそうな草なのに、一度目にしたら忘れられない。人目を惹き付ける何かがある。
それは、そういう奇妙な植物だったようだ。
◆
つくしのようにまっすぐな茎に、萼から螺旋状につぶつぶとした花が咲いて、それが茎の先端までついている。草は不思議な形をしていた。色も、錆び鉄みたいな色だ。茎の先っぽについた粒は種だろうか?
革靴の爪先で葉を蹴った。
出勤ラッシュを避けるために、いつもは出勤時間よりも一時間半前に到着する電車に私は乗るのだが、その草を見つけたとたん、仕事に間に合う最終電車の来る時間を頭の中で計算し始めた。
八時五分。それに乗れば大丈夫。
私は植物に目がない男だ。
夏になれば必ず、ゴーヤーと胡瓜でグリーンカーテンを作る。過去に作った全長五メートルのグリーンカーテンは、市内の町おこし事業として開かれた『グリーンカーテン・コンテスト』で栄えある市長賞を二度ほど頂いたこともある。景品は米ぬかと堆肥、地元産のお野菜。それはいまでも覚えている。趣味が土いじりの他にない、私のような人間にとってあれは実に名誉なことだった。
この頃は道すがら、地面に落ちている果実を持ち帰り、そこから種を採取して、発芽させるという密やかな楽しみを開発してもいた。
そうだ、柿の樹から落ちた実から発芽させたばかりだった、その草を見つけたのは。
見たことのない草だ――
私が住んでいるこの土地に生える、古くは山村であったところの痩せた土でも生きていける逞しさとガサツさに溢れた野草の雰囲気はなくて、イギリスの庭園育ちと言いたげな流麗な振る舞いで、風に揺れながらその草は生えていた。
外来種の、珍しい薬草だろうか。
私は辺りを見回した。ここは人家でもないし、私有地でもなさそうだ。
指先を茎の根元に差し込んで、少しずつ爪で土を掘る。背中に太陽光が当たっていて、暑くて、じっとり汗をかき、ワクワクする。どんな植物なのだろう、これは花を咲かせるだろうか。根っこを掘り起こすと土を落として、そのままリュックに入れようとしたとき、違和感が走った。
根っこが私の指に絡みついている。
つまんでいた手を離すと、指先についたままぶらーんと垂れ下がった。
根っこが、粘着質なのか? しかし粘り気は感じない。ただ、根っこが指をぎゅっと掴んでいる。そんな感じだった。
チクッと、指先に痛みが走る。チクチクチクチクと痛みが続く。思わず草を引っ張ると、ぶちり、という感触があり、血が垂れた。
よく見ると指先に小さな穴が空いていて、そこから血が流れているようだ。
指は火照って、ジクジクと熱く疼いてくる。
根っこが指に穴を開けたのか?
いやいや、動物でも寄生虫でもなければ、そんなことはあるまい。
おそらくトゲのようなものがついていて、それで傷ついたに違いない。私は血をハンカチで拭うと、草をリュックサックに放り込んだ。指の疼きはさらに増してくる。
腕時計を見ると、もうじき八時だ。握り拳を作ってぎゅっと力みながら、いそいで駅に向かった。
◆◯
「なに、そんなに勢い込んでどうしたの」
家に帰ってくるなり、園芸用の日除け帽子を被り、ワイシャツのままで庭に出ようとした私に、妻が声をかけた。
「ああ、いや。手入れだよ手入れ」
「服着替えてからでいいじゃん」
「いまやりたいんだ、どうしても」
心臓がバクバクしていた。自分の話した言葉が頭の中で反響する。非常に興奮していた。拾ってきた実から種を植え付けるときにいつだってこうなってしまう、どんなことを後回しにしてでも、いま、あの植物を植え付けたいという衝動に駆られて。
私は玄関扉を半開きにして、妻を振り返って立っていた。
「そんなに怒った顔しなくてもさ」
妻の顔がひきつっている。
「いいや、別に怒ってはいないさ」
私はリュックサックから草を取り出して手のひらに乗せ、玄関を出ると、スコップを持って庭に降りた。
トマトとナスを植えている一角に、畑の土が余っている。そこを軽く掘り返し、雑草の根っこをスコップでぶちぶち断ってから、草を植え付けた。
「できたぞ」
植えた草の茎を、指で撫でた。
「どうだい、この土は・・・俺が手入れした良い土なんだよ。きっと気に入ってくれるよな」
草を上手に育てるコツは話しかけることだと、あらゆる園芸誌に書いてある。私は日頃から乳児に話しかけるのと同じように野菜にも話しかけていた。その草はまっすぐに茎を伸ばしていて、私の指が触れるに任せて左右に揺れていた。
愛らしい奴。
寒気がして、くしゃみした。つーんと後ろ向きに気が遠のいて、頭がぼんやりする。風邪をひいたのだろうか。
草を撫でていると、根っこで切った指がひどく腫れていることに気がついた。いまではパンパンに膨れ上がって、妙な光沢さえある。指は葡萄色だった。
仕事が休みの日に皮膚科に行かないといけないだろう。
◆◯◆
「なにをしてます、か」
土曜日、お昼ご飯を食べたあとに庭に出て、草の回りに肥料を蒔いていたときだった。
庭の門の向こう側に頭にタオルを巻いた男が立っていた。男は日に焼けていて、浅黒い肌をしている。黒い瞳孔が私をじっと見つめていた。
「お兄さん、なにを」
私はニッコリ微笑んで答えた。「家庭菜園です」
「うん。でも、その草」
男は門に手をかけて、指をぴんと伸ばした。
「それ、その草、私たちの国の」
植えてきたあの草を指差している。
「これは雑草ですよ、お兄さん。そこら辺に生えていたものを拾ってきたんです」と私は説明した。「あなたの国にも生えているんですか?」
男は、困ったように眉をひそめ、私を見つめながら、瞳を大きくする。
「かえして」
は? と微笑んだまま答えた。
「それ、私の国の、テキスリア。危ない。かえして」
「いいえ、これは私のです」
公道で拾った草や実は、誰ものでもない。敷地内に落ちていない限り、それは誰でも拾っていいものだ。せっかく見つけた珍しい草を、どうしてこの男に渡さなければいけないんだ?
