『棋士と哲学者』戦う、という言葉から考えてみた
将棋は息子がたまにやるので
なんとなく私にとっても馴染みがあるものだ。
だから、魅力的なタイトルが山ほどある
本屋さんの哲学のコーナーで、
『棋士と哲学者』なんて見つけた時
思わず手に取ってしまった。
将棋という競技を哲学的にどう見るかという内容かな?!
なんて予想してさわりを読むと
元々大学院で同じ哲学ゼミに所属していた
友人同士のお二方の対談ということだった。
最初に書かれていた「戦い」について考えてみる。
私は何ら勝負の世界に生きている訳ではないので
普段、「戦っている」なんて意識は無い。
大多数の人がそうなんじゃなかろうか。
それとも
「あの人に仕事で負けたくない」
「あの人より筋肉つけたかっこいい体になりたい」
「あの人よりお金持ちになりたい」
なんて他人を意識して生きているのか?
『長期的な戦略は自己のもの。
自分を基準にして満足できる勝利を設定した方がいい』
他人と比較した勝負ではなく
自己的に満足できる勝利ってつまり
目標達成とか自己実現とかそいうものだろうか。
難しい。
たまに考える事だけれど、相変わらず難しい。
何のために生きるとか
生きる意味だとか
浅く考えても深く考えてもわからないし
一応の私の結論は、
そんなものはない、に落ち着いている。
結構すぐ死に向かいがちな自分には
そこそこ定期的に「死ぬんじゃないぞ!」
と言い聞かせている。
きっと私の自分基準の勝利とは
命ある間は生き続けること、なんだと思う。
だから私が日々抜群の社交性で
誰にでも愛想よく冗談を言って場を和ませ、
皆がニコニコいられるように気を遣って生活しているのは
この本でいう私の戦術(短期戦)なのかもしれない。
ストレス耐性が普通の人より8倍くらい低い私は
人との関わりの中で生まれる不具合に驚くほど弱い。
その人から逃げようそのカテゴリから逃げよう
生きることから逃げよう、とすぐ思ってしまう。
ヘラヘラ接してる自分は全然好きじゃ無いけれど
その戦術がうまくいっている気持ち良さは
感じているのだろう。
そうすればきっと
長期的な戦略目標(生きていくこと)に前向きになれるから。
「戦い」という言葉に関して、少し余談。
今までで唯一「戦い」を意識した経験は
大好きな大好きなヒッキー(宇多田ヒカル)の中の
『この毎日の闘いの中で』
『くよくよしてちゃ敵が喜ぶ』
という歌詞を歌う時。
そうか自分は何かと闘っているんだと
「負けちゃいけない」「強くいなきゃ!」と思う。
これは確かに自分なりの言葉にしたら
負けるのは死ぬことで、
「死んじゃいけない、元気を持て、生きろ私!」
という感じ。
戦術に失敗して逃げたくなった時に
心に染みる歌詞だ。
ちなみにベスト3に入るくらい大好きな『traveling』は
生き続けなきゃ、という気持ちを越えて
瞬間的に、生きたい、と沸き起こるような高揚を感じる。
元気がない時こそ、より感じる。
『もっと揺らせ、壊したくなる衝動』
『窓を下げて何も恐くないモード』
きっとPVの映像や彼女の声やメロディや
全てが混ざって琴線に触れるのだろうけれど…
ヒッキーありがとう、大好き。
最近私は「楽しく生きる」ことが楽しいと知った。
そうなると私が取るべき戦術は
人と争わないように気を遣うことじゃなくて、
自分の心地良いことを素直に実行すること、
でいいんじゃないだろうか。
目標達成や自己実現の話になると
結局「生きる意味とは」の思考になってしまうのも
楽しく生きよう、と思えれば
「綺麗になりたい」「旅行に行きたい」
「お金が欲しい」
それらがちゃんと目的になるんだ!
「楽しんで行動する」という考えに
圧倒的に慣れていなかった私にしては
ものすごい変化だと思う。
読後の全体の感想として
何というか、
自分好みの思考とかってあるんだろうなと思った。
およそ20年近く前に大学を卒業して以降
ろくにきちんとした勉強もしていない自分が持っている
わずかーーーな知識。
しかもただのいち学生でしかなかった私がその中で
どうしても好んでしまう思考って
人間の本質の追求とか世界の存在とか概念的なこととか、
何というかイメージとしてTHEドイツ哲学!みたいな笑。
偏ってるのかもなぁ、
なんかそういうのが染み付いているんだろうなぁと思った。
でもお二方も言っていた、哲学は人生を豊かにするものなので、
もっと勉強と知識を増やした上で思考して思考して
よりよく生きられたらいいなぁと思ったものです。
なんだかまとまりのない文章になってしまいました。
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