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バイキングとの相性


 今年の九月のある夕方、土浦店の二階でひとり自炊生活をしている長男から、めったにかかっても来ない電話があった。「今夜フェローの女の人がそっちに行くから一晩泊めて明日の朝八時頃の下りの電車に乗せてやって」と、詳しい事も説明しないで電話を切ってしまった。
 三年前、ICYE (インター ナショナル・クリスチャン・ユース・イクス チェインジ)に交換留学を申込み、幸運にも アメリカで一年間過ごすことのできた彼は、帰国後もリターニーとして、毎年日本に来る各国の留学生の世話らしきことをしている。 その日も彼の狭い部屋に八ヵ国位の若者が集まりパーティをもったらしい。
 とりあえず食事の用意だけは、と急遽一人分増やして、半分不安半分期待でそのフェロ ーとやら、今まで聞いた事もない国の女性を待った。 まもなく夫といっしょに大柄な女の人がやって来た。 スンヴァさんといった。
「まあゆっくりしなさいよ」とか「日本の食べ物なんでも食べられるかしら」とかの程度の英語は難なく出てくるが、ヒヤリングにはいたって弱い私は、彼女のこれまた危なっかしい英語を聞きとるのに骨を折った。
 彼女の話によると、明日から二週間、山形の山奥の農場へボランティアに行くのだそうだ。むこうには話はついているらしい。しかしお金はあまり 持っていないようだ。時刻表をひっぱり出して彼女の目的地までいかに早く、安く着けるかを夫と相談しながら、時々彼女を安心させるために今何を話しているかをまずい英語でしらせて、どうやら明日の時間割の目途はついた。鈍行なら料金は安いが目的地に彼女の希望する時間にはとても行きつかない。一旦土浦までもどって特急に乗せるのが最善の手、ということになり、 明日私が一緒に駅まで行って切符を買ってあげるわよ、と話しが落ち着いた。夫は決してプレゼントではないから、そこを誤解のないようによく通訳しろ、という。まさか、とおもったがとにかくそれを彼女に説明して一段落。
 私は自分の部屋から世界地図帳を持って来て彼女に差し出し、フェローという国がどこにあるのかを教えてもらった。
 アイスランドとスカンジナビア半島の中間にごく小さな島々がある。 それがフェローズ諸島でデンマークの統治下にある。 母国語はフェロー語で島に住んでいるのはほとんどバイ キングの子孫だという。 彼女はコペンハーゲ ンの大学で一年間日本語を勉強して、日本の文化をより多く学ぶために日本へ来たと話してくれた。ダークブロンドであまり美人とはいい難い彼女だが、私の頼りない英語でもそのカンのよさですべてをしてくれたのだから頭脳明晰は間違いない。
 フェローは バイキングのことばでは羊を意味し、島には たくさんの羊がいる。驚いたことには、島には一本も木というものがなく、草だけが生えているらしい。農作物といえば、じゃがいもとかぶだけ、産業らしいものは漁業だけ、従って食糧をはじめとする生活用品は九十何パ ーセント輸入に依存している。日常不足する蛋白源は魚の他に海鳥を捕獲して食用としている。寝る前に見せてくれた彼女の故国の写真ではどうやらその気の毒な海鳥は軍艦鳥の一種らしい。際立って高い山もなく、ごつごつした低い岩山に、羊の群れる草原。工場もない、バスも、もちろん電車もない。私たち日本人にはちょっと想像しがたいようなところである。 車はある、ということで確かフェリーが少し南にあるシェトランド諸島と通じている、といった。そのほかの交通手段はというと飛行機しかない。彼女はまだ日本に来てから二カ月しか経っていないが、さぞかし日本の豊かさ、便利さに驚いたことだろう。明日のこともあるので、 彼女にお風呂をすすめて私はその間にベッドを用意した。
「なかで寝ちゃったんじゃないかい?」と夫が心配するほどの長いお湯からあがってきた彼女は「オヤスミナサイ」と日本語であいさつするとすぐ寝てしまった。私は片付けをしてから自分のベッドにはいったが、明日うまく彼女を時間通りに電車に乗せられるかどうか、なんてことを考え出すとなかなか寝付けなくなり、浅い眠りのなかで遅刻した夢を見たりした。そこへもって彼女のいびき。これには閉口した。
 翌朝、いつもより一時間早く起きて、彼女のためにベーコンエッグとトースト、コーヒー を用意して自分は食べるのもそこそこに彼女と家を出た。雨降りの朝であった。 車のなかでもう一度、一旦土浦までもどって特急に乗ることと、土浦はここから三つ目の駅だから間違えないように、と念を押し駅の少し手前で車を降り、背の高い彼女に傘をさしかけるために私はめいっぱいを伸ばしたものである。
 彼女の行先は左沢という所で、もうこの先には駅がない、というようなへんびな場所である。そこにポラポラファームという農場があるらしい。 ポラポラというのはスワヒリ語で楽しいとか愉快とかいう意味だと後で長男が教えてくれた。とにかく仙台まで行くことが第一である。駅の係員の人に事情を説明して切符を求めた。ところが予定していた電車がない。さいわい仙山線の連絡の時間に余裕があったので、なんとか行けそうだが、それに納得してもらうのにまた一苦労。ちょうど出勤時間、登校時間と重なったためまわりはあわただしく、そのなかで私は必死になって通訳をした。カンのいい彼女はすぐにわかったらしく、自分の取るべき行動をゆっくり復唱して私を安心させてくれた。入場券の高いのに驚きながらも、私は彼女を上りのホームまでいっしょに行って見送ってあげることにした。あなたに会わなかったら、 きっと一生フェローを知らないままに終わったかも知れないわね、といって彼女を電車に乗せた。
 その日の午後、私は体調を崩して寝込んでしまった。慣れない英語で必死に彼女を無事にむこうへ送り出した安心感が、どっと疲れを連れて来たのかも知れない。が、わたしは単純につまり私はバイキングとは相性がよくないのだ、と考えた。 
彼女も山奥へボランティアへ。私もいわばボランティア。ああ、ボランティアって疲れるなあ。
 ひとつ、どうしても気にかかることがある。 フェローはその輸出入のバランスをどうやってとっているのだろう。非生産的で島に羊しかいない、とあってはもしかして、まだ昔のバイキングの財宝でもどこかに隠しているのかしら、などと下世話なことを考えてしまう。

(昭和六十三年十二月)


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