見出し画像

#30 姉と私とひこうき雲と ep.5

 姉と過ごした時間を振り返る作業を続けている。あれやこれやエピソードの欠片はいくつも出てくるが、それをつなぎ合わせる作業になると、すぐに手が止まってしまう。部屋を片付けているときに限って昔の写真や本など、余計なものに意識が向いてしまうのと似ているかもしれない。時々、なぜこんなことをしているのか自分でも不明瞭になる。ある程度までまとまり、当時と変わったものや変わらないものがはっきりすれば、また何か違った感覚になるのかもしれない。私にとってそれが望ましいことかどうかも分からないけれど。

 麻衣ちゃんとの同居が始まって三か月が過ぎた。季節は巡り、すっかり札幌は夏の装いだ。晴れた日は陽光がアスファルトや芝生に向かって容赦なく鋭角に、それこそ突き刺さるように降り注いでいる。
 どちらかと言えば、私は夏が好きではない。喉も乾くし、食欲は落ちるし、汗をかいた肌が不快だし、数えればきりがないが、単純に暑さに弱いのが最たる理由だろう。外に出るとすぐに意識が朦朧としてくるのだ。麻衣ちゃんは「暑いなら帽子をかぶればいいのに」と言うが、実は私は帽子も余り好きではない。それというもの、今までの人生の中で帽子が似合った試しがないのだ。麻衣ちゃん曰く、「小学生の頃は紅白帽子だって嫌がっていた」らしい。それは大げさな例だとしても、実際に事あるごとに避けてきたのは事実だ。ごく稀にお洒落なデザインや可愛らしいものに惹かれることはあるが、実際に私がかぶることで全てを台無しにしている気がして、いつも買うのを断念してしまう。
「ま、美幸ちゃんは頑固だからね」
 コンビニで買ってきたアイスクリームを食べながら麻衣ちゃんが言う。
「頑固?私が?」
「そう。こうと決めたらてこでも動かない感じ。お父さんそっくり」
「止めてよ。そんなことないって」
「でもいいよね。学校の先生ってこれだけ休めてさ」
 あなたはここに来てからずっと休んでるじゃない。喉まで出かかった言葉を何とか飲み込んだ。
 確かにこの時期、学校は夏休みの真っ只中だ。しかし休みなのは学生だけで、教員はしっかり仕事がある。休み明けすぐに行われるテストや授業の準備などが山積だ。周りが思うほどのんびりできるわけではない。
「そんなことより美幸ちゃん、何よ、話って」
「ああ」
「うちらのことなら聞かないよ」
「分かってるよ」
 麻衣ちゃんと裕之さんの間は何も進展がない。と思う。最近はこちらから進捗を聞くことはほとんどなくなっていた。聞いたところで麻衣ちゃんは「別に」と言うだけだし、何度も同じことを聞くのはお互いにとってストレスだろうし。要は麻衣ちゃんと裕之さん二人の問題なのだ。全く連絡を取っていないわけでもないだろうから、要は勝手にすればいいと思っている。
「あのね」
 言葉を選びながら、私は話し始める。
 
