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いろはにほへと

色は匂へど 散りぬるを
我が世誰ぞ 常ならむ
有為の奥山 今日越えて
浅き夢見し 酔ひもせず

  弘法大師の作とされているこの歌をいまさら講釈しようとは思わないが、五十音全部をかくまで無駄なく、しかも意味深長に使いこなすというわざは並の人にできるものではない。 数学のことはとんとダメだが、たとえば微分・積分などを何の筆記用具も使わないで、まったく頭の中だけで解くような、 特別製の頭脳が要求されるのではないかと思う。書も達人、おこないも「大師」と称されるほど立派、高野山に金剛峰寺をひらき、京都に教王護国寺を与えられ、千百年も経っても 「ここのつ高野の弘法さん」 と親しみをもってうたわれ、日本各地にそのゆかりの地を伝え残す人は、そうザラにいるものではなかろう。
 さて、色は匂えど…のうたは一般に、世の無常を説いたものであるといわれている。無常感は東洋的、日本的考え方の十八番のように思われているが、ずっと以前からわたしの心を捕えているイギリス(多分)のこどものための歌がある。
Row row, row, your boat
Gently down the stream
Merrily, merrily, merrily,
Life is but a dream 
映画、ダーティハリーのシリーズの中のひとつに、変質者が次々に殺人を犯し、ついにスクールバスを乗っ取り、子供たちに無理にこの歌をうたわせる、というのがある。
 わたしがこの歌にはじめてであったのは、手の中に入るほどの小さな「世界の童謡」という本で、それまでもメロディは何度か聞いて知っていた。本には英語の歌詞が載っていて、最後のLife is but a dreamという歌詞をみたとき、これはほんとうに子供のための歌なんだろうか、と考えた。
but は nothing butと同じ使い方で、~にすぎない、という意味であろうと思う。そうなるととても外国の、しかもこどもの歌う歌ではすまされないのではないか、と甚だ疑問に思えた。これがわたしの高校生のころのことである。
 ずっと後になって、何かの折に妹夫婦と山手線に乗ったときに、アメリカ人である妹の夫にきいてみた。この歌には何か意味が込められているのかと。
 トム(彼の名前だが)は、そんなに深い意味はなく、シェークスピアの劇の中で歌われたものだ、と答えた。その劇が何であったのか今思い出せないが、トムはシェークスピアに関しては大学で教えられるくらいのエキスパー トであるから、間違いないはずである。
 弘法大師とシェークスピアを無理に結びつけようという気はさらさらないが、このふたつの短くて、すべてをいい尽くしたような歌には人生をこういうふうに生きるのも、ひとつの方法ですよ、とごくやさしく教えてくれているのではないかと思う。
 わたしひとりの思い込みではあるが、「色は…」には視覚的には桜の花、険しい山道、ひとりでゆく男の旅などがイメージされ、「row…」の方は広々とした野原を流れる幅の広い川、複数の女性、パラソル、大きくはない船、時には子供(船にいる人の)などが頭に浮かぶ。
 歌詞をみて両方に共通しているのは、「夢」の一語だけで、こじつけといえばそれまでの論理ではあるが、その底に流れている諦観思想ともいうべきものには、悲壮なほどのツッパリを感じる。
Row your boat が、どこの誰が作った歌なのかがわからないのは、大変残念であるが、せめてシェークスピアが、どの劇中のどんな場面でこの歌を、誰に歌わせたのかがわかれば、と思う。それにを知るには、ふたつの方法があって、ひとつはもう一度トムに聞く、もうひとつはわたしがシェークスピアの全集か何かを読む、ということになる。安易な方はわたしにたったひとつだけを与えてくれて、困難な方はおまけや付録がたくさんついてくる。わたしがどちらの方法をとるか、もう少し考えてから決めよう。
 両方の対比には、もっと別の方向からの考え方があるが、今回はごく表面的にずっと気になっていたことを述べるにとどめる。

(平成元年四月)


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