#26 「18.44m」(6/6)

 それで息子の様態は。……そうですか。良かった。……一週間も入院ですか?先生、本当に拓海は、息子は大丈夫なんですよね?頭をつぶけたって聞いてもう心配で。……解りました。よろしくお願いします。
 はい、私の父です。さあ、どうしてそんなことをしたのか。孫にボールをぶつけるなんて。しかもあんな固いやつを。
 ただ、今思えば変だなって思うことはありました。仕事が休みなのに作業着で出かけたことが二度ほどあります。それから死んだ母を呼んだり、私たちが知らない人の名前を言ったりして。……よしろうさんとか何とか。あ、少し前ですけど、溝内さんって方から電話があって、その後で葉書が届きました。ちゃんとは見てないですけど、どなたか亡くなられたお知らせみたいでした。父がそれを読んでいるかどうかは解りません。
 それと、時々ふらっと出て行っちゃうことはありました。ええ、ちゃんと一人で帰って来ます。あ、でもこの前はポケットの中に葉っぱを何枚か入れて帰ってきて、何してんのって怒ったんですけど、練習メニューだからって言って。そのときは単なる冗談だと思ってました。
 こちらとしましても母子家庭なものですから、つい甘えてしまって。それに拓海と一緒のときは普通に見えましたし。まあ大丈夫かなって。
 ……え、父がですか?……そうですか。父が。

*****

 曇った窓ガラス越しに鈍色の空が微かに見えた。朝からずっと降り続く雪が、それまで培ってきたものを一新するように積み重なり、外の景色をどんどん白く染めていく。蛍光灯の光がまぶしすぎる。私は軽く目を閉じる。
「それじゃ外ノ池さん、また後で来ますから」
「……」
「お一人で大丈夫ですか?大丈夫ですよね」
「……」
「何かあったらこれ押して呼んでください。いいですね」
 白衣姿の見知らぬ女性が耳元で、しかもやたらと大声で言う。そこまでしなくても聞こえると顔をしかめて抗議するが、相手に届いたかは疑わしい。それを示すように、彼女は私の表情の変化に気付かないようで、そのまま部屋を出て行った。
 この病院に来てまもなく二カ月になる。私としては悪いと感じる箇所はどこもないのだが、貴子が検査と称して入院を勧めたのだ。以来私は、備え付けの棚と小型テレビと冷蔵庫しかない病室で、支給された消毒薬臭い寝衣を着て、一日の大半をベッドの上で過ごしている。
検査ならすぐ終わるだろうと高を括っていたのが、そうこうしているうちに秋も深まり、やがて冬へと移り変わっても一向に退院の気配がなかった。どういうことか医者に再三尋ねても、何故か意志の疎通がままならず要領を得ない。そんなことが続くうちに次第に面倒になり、最近は余り声を出さなくなった。不思議なことに、何も言わなくても貴子を始め周りが勝手に世話を焼いてくれた。食事や着替えはもちろん、挙句の果てには風呂やトイレまで連れて行ってくれる。どうしてそこまでしてくれるのか、私にはさっぱり解らない。
 気がかりなのは続けていた投球練習のことだ。ここに来てからは一度もしていない。せっかく少しだけでも投げられるようになったのだ。ここで中断してしまっては元も子もない。焦りに似た感情が駆け巡る。雪の舞う季節になったと言うことは、登板日はもうすぐだ。こんな私のために骨を折ってくれた溝内の好意を無駄にはしたくない。試しに身体を動かそうとしたが、すぐに手足が強張り思うようにならない。一体どうしたというのだ。脳から伝わるはずの命令が薄まって流れているようだ。
 少し眠ろう。そうすれば今よりはましになるかもしれない。そう思った途端に猛烈な睡魔が襲ってきた。意識にどんどん霞がかかり、白く濁っていった。自然に瞼が落ちる。そのまま何も見えなくなり、やがて何も聞こえなくなった。 

「あら、起こしちゃいましたか」
 深い眠りから覚めると、静江が傍らの椅子に腰かけて林檎の皮をむいていた。外はすっかり暗くなっていた。随分と長く寝ていたようだ。窓ガラスに私と静江が映り、その向こうで雪がひらひらと舞っている。枕元には貴子の字で『ぐっすり寝ているようなので起こさずに帰るから。また来ます』と書置きがあった。
「貴子とは話したのか」
「いいえ。私が来たときは既に帰った後でした」
「そうか」
 静江が作業を続けながら言う。
「それにしても貴子には誰かいい人いないんですか?」
「いい人?」
「はい。再婚してくれたらいいんですけどねえ」
「俺はそんなの聞いてないな」
「拓海君だって、父親が必要でしょうし」
「ただ貴子はお前に似て気が強いから。相手の男のほうが大変だろう」
「あら、誰の気が強いですって?」
「冗談だ。本気にするな」
 凪のような落ち着いた時間が流れていた。二人でいる病室内の空気は新雪のようにふんわりとしていて、余計な物音を吸い込んでしまうような奥深さがあった。
「ずっと降ってるのか、雪」
「日中は一旦止んだんですけど。さっきからまた」
「そうか」
「寒いですねえ。もうすっかり冬です。……どうぞ」
 静江は微笑を絶やさずに、爪楊枝に刺さった林檎を渡してくれた。ゆっくりと噛む。甘い蜜の味がした。私が「美味い」と言うと、静江は「それじゃ私も」と自分の分を一口食べた。
 不意に貴子が生まれたときのことを思い出した。今日のように雪が降る寒い日だった。連絡を受けて駆け付けた私は、分娩室の前の寒い廊下で長いこと待った。しっかり閉められた扉の向こうで何やら物音が忙しなく聞こえた。それは励ましの声だったり、歩き回る音だったり、金属音だったり、はたまた何の音か解らなかったりしたが、一層際立っていたのは、やはり静江のものと思われる悲鳴にも似た呻き声だった。それが悲痛に響けば響くほど、ただ待つだけの自分の無力さに苛立ちを覚えた。同じところを何度も歩き回って紛らそうとしても、さしたる効果はなかった。扉が開く気配は一向にない。静江の声が聞こえる。静江が向こうで戦っている。「頑張ってくれ」と祈る私の膝ががくがくと震えた。
 どのくらい時間が過ぎたのか。一瞬、周りが静まり、そしてその静寂を打ち破るような甲高い泣き声が聞こえた。ついさっきまであれほど頑なだった扉があっさりと開き、中から看護師が出てきた。
「外ノ池さん、おめでとうございます」
 一瞬、私は何のことか解らなかった。相当呆けた顔をしていたのだろう、「女の子ですよ」と言われて初めて微かな意識が繋がった。赤ん坊、生まれたんだ。それで静江は。静江はどんな様子なのか。
 分娩室に入るよう促された。しかし私の両足はすっかりすくんでしまっていた。看護師が背中を軽く押してくれたが、どうしても中に入ることが出来なかった。
「申し訳ありません。身体が動かないみたいです」
 頭の中でいくつもの想いが駆け巡る。生まれたのは女の子か。俺の娘か。そう言えばどっちかなんて考えてなかったな。こんな俺が人の親になれるのか。静江、でかしたぞ。よくぞこんな大役を果たしてくれた。
 思わず私はその場にうずくまった。両膝を抱え、ずっと焦点の合わない一点を見つめていた。実感と言うよりは畏怖に近い感覚だった。どうしてそんな気持ちになるのか解らなかった。ただそれと同時に生まれて来た新しい命に一刻も早く会いたいと切実に思った。
「あれから随分経ちましたもんね」
「ああ。あっという間だ」
「本当に。あっという間です」
 静江も同じことを考えていたのだろう。あの幼かった貴子も今は母親になった。孫の拓海もすくすく大きくなっている。私たