聖餐について
(平成四年九月)
教会によって聖餐式の観念は異なっているということはなんとなくわかっていたが、わたしが行っている教会では洗礼を受けた者だけがこの聖餐を受けることができるというのがこれまでの習慣であった。
聖餐式は礼拝の中で最も厳粛なときであると常に牧師に教えられている。どういうことをするのかというと、要するにパンとぶどう液を口にするのであるが、そのパンはキリストの肉であり、ぶどう液はキリストの血である。実際にはこれを象徴しているものとみなすわけである。ただの小麦粉にマーガリンを練りこんでオーブンで焼いたパンで、わたしも婦人会の当番で何度かこれを作ったことがある。 ぶどう液のほうはおそらく教会のほうでまとめてその筋から仕入れる 「ジュース」であろうと思う。
いずれにしても、ただの人が作った物には変わりがない。それをどうして厳粛な気持ちで受けるべき物に変化させるか、ということが謎のような問題になってくる。
物質的になんらかの化学変化が起きるとか、見た目に明らかな違いが認められるとか、実際にはそういう変化があるわけではない。ではどこに謎があるか、ということになるが、それはただ教会員の祈りがそのパンとぶどう液に加えられるだけで、信じる者の意志を目には見えないものに向かって伝えることによってこの食べ物はきよめられたと信じることである。信仰とはそういうものである。
したがってそれぞれ自分の席にそれらが回ってきたときには、すでに「ただの食べ物」と「ただの飲み物」ではなく、この世のお金を出して求めることができるものとは区別されているのである。これを聖別という。
ダ・ヴィンチの有名な「最後の晩餐」にはこのときのキリストのことばに至る直前のありさまが描かれている。キリストはこのとき 「わたしの父の国であなたがたと共に、新しく飲むその日までは、わたしは今後決して、ぶどうの実から造ったものを飲むことはしない」(マタイ伝二十六章二十九節)ともいう。 ふだんの礼拝では、たいていこのひとつ前の節で牧師は引用を終える。
だいぶ前のことになるが、テレビで人類学ふたりの対談を見たときに、この聖餐式の習慣について、「食人の習慣を象徴的に引き継いでいるもの」というとらえかたをしているのを知った。そういう考えかたもあるのかと思うと同時に、信仰をもつ者と持たない者との距離というものを感じた。しかも、その距離は遠くて近いのである。たいへんな距離があるように見えても、実はそういう考えかたを電波を通して述べた人の心の中になんらかの「働きかけ」があって、すなわちクリスチャンになる可能性もあるのである。同じ人の中では時間経過があるだけで、心の中の変化を勘定に入れないと、そこには距離のヘだたりというものはない。これが遠くて近いということになる。
ただのパンとただのジュースが聖別されるということも、この理屈とまったく同じで、それだからこそ厳粛になる必要がある。 わたしの知る限りでは聖を受ける者は洗礼を受けた者に限られる。少なくとも二十年は、この教会で通されてきた方針であったが、今日からその範囲が変わった。
つまり洗礼を受けていない人でもこれを受けることができ、また、たとえ洗礼を受けていても「さばき」を受けないために自分にはその価値がないと認める者、悔い改めのできない者はこれを受けないようにと牧師の宣言があったのである。
わたしにはこれは意外な、手痛い宣言で、「さばき」を受けないためにという前提はことにショッキングなことばであった。牧師は常に「後悔」と「悔い改め」の違いを教えているが、わたしは前者はだれにも負けないほどの回数をこなしているものの後者にはとんど縁がない。それでもクリスチャンかと言われるようなことをしょっちゅうしていて、改めたいという願望はあっても実行ができない。 したがって、今日から突然変えられた聖餐を受ける者の資格の範囲におおいにとまどったのである。
パンとぶどう液が目の前にきたときに立ちあがるべきかそのまま別の人のところへ行ってもらうべきか、心の中で戦いが勃発していた。結局のところ、その戦々布告のラッパの音は、わたしが無視して立ちあがるときに床にこすれて出た椅子のきしみの音にかき消されてしまった。なんでもない、当然のような顔をしてわたしはいつもと同じよう聖餐を受けたが、心の中では依然としてラ ッパの音は鳴り響き、そればかりか大砲の音さえも聞こえてきそうであった。これが「神を欺く」ということ思うと、恐れでいっぱいになる。
ところが、ここが不信仰な人間の見本ともいうべきところで、教会を出て車に乗り、だんだん家に近くなるとその恐れなどはかけらもなくなってしまい、家のドアを開けるころにはもう心の中には戦火のくすぶりさえも感じないという状態になってしまっているのである。
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