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過重

(平成五年八月)

 機内に一匹のハエが紛れ込んでいた。無着陸大西洋横断の夢がためには眠ることも許されなかったが極端な睡眠不足の意識もうろうたる中で、自分のまわりを飛びまわるハエに向かって彼は話しかける。
「頼むからどこへも止まらないでくれ。飛んでいるときは機体には負担はかからないけれど、一旦どこかへ止まればそれだけ重くなるんだ」
 「翼よ、あれがパリの灯だ」の一場面である。わたしがこの映画を見たのは中学生のときであった。この場面については妙に鮮明に覚えている。こういう記憶が何十年も経ってから役に立つときが来る。 
 リンドバーグのこの心の砕きかたは、 彼が自分の望みを実現するために飛行機の自重はもちろん積んで行くものを最少限度におさえるためのものであった。

 わたしはこの文集に限らず、だれかへの手紙にも比喩を使う。そのほうが説得力がある場合が多いと思うからである。 A氏のようにたくさん本を読んでいて、しかも理解力のある人に手紙を書く場合にはかなりかけ離れたところからたとえを引っぱり出して来ても、彼は過たずわたしの意図するところを汲んでくれるはずである。
 先日いっしょに山に登ったときに、彼は初めてわたしの手紙についての感想らしきものを述べたが、それはほめことばではなく「人を見下したような…」というむしろ諌める手厳しいものであった。
 ほかの人にそう言われたならば、わたしはその人にわたしの文章を理解する力がないからだと思ってもはや手紙を書くことはやめてしまうだろうが、A氏のようなすべてにおいてわたしを上まわっている人からそう言われると素直にそれを認めて「こんどはもっといいものを書こう」と思える。
 ただ、これまで彼にたいして書いた手紙の中で故意に彼を見下した覚えはない。わたしが推測するに、それは彼のほうである程度の劣等感をもっていて、全体の雰囲気として感じるものがそういう印象になるのではないかと思う。彼には読解力はじゅうぶんにあるが、自分の思っていることをわたしのような方法で表すことはできない。それはわたしに与えられているひとつの賜物であるから、彼にある種の妬ましい気持ちが働いているのではないだろうか。
 また、もしかするとわたしの方で無意識のうちに「女だからと侮られたくない」という気持ちが働いて、異性であるA氏にたいしての競争心のような ものが行間に出てしまっているのかも知れない。それは「男女の間のことならば、わたしの方があなたよりはずっと知っていますよ」 というアピールが見え隠れするものであるかも知れないのである。

 さて、手紙のことであるが、リンドバーグとA氏とがどういう関係をもってつながるかについて書かなければならない。実際には、この二者にわたしという一者が加わる。この三者の共通点はまず飛行機の操縦である。飛行そのものを人生にたとえて、飛ぶ場合にあれもこれもぬかりなく搭載して、というのが飛行そのものを危うくすることを飛ぶことやその意味を知っているA氏にもう一度考えてもらおうというのである。
 彼が「家庭」や「世間」と呼ばれている「一般的な社会」からどのような目で見られているのかを聞いたとき、だいたい予想はしていたが、あまりにわたしと似ていることに驚いた。以前に娘から「お母さんは常識がなさすぎる」と批判されて少なからぬショックを受けた。これが他人から言われるのならなんとも感じないが、わが子からそう言われるのは堪えた。その話をA氏にすると「俺もよく言われるよ。 あなたは非常識だって。子供にまでバカにされてるよ。いっしょになって言うんだ」。
 彼はそのことについて敢えて反論はしないらしい。言う者には勝手に言わせておけばいいし、奇異と言われる行動をとっても、実害がなければかまわないだろうと思っている。わたしのほうも、それが即命に関わるというようなことでない限りは何をしたってかまわないだろうと思っていると言った。
 わたしはときどき、自分がなんでもなくあたりまえにすることができるちょっとしたこと、もしかするとほかの人には非常に困難さを伴うものではないかと疑うことがある。どうしてほかの人にこれがむずかしいのか、と考える余地のないほど当然のことがほとんどであるが、もしそうだとするとそういう行動の数が多ければ多いほどほかの人とは離反する確率が高くなるのではなかろうか。つまり人間は嫉妬する生き物であるから。
 そしてそのことはわたしと同じ程度でA氏の上にも考えられる。社会から弾き出された一種のアウトサイダーとして、職場でも家庭でも見られているのであるが、妻の立場を放棄したわたしに比べると、何年か先とは言え離婚を妻から宣言されているA氏は、まだ夫としての立場を維持して行かなくてはならないという自覚がある。 子供の成長という大課題を抱えているからである。それゆえに彼はまだわたしほどの開きなおりはできず、「男が悩む問題」としての片方の靴を脱げずにいるらしい。
 彼への手紙で「人類全体の『知』のキャパシティというものは、時代を超越して常に一定である」と考えていると伝えている。それは彼が取ってくれた講義のビデオの内容に関する話から派生したわたしの意見であったが、彼もこの意見には賛成してくれるはずだという確信があって書いたのである。そのことに関連して、この概念は人類という大きな単位にも、またその一部を形成する個にも通じるものという認識を示すつもりで マクロとミクロの概念を書いた。

『わたしの精神生活には反比例するように、実生活は最悪とも言える状態ですが、わたしはこれはこれでバランスがとれているのだと思います。(中略)今のわたしの状態がどうであれ、そういうことは全体のバランス構成の一部をなしているに過ぎず「たいせつなのはここにわたしが生きている」という結論にやはり行きつくことになります。非常にエゴイスティックなような気もしますが...。(中略)うまく説明するのがむずかしいのですが、このひとつひとつの行動の数が多ければ多いほど、社会の適応はむずかしいので はないかと思います。 とくに人並に結婚して、家庭をもって、それを保持していってなどというのはあまりに欲ばり過ぎで、どこかで何かを捨てなければ過重になって航行不能に陥るでしょう。『翼よ、あれがパリの灯だ』をごらんになったと思いますが、機体の重量をできるだけ減らすことに心を(以下略)』

 これはA氏が脱げないでいる靴の、その重さを少しでも軽減させようと図ったわたしの慰めの手紙なのである。言わば同病相哀れむの心境をそのまま正直に書いたのである。そして、わたしが彼の機の中で羽を休めることなく飛び続けるハエのような存在であればとも書いて彼に、それでなくても重い負担をこれ以上かけないようにしようとしていることを知らせている。

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