「ちがう、それはまちがった」と男は慌てふためいた。声が大きくなって、ご近所の静かな昼下がりを緊張でぴりりと包んだ。男が腕を掛けた門ががしゃんと揺れる。斜向かいの家の前で井戸端会議をしていた主婦の三人が、口をつぐんで、物珍しそうな視線を私に向け始める。
危機を覚えた。
「あの、警察呼びますよ」
そのとき、指に引き裂かれたような痛みが走った。「あっ」と声を上げて指を見る。葡萄色をしていた指がぱっくり裂けていた。皮膚は果肉のついた皮のように垂れ下がり、指の肉は黒っぽくドロドロとして、嫌な臭いがぷんと漂った。
黒っぽい肉に、白い粒がびっしりとついている。
「なんだこれ? いたい、いたい! 助けてくれ」
すがるように見上げると、男の微笑みと目が合った。
「おめでとね」
怪訝に見つめ返す。
いま、おめでとうと言ったのか?
「なんですか、おまえは――」
「おめでと。あなたはこれから神様ですよ」
門を開くと男がぬっと身体を乗り出した、微笑んだままで、蹲った私に覆いかぶさると、もがく私の腕や脚など関係なく、男はさっと抱きかかえた。あっという間だった。叫ぶべき声も分からないほどに。
男は道を駆け出した。主婦たちは驚いて、ボーリングのピンのように突っ立ったままだ。そのうちに家々が、恐ろしいほどのスピードで後ろに流れていく。
「これから、あなたは苗」
圧倒的な勢いの波に飲まれて、私は男の腕の中で、ただ声を聞いているだけだった。
「種をフォークで掻き出して、あなたの身体に植えます。すると、芽が生えます。自家栽培」
「なんで私が」
「あなたは無関係ではなかった。変に心配しなくてよかった。あなたは素質のあるひとだ」
ああ、こんな不可解な状況なのに、『素質がある』と聞いたとき、なぜ一抹の安堵を抱いたのだったろう?
私は、私の心中が分からなくなるとともに、熱っぽい身体から湧き上がる怠さに押されて、こっとり気を失ってしまった。
◆◯◆◯
「ああ海の辺、岩蔵のへそ、草葉の陰の底、泡が生まれるテテミナ眠る」
木の枝を家の壁に沿わせて音を鳴らしながら、子どもたちが歌い、走る足音が聞こえた。
目を開くと、正午だった。私は片腕で頭を支えたまま、横たわった身体を少しだけずらす。
嫗が囲炉裏で炊いたご飯の鍋から煙が立ち上り、家の天井がもうもうと烟っている。戸口から子どもたちが現れ、私に向かって駆け寄った。みんな、蓮の実のような穴ぼこがいくつも開いた植物を持っていて、それを横たわる私に伸ばした。たらたら、水が垂れ落ちる。
「ああ海の辺、岩蔵のへそ、草葉の陰の底、泡が生まれるテテミナ眠る」
私の皮膚は水を吸って、内側から生気がみりみりと膨れ上がるのを感じた。
「ありがとう」
たぶん、ここにいるのは数ヶ月だが、聞き慣れてしまったこの土地の言葉で感謝を伝えると、子どもたちは両手を合わせて頭の上に掲げた。それが感謝の返事になるらしい。
嫗が差し出した、炊きあがった穀物の種を子どもたちは美味しそうに頬張り、家から出ていった。とたんに、静けさが満ちてくる。
「ええ、あんた、ここに来て長くなるけど。どんな気分だい?」
嫗が、鍋をお玉で掻き回しながら私に問うた。
「なかなか悪くないですよ」
「そうか。今日で役目も終わりだからな。それまでの辛抱だ、もうじき故郷に帰れるよ」
そうですか、と私は呟く。
ここに連れてこられた日、私は地面に掘った穴に横たえられた。身体から細い根っこが生え始め、夢のように土粒の間に生え広がった。そうなるともうびくとも動けなかった。私は妻のことを考え、手を付けられていない我が菜園を思い浮かべ、悲しく無念を覚えた。妻は私のいない家で、そして菜園は手入れする者を失って、どうなっているだろう。
しかし、数ヶ月も経つと、むしろこの環境に充足している自分を見出すことになった。
これまで育てるのが好きだった植物に、いまは自分がなっている、それは不思議な感覚だ。村民たちに水をかけられ、虫がつかないように丁寧に手入れされる。仕事で追い詰められることもなく、空腹もなく、誰かに嫌味を言われることもなければ、その代わりに村民たちに有難がられて尊ばれる生活。
