見出し画像

雌雄の存在

(平成五年七月)

 先日A氏ところへ訪ねて行くと、事務所ではなく、車のそばでオレンジを食べていた。昼食のデザートなのであろうか。
 まずわたしは先の山のぼりでのわたしの非礼を詫びた。気づいたことをほめこそしなかったが、少なくとも気づかないで鉄面皮のままでいるよりはずっといいと思っていることは確かであった。
 彼は「どうして生物にオスとメスがあるのかをどう考えるか」とわたしに質問を放った。それは、自分にはその答えはわかっているがそっちはどうなのだといういいかたで、キリスト教の考えかたからしか答えられないわたしをなんとか論破してやろうという底意が多少見えるいいかたでもあった。
 わたしはしかたなく「そりゃ生物学的にいえば、種の存続のためとかいう答えだろうと思うけど…」とそれが彼の期待している答えではないことをじゅうぶんに知りながら言った。
 彼は単体で存在して分裂によって殖える生物もいるのに、なぜ雌雄をわざわざ分けてその結合によってのみ殖えるようなシステムの生物が存在するのか、ということをいいたかったらしい。
 その日の夕方、わたしの時間に合わせてもらい、二人で海へ散歩へ行った。その途中、A氏は「昼間ちょっと言ったけど、なぜオスとメスがあるのかというの、考えた?」と聞いた。わたしとしては神が創造したからだと答えたいが、彼にそんな答えは子供でもすると言われそうなので一足飛びに「あなたはなぜだとお考えなの?」と聞いた。
 彼の答えは簡単に言えば、生物のそれぞれの種に多様性を与えるため、ということになろうか。それぞれの個体がもっている遺伝子が、別の異性と結合することによってより幅広くさまざまの個体が誕生することになる。これは人間で言えば、太古から近親結婚がタブーとされていることにも説明がつくし、また多くの場合、民族間での結婚によって、漠然としたものでありながらもひとつの国民性とも言うべきものが育つということも説明ができる。        
 しかし、わたしはその彼の説明は、現在の雌雄の存在そのものの根本的な理由ではなく、存在にたいする結果から見た説明というような気がした。つまり、すでに雌雄があるからこそこういう種の多様性が生じてきているという説明にはなっていても、本来はその理由のためにのみ雌雄が存在するのかどうかということは明らかになっていないということである。
 わたしはそのときにはそれをうまく言うことができず、最初の彼の質問からはどこかへ矛先が変えられているような彼自身の答えを聞きながら「この人はおそらくサイキックパワーとか超常現象などというものは自分の目で見る機会でもない限りは信じないだろう」と思った。その結果わたしの口をついて出たのは「全然ロマンティックじゃない説明ね」ということばで、これは彼を苦笑させた。
 創世記には、神は「生めよ、ふえよ、地に満ちよ」と言ってさまざまの生き物を地球上に創造したと書いてある。そして、女は男の助け手として造られている。助けるというからには男になんらかの仕事が与えられていて、その仕事の助け手ということなろうか。神は「人がひとりでいるのは良くない」と思ってこの助け手をアダムのあばら骨から造っている。ひとりでいるのは良くない、と神が決めたから人間に男女があるということになる。なぜよくないのかは、神が絶対的存在であるゆえにその理由を詮索するのは意味をなさない。神がそう決めたからそうなのだというしかない。
 神の存在を信じないA氏に根気よく創世記から聖書を読み解いて行ったとしても、黙示録の最後の節のところで「だからなんなのだ」と言われるような気がする。神の計画の尊大なことなどを、いくらこっちがわかっていて神そのものを信じることを知らない人には話のしようがない。
 A氏とはこの点に関しない限りではたくさんの共通するものを感じるが、もっともたいせつなところで明らかに食い違っていると痛感せざるを得なかった。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?