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Talker#07 | 村田行雄(九霞園/盆栽町)

1929年に盆栽町で開園した九霞園を3代目として今につなぐ村田行雄さん。盆栽はもっと楽しく、あんまり偉そうじゃなくてよいという思いで盆栽と向き合っています。盆栽町らしい景色が失われつつある今、園の当主として感じている思いや、盆栽の魅力、楽しみ方についてお話いただきました。


TalkTimeの様子

盆栽村誕生のきっかけ

3代目と伺ったので、小さな頃から盆栽教育を受けてきたのかと思いきや「盆栽はただ身近ではあったけどまったく興味がなかった」とおっしゃる村田さん。自分の興味が赴くままに、大学を出て就職した5年後に、美術史を専攻すべく再び大学へ入学。そのまま大学院へ行こうと考えていた時に、盆栽町を卒論のテーマにしたいという学生が九霞園に来たことで、外に向けていた研究対象が実は内側にもあるのだと気づき、30歳を過ぎたころ3代目として盆栽の世界に入ったそうです。まずは盆栽町の歴史についておうかがいしました。

村田さん:大正12(1923)年9月に起こった関東大震災により、被災した東京の盆栽業者が新天地を求めて開拓したことが盆栽町の始まりです。
東京周辺、神奈川、千葉などを歩いた結果、当時、大宮町から離れ広い松林だった現在地が候補にあがりました。また、九霞園初代の村田久造が生前語ったところによりますと、開拓者の一人に氷川信仰があったこともあり武蔵一宮の氷川神社がある大宮の地が選ばれ、大正14(1925)年に「盆栽村」発足して今につながります。開村当時、20名程度の移住者により「住民協約」として村の居住条件を定めたそうです。盆栽町らしい街並みの約束事を自分たちで決め、来訪者が自由に盆栽を鑑賞できるように門戸を開いて生活していたんですね。今でも各園では、門戸開放をして来訪者を受け入れています。

住民協約
・盆栽を10鉢以上持つ
・生垣を植える
・建物は平屋建てとする
・門戸開放

住民協約
当時の盆栽町の緑豊かな街並み

盆栽とは何か

盆栽とは、植物の姿を美しく整え、植える鉢との組み合わせに工夫を凝らし、植えた物と鉢が一体となった調和の美を追求すること及びその結果
盆栽として基本的な型があるなかで、盆栽に対する考えは園ごとに違い、盆栽のつくり方、商売の仕方なども全く異なるそうです。九霞園の盆栽の特色を伺いました。

九霞園の盆栽の特色
・整形のための針金を使わない
・通常盆栽にしない植物を取り上げる

村田さん:盆栽は、枝配り(枝の出方)や鉢との調和など教科書通りのルールがあり、左右対称ではないことが基本です。ただ樹種によっては、例えばけやきは左右対称に作ることもありますけどね。盆栽を難しく感じる理由は、驚くような価格が設定されていたり、価値判断が分かりにくいからなのではないかと思っています。私はそういった金銭的な価値を求める方向に馴染まないんです。盆栽はもっと楽しく、あんまり偉そうじゃなくてよいと思ってやっています。

そのような想いのもと、村田さんは風格がある盆栽から、ユーモアのある盆栽までつくられています。

山桜(Instagramより)
食中植物(Instagramより)

盆栽町の現在と未来

村田さん:全国的に、盆栽は産業として衰退傾向にあることは間違いありません。そして、盆栽町から盆栽園が無くなってしまうかもしれない未来がすぐそこまできています。一番の課題は盆栽町の宅地化です。宅地化により地価が上がり、盆栽園の相続が難しい現状があります。さらに後継者不足も相まって、盆栽園は減少していっています。現在では生垣の風景が減り、一般的な住宅街の街並みになってきています。
また、盆栽の愛好者が高齢化していることで、需要が減っていることも要因かと考えています。ただ最近、若い人でも興味を持つ人もいるので、そこに多少の希望があると思っています。

現在の盆栽町の街並み

そのような危機の中、盆栽町でまちづくり協議会が新しく発足しようとしています。引っ越してきた方の"盆栽町の景色を守りたい"という思いから動き始めたそうです。新しい住人に盆栽町のみどりが残る街並みに価値を感じてもらえたこと。そして、盆栽町の街並みを守る動きが始まったことが嬉しいと村田さんはおっしゃっていました。

九霞園の門前にて

九霞園ホームページ


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