見出し画像

コロンブスに何度会うか

(平成四年九月)

 わたしの読書のタイミングについて、その意図せぬ絶妙さ、まるでだれかによっていついつにこの本を読みたいと指示されたごとくにその次に続くことがらとの密接な関係を見せられることがたびたびある。

 本を次から次へと買うことは簡単であるが(ガイドを見てめぼしいものを注文すればそれですむことだから)、どうかすると読むのがまにあわないことになる。とくにシリーズで買ったものにはどことなく自由が奪われる感があり、好みの本と好みでない本が無作為に定期的に送られてくるのがやや抵抗のあるところである。
 ガルシア・マルケスの「百年の孤独」に出会って以来、わたしはラテン・アメリカ文学にかなり心酔してしまって、現代企画室の「ラテン・アメリカ文学」のシリーズを買うことにした。隔月で六冊ほどは手もとに届いているが、そのほかに同じようなシリーズの中の「めくるめく世界」を一冊だけ買ったことがある。一度半分くらいは読んだが、後半の話をよく把握しないままにいつか本棚で眠りについてしまっていた。
 買うはたやすいが読まないとお金の無駄使いになる。そう思ってふとまだちゃんと読み終わっていないものをはじめからきちんと読みこなしていこうと考えた。これは「誰がパレミノ・モレーロを殺したか」というバルガス・リョサの小品をきちんと読んだことに刺激されいてる。
 「めくるめく世界」はレイナルド・アレナスの筆によるセルバンド師という歴史上実在の人物の破天荒な人生を胸のすくような大袈裟な表現に終始したものである。どこまでがホントかと思わせる所などG・マルケスの幻想的な筆と共通するものがある。
 四日前にそれを読み終わり、「楽園の犬」に取りかかった。これはアベル・ポッセの手になる。コロンブスの生涯をG・マルケスとも、Rアレナスとも違う現在の時制にまでものごとのレベルを引きあげる手法を絞りまぜて描いている。この本のバックにレクォーナ・キューバン・ボーイズの音楽やセリア・クルスのあの野太い声があるなどと誰が考えようか。昨日そのラテンリズムに乗った本を読み終えた。ふと気づいてラジオに耳を貸すと、FMではペレス・プラドのマンボのナンバーを放送していた。
 そして今日、テレビであのサンタ・マリア号と同じ造りの船で神戸まで航海したというドキュメンタリー番組を放映するというを朝、新聞で見て知った。 「楽園の犬」を読み終えたばかりのわたしにはまさに天の配剤である。  番組は五百年前にコロンブスがそれに乗ったとまったく同じ木造船の航海をその乗組員のようすとともに歴史的な事実(その中にはかなりの推測も含まれているが)のドラマ化されたものとで構成されている。コロンブスはついに黄金の国ジパングを見ることなく死んでしまったが、現代のサンタ・マリア号は十ヶ月かかってふたつの大洋を航海してきた。全長二十四メー トル、幅八メートルにも満たない小さい船である。当時とまったく変わらないのは、海の様相と人間の力ではコントロールすることのできない天候だけで、乗組む人間の質や通信力、備品や食べ物、そして何よりもこの航海自体が「撮られている」という大きな違いがある。
 もしコロンブスがテレビ・カメラを意識てあの冒険をしたとすると、世界の歴史は植民地政策に明け暮れる列強の国々が引き起こした馬鹿げた悲劇は避けて通れたに違いない。カメラの前では誰も英雄になりたがるものだから。
 歴史の授業では物事を一面からしか見ない傾向が強い。日本でそうやって一面的教育を軟らかい子供の頭に施すものだから、占領された原地の人々の立場に立ちたいと願っているかも知れなかったごく少数の子供は、そんなことを考えることすら罪悪のような授業の進めかたにたちまち恐れをなしてし まう。事実をありのままに受け取り、それをまったくどちらの立場にも偏らずに判断する力を、立派な教育を受けてきて教壇に立っているおとながさっさともぎ取ろうとする。
 映画でもコロンブスがヒーローの座にあって、バットマンと肩を並べている。今ロードショーの段階であるから、映画館へ行くことなど皆無のわたしが自分の家のテレビの画面に彼の顔らしきものを見るのは、早くても来年になりそうである。それまでに、もしかするとまた別の本でコロンブスに会えるかも知れない。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?