私は堪えようのない幸せな気分を感じ、その時間をうっすら愛してもいた。
もう、家に帰っても、もとの暮らしはおくれまい。
それならいっそこの村で暮らしていくのはどうか。
でも、現実は冷酷だ。
私はこの村の、薬草の苗として存在しており、それが全てだった。役目が終わればもとの世界に帰される。
「泣いているのかい?」
嫗の心配そうな声に、はっとする。いつの間にか私は、涙を流していたのだ。
「ええ。帰ることを考えたら泣いてしまいました」
「あれだけ帰りたがってたじゃないか。どんな風の吹き回しだい」
「けっきょく、住めば都、なのでしょう」
嫗の顔が固まったので、「そういうふうに私のいた世界では言うのです」と説明した。
「住んで暮らしている場所こそ、故郷になるものだと」
「へえ。そりゃ贅沢な言葉だ。何十年もここで暮らしても、いまだに故郷を想う者らはこの村にたくさんいる。」
ある住民が言っていた言葉、戦争、という単語が、記憶の底から浮かび上がる。ここはもともと、南北の戦争の疎開村だった。
贅沢。そうかもしれない、と思う。
「確かにそうですね」
目をつむると、思い出すのは故郷ではなく、私に水をかけてくれる子どもたちや、面倒を見てくれる大人たち、そばで話しかけてくれる翁や嫗たちの顔だった。
しばらくして大人たちが鎌を持ってぞろぞろやってきた。楽隊が木の幹や枝から作った楽器を後ろで吹き鳴らしている。大人たちは、私の身体からぼうぼうに生えた黒薬草を根こそぎ刈り取っていった。ぶわりと芳しい香りが満ち溢れて、ぷつりぷつりと茎が切断される感触が、身体の底に響いていった。
「あんたが苗になってくれたおかげで薬が作れる。感謝してるよ」
「ここ数年は異常なほど暑くなったり、髪の毛が凍るほど寒くなったりする日があったから、テキスリアが自生できなかった」
「きみが村を救ったんだよ」
鎌を持った大人のひとりがそう言うと、誰かが私の身体を撫でてくれた。
すべての薬草を取り終えると、嫗が儀式の準備を始めた。私の身体に水をかけ、額を地面に擦り付け、唸るように呪文を唱える。刈られたばかりの薬草を私の回りに円にして敷き並べ、その上を、大人たちが踏みしめながらぐるぐる歩いている。子どもたちが楽隊の音楽に合わせて歌い、大人たちが足踏みでリズムを取っている。
木の皿に赤い実をすり潰したペーストが入っていて、嫗からそれを塗りたくられると、猛烈に眠気が襲ってきた。
「私たちの生活に、幸せと健やかなるいのちをもたらしたこと、感謝を申す」
嫗の力強い詠唱とともに無数のひとびとの声がいっせいに聞こえた。私は声に埋もれて、深い眠りについた。
次に目が覚めたらまたこの場所にいれたらいい。
そう思いつつも、妻がいまも暮らしている懐かしい故郷に帰れたらどんな気分になるだろう、とうっすら夢想もした。
いま、あなたの靴先に蹴られ、私の茎が揺れている感触を覚えながら、それは怒りなどではなくてむしろ、あなたもあの村に連れて行くことができるだろうかと、ときめいている。
儀式の後、この世に帰ってきたけれど、私は黒薬草の姿になっていた。どうやら、黒薬草になった者はもとの世界に戻っても黒薬草のままらしいのだ。
この世の片隅の、タイルの隙間に紛れて生きているけれど、あの村を懐かしんでいまも私は帰りたがっている。
だから、興味を持ってくれた人間に根付いて薬草の苗にし、村民が再び見つけてくれることをいまかいまかと待ち望んでいる。
私の見た目に興味津々になって、掘り起こそうとするあなた。
あなたの指先、私の根っこをくすぐるように掻き出す手のひらを強く感じる、ようやく私は解放を空想する――
「ふうん。不思議な見た目の草だね。触るとふるふる揺れて、可愛らしい」
私は鳥肌が立つような喜びで、葉をゆさゆさと揺らしていた。
(道端に生えている名も無い草に、ご用心を。)
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