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竹笋生(たけのこしょうず)|七十二候

たけのこが出てくる頃。最も多く出回っている中国原産の孟宗竹は春先の3月中旬から、日本原産の真竹は5~6月に旬を迎えます。ですので「竹笋生」の竹笋とは、真竹だと考えられています。

美味しそうでしょう。
今しか食べられない、素晴らしい春のエネルギー。
とても美味しくいただきました。

さて。
タケノコ、竹の候です。

竹といえば、やっぱりかぐや姫でしょう。

日本人なら誰もが知っている竹取物語。
最近では、ジブリのアニメもあり
様々なな解釈がされるように
なってきているようですが、
私は単純に
「かぐや姫は美しいうちに天に帰ったんだなぁ」
って思っています。

そしてかぐや姫とともに
老いてもまだ山を彷徨う山姥を思い出すのです。

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山姥をご存じですか?
山姥とは、
奥山に棲む老女(鬼女)で
山に住み、人を食らうと言われています。

私は昔からなぜか山姥が気になるのです。
山に住んでいるせいかもしれません。
それとも私が駒の湯の母と慕っている
茶人のⅠさんが
山姥の話をよく聞かせてくれたからかもしれません。

私は女将のたしなみというものを
言葉通り1から彼女から学びました。

お客様との間の取り方、
所作のひとつひとつ、
花の活け方、
花の名前・・・。

彼女がいなかったら
今の私はいないでしょう。

彼女は、どんな小さな野草の名前まで
知っていました。
私もくやしいので、
「さすがにこれは知らないだろう」
という野草を見つけてきては
意気揚々と彼女に問うたりしたのですが、
全て見事に答えられましたね。

本当に素晴らしい人です。

そんな彼女は
よく月を相手に
横笛をを吹き、
愉しんでいました。

そして
男は年を取ったら仙人に。
女は年を取ったら山姥に。

と言いながら、
能楽の「山姥」の最後の場面を
謡ってくれました。

春は梢にさくかと待ちし。
花を尋ねて山めぐり。
(略)
めぐりめぐりて。
輪廻を離れぬ妄執の雲の。
塵つもつりて山姥となれる。
(略)
山また山に山廻りして。
行方も知らずなりにけり。 
(訳)
春は、梢に咲くかとまっていた
花を求めて山をめぐり。
(略)
山をめぐり続け、輪廻を逃れることができない妄執は、
月を隠す雲のよう。
そして妄執の塵が積もって山姥となれる。
(略)
山また山に山めぐりして.行方も知れず消えていくのです。

年を取り、美しさを失った山姥の哀しさ。
人から忘れ去られ、山を彷徨う山姥の哀れさ。
「だから、かぐや姫は美しいうちに、
山姥になる前に月に帰っていったんだなぁ」

そんなものをしみじみと感じる時間の豊かなこと!
本当に楽しかったです。

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気功教室で
皆んなと一緒に
天地人の站桩をしていた時のこと。

ふわぁ~っと
上に引っ張っられたことがありました。

頭の上から糸が伸びて
その糸が天からぐぅーっと
引っ張られる感じです。
それとともに脊髄が
ぐーっと伸びる感じです。

しかし
そのぐーっと上に引っ張られる体験も
面白かったですが、
それ以上に面白かったのは

「先生、ぐーっと上に引っ張られたでしょう」
と、側にいた生徒さんに言われたことです。

その方が、私と同じように
天から引っ張られる感覚を
側で感じていたということが
面白いなぁと思いました。

まさに
気はつながっている!
ですね。

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実はこの上に引っ張られるということは、
下半身、下丹田がしっかりしているということなのです。

物理的に考えてもそうですよね。
上から引っ張る力があるということは
同じ力で下に引っ張る力があるということです。
そうでないと、
上に引っ張られて浮いてしまいます。

上に引っ張る力と
下に引っ張る力が拮抗している。
つまり、それだけ下に引っ張る力、
下丹田の力がないといけないのです。

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そう考えると、
最後 天に引っ張られていったかぐや姫は
地球にかぐや姫をとどめる力が弱かったのだと思うのです。
だから天に引っ張られていってしまったのだと思います。

このかぐや姫を地球にとどめようとする力。

それは
この地球で生きたいと思う力であり、
この世は生きるに値するという
かぐや姫を通じてジブリの高畑先生が伝えたかったという思いなのかもしれません。

そしてそれはまさに命の力であり、
もっと言えば、
母が子を守る思いであると思うのです。

そう、かぐや姫ならぬ
地球に住む私たち女は
しっかり大地に立たないといけません。

子を守り、育てるためにも
しっかり下丹田を鍛えて
両足で立たないといけないのです。

そのためにも
日々、気功をして
下に引っ張る力、
丹田力、
命の力を鍛えていく。

そして最後、
全てを失い、山姥になっていく・・・。

んっ・・・!?

秘湯と気功に感謝を込めて。