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雨を聞く

 あまり激しくなく、適度に降っている雨の音を夜お風呂に入っているときなどに聞くとその日のうちにあったどんないやなできごとも帳消しにしてくれるほどの力が雨にあることに気づく。
 雨そんな力があるわけではなく、わたしにその音を聞く耳があって、今、比較的安定した生活状態にあるからこそ単に「ああ、雨が降っている」と思うだけにとどまらないのである。 そういうなんでもないことに幸福感をもつのには、過去にそれ以下の状態で同じ雨に遭っていなければならないかも知れない。
 楢原というのは奈良県南葛城郡にあって御所市に近い部落の名である。その楢原に住んでいたわたしたちの家族は、徒歩で一時間以上かかって御所の町までお風呂に入りに行った。わたしが十才のころのことである。
 お風呂屋さんは細い路地を入っていった奥にあり、路地の入口の右隣は鍛冶屋さんであった。ろくすっぽ洗わないで早くお風呂をあがって鍛冶屋さんの仕事を飽きずに見ていたことを思い出す。
 「村の鍛冶屋」という歌そのままのふいごや、真っ赤に焼けた鍬や鋤を打つ槌に火の粉が飛び散り、冬でも袖のないシャツ一枚のおじさんが黙々と仕事をして、わたしの姿を認めると「またあの子がきた」というような一瞥をくれたが何も言いはしなかった
 ある夏の日、いつものように御所のお風呂さんでお風呂に入ったその帰り道のこと。長い一本道の途中で夕立におそわれた。夕立の方にそういう攻撃的な意図があったとは思えないが、まったくの無防備なわたしたちの家族にとっては稲光と同時にガラガラガシャーンと轟く雷や、降るなどというのではない、天の底がぬけ落ちたかのような集中的な豪雨は、建物ひとつとてない田舎の一本道を行くわたしたち、それでなくとも心細げな貧乏神がうしろからついて来るようなようすの家族には、やはり襲いかかる感じの夕立であった。
 父はそのとき、買ったお米を肩にかつぎ、 母は当時三才くらいだった下の妹をおぶって、お風呂の道具や着替えたものの風呂敷包みを持っていた。
 雷の恐ろしさはああいう目に遭わないとわからない。母は日連宗なので「南無妙法蓮華経」を繰り返し唱えて、稲妻の光るたびに持っている包みを放り出し、しかし捨ててしまっては今度使うときに困るし、第一もう一度それを買うお金のことを考えると拾わずにはいられず、ほとんど泣きながら歩いた。わたしとすぐ下の妹も恐ろしさに大声で泣きながら歩いた。父も母もきっと情けなかったに違いない。
 わたしたちが通っていた大正小学校にようやくたどりつき、学校のお便所へ避難した。屋根がある、というのはありがたい。どのくらいそこにいたのか忘れてしまったが、何のためにお風呂屋さんへ行ったのかというほど芯まで冷えて、いくぶん小やみになってから家へむかった。
 夕立は攻撃の手を緩めはしなかったが、ささやかな家族をとことん打ちのめしはしなかった。今そのときのことを思い出すとちょうどチャップリンの映画のワンシーンを見るようでせつない。
母は雷が鳴りだすと今でも電灯の下からははずれる。

(平成元年五月)


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