 決断が迫られていた。公哉君からプロポーズされたのだ。夏休みが始まる直前、久しぶりに彼と会った。久しぶりと言っても、二人とも忙しくてなかなか時間が合わず、普段から頻繁に会うという訳でもなかったので、私たちにとって日常の出来事と言えるかもしれない。
 その日は予報で午後から天気が崩れるはずだったのだが、大気の流れが不安定なのか、雲の進路がずれて雨が降ることはなかった。私は前日にアプリで天気図を見たときからこうなると予想していた。出番のなかった傘を手に歩く人とすれ違うたびに、何とも言えない優越感を覚えた。
「……話、聞いてる?」
 苦笑いを浮かべている公哉君の顔。すっと通った目鼻立ちと長い睫毛、そして薄い唇に目を奪われる。見慣れているはずなのに、ふっと吸い込まれそうな気持になる。麻衣ちゃんに言わせれば、顔色が悪くて不健康そうと一刀両断にされてしまうけれど。
 公哉君はとある大手銀行で働いている。大学が同期で、学生の頃は面識がある程度だったのだが、卒業して半年ほど経った同期会で初めて話をした。月が火星に接近している日だった。彼が言うには、前から私と話をしたかったらしい。今思えばベタなアプローチだけれど、結局その後すぐに付き合い始めたわけだから、私はその作戦にまんまとはまってしまったということになる。
 彼の前には既に食べ終えた食器が並んでいた。焼き魚が食べたいという私のリクエストに応えて、この日は海鮮系が美味しいと評判の居酒屋に連れて来てくれた。
「ごめん、何だっけ?」
「だから、そろそろちゃんと決めたいなと思って」
 そう言うと公哉君は店員を呼び、ハイボールのお代わりを注文した。私はウーロン茶を頼んだ。
「別に急かすつもりはないけど、何だろう、安心って言うか、確証みたいなものがほしいんだ。大切なことだからさ」
 照れているのか、公哉君は私を見ない。それほど大切なことならこんな居酒屋で話さなくてもと思わなくもないが、その原因は私にあることも分かっているので、特に不満に思うこともない。
 彼からプロポーズされるのは初めてではなかった。付き合いもそれなりに長いし、二人の将来を考えるのは自然の成り行きだ。要は私がのらりくらりと返事を引き延ばしているだけだ。公哉君もプロポーズの度に高級レストランや夜景が綺麗な場所を選んでいられないだろうから、大事な話はいつのまにか他愛のない会話の中に組み込まれていく。
「まだ確定じゃないんだけど、俺さ、異動になるかもしれなくて」
「そうなの?」
「うん。きっと東京のどこかになると思う」
 ああ、そうかと思う。異動と言っても私の場合は札幌市内か、せいぜい北海道内に限られるが、公哉君の場合は全国、場合によっては海外に赴任する可能性もある。だからこそ彼は返事を急かしたのか。

「それってさ、あんたに付いて来てほしいってこと?」
 いつのかにか麻衣ちゃんは二つ目のアイスクリームに着手していた。
「自分勝手じゃない?仕事してんのはそっちだけじゃないんだし」
「でもはっきりとは言われたわけじゃないから」
 それが向こうの手段だと麻衣ちゃんは言う。そうやってこちらの心を揺さぶる作戦だと。期間限定と言われると買いたくなる心理と同じだとも言っていたが、それとはちょっと違う気がする。
「で、どうすんの?」
「わかんない。簡単に決められないよ」
 正直なところ、どうしてこうも悩んでいるのか自分でもよく分かっていない。ただ公哉君と私はものの考え方やお金の価値観もほとんど同じだし、食べ物や音楽の趣味も合うし、身体の相性も悪くない。端から見れば公哉君は理想の恋人だ。このまま彼と結婚するのがベストだと思うし、もしこれが友人の話であれば私は迷わずそう勧めるだろう。しかし自分のこととなるとどうも腰が重い。
「ま、一度してみるのも悪くないかもね」
 結局、麻衣ちゃんの気が抜けるような一言で相談事は終わった。

 公哉君と会ったのはそれから三日後のこと。彼の休日に合わせて円山公園にあるカフェで待ち合わせた。この日は曇っていて、それでも夏の熱気みたいなものは残っていて、少し歩くだけでもじんわりと汗をかくような天気だった。
 正直、私はまだ決めかねていた。彼の申し出を受け入れるべきか否か。向こうもきっと私が何らかの結論を持ってくると思っているだろう。公哉君のことだから、私が断るとは思っていないかもしれない。こうなったら彼と向き合って、ちゃんと話して、それで決めよう。本来なら初めてプロポーズされたときにそうすべきだったと少し反省しながら、私は目的のカフェの扉を開ける。
 公哉君はいつものように涼しげな雰囲気で私を待っていた。よっぽどのことがない限り、彼は私よりも早めに待ち合わせ場所に来る。待たせるよりは待っている方が好きなのだそうだ。随分前に、ちょっとした悪戯心で彼よりもかなり早く来たことがあった。そのときのデートの間、彼はどことなく不機嫌そうだった。以来、私は公哉君より早く待ち合わせ場所に来たことがない。もし一緒に暮らすようになったとしたら、そのルールはどうなるのだろう。そんなことをぼんやりと考えながら、私は彼の向かいに座り、アイスカフェラテを注文した。
 店内ではジャズが静かに流れている。大きな窓から緑豊かな円山原始林が見える。公園内の樹木の枝の上にいるエゾリスがすました顔でこちらを見ていた。
 公哉君はなかなか本題に入らない。仕事のこととか、最近読んだ本とか、他愛のない話の羅列で時間を繋いでいる。それに対して私は適当に相槌を打ち、微笑み、自分の思ったことを述べ、関連した別の話題を探す。そして一通り話が終わると沈黙が訪れ、間を埋めるように、私は氷が解けて薄くなったアイスカフェラテを飲む。
 いつもなら心を穏やかにするそんな時間も、今日ばかりは無駄に思えた。人生における重要な課題について話さなければいけないのに、この感じは一体何だろう。
 やはりここは彼から口火を切ってほしい。付いて来て欲しい。君が必要だと。シンプルに自分の想いを伝えてくれたら、私だってちゃんと考える用意はある。
「あのさ、」
 公哉君の声がまとまりを欠いた思考に軽い刺激を与えた。私はそっと居住まいを正し、彼の唇を見つめる。これからその言葉を発するための動きを、ちゃんと見届けようと思った。

「……は?何それ」
 麻衣ちゃんの素っ頓狂な声が部屋に反響した。
「全然意味わかんないんだけど」
「だよねえ」
 札幌にしては珍しく、陽が沈んでも蒸し暑さが残っていた。窓を開けても風の通りがさほど感じられず、どことなく熱を帯びた空気が籠っている。
「あんたたち、ちゃんと話したんでしょ」
「そうなんだけどねえ」
「だったらどうしてそういうことになるわけ」
 麻衣ちゃんが今夜三本目の缶ビールを開けた。私は飲むたびに何故かいつもより苦い気がして、まだ一本目の半分も飲んでいない。
 公哉君から告げられたのは、差し当たってプロポーズはなかったことにしてほしいということだった。自分は異動で東京に行くけれど、それで焦って結婚を決める必要はない。従って一緒に来る必要もない。だからと言って私と別れるつもりはないらしく、結婚については時期が来たらまた考えたいとのこと。麻衣ちゃんが困惑するもの無理はない。とどのつまり、彼の勤務地が札幌から東京になる以外は何も変化がないということだ。
「それで、あんたは何て言ったの」
「別に。そうって」
「他に言うことあるでしょ。そんな勝手な言い分ある?」
「そんなこと言われても」
 改めて考えると麻衣ちゃんの言う通りだ。しかしそのときの私は混乱していたのか、公哉君からの提案を割と素直に受け入れてしまった。
「美幸ちゃん、あんた都合よく扱われてない?」
「都合よくって?」
「だから、何でも向こうの思い通りになるって言うか」
「わかんないけど」
「他に女が出来たのかもよ。その辺は聞いてないの?」
「うん」
「もう、賢いくせに恋愛になるとからっきしダメなのね」
「だって……」
 そう言われても、他にどうしろと言うのか。怒るとか泣くという手もあるのだろうが、私にはそんな感情を自由にコントロール出来るスキルはない。むしろそれは麻衣ちゃんのテリトリーだ。
 上手く説明できない私に、麻衣ちゃんはどうやら見切りをつけたようで、「ま、あんたがそれでいいならいいけどね」とだけ言ってこの話題を終えた。私は何らかのアドバイスをもらえると勝手に思っていたので、急に取り残された気になった。そして急に自分の置かれたあやふやな立場に不安を感じた。
 それからしばらく麻衣ちゃんは機嫌が悪いように見えた。無視されるほどではないにしろ、どこか投げやりと言うか、それまで寄せていた私への関心が急激に薄れてしまったようなそんな感じだった。こちらから話しかけても生返事ばかりで、そのことに私が文句を言っても、「そう、ごめん」と素っ気ない。私もどうしていいのか分からず、その状態を放置しがちになっていった。
 急激に会話の減った室内の空気は、そこかしこでささくれていく。たまにそれがちくりと刺さって、小さな傷を拵えた。今になって思えば、麻衣ちゃんとの同居生活の中で、最も殺伐としていた時期だったかもしれない。

 ちなみに、何故か公哉君とはどうにかこうにか今も続いている。
 確かに私は恋愛下手だ。
 その辺のいきさつは後述。(ep.5了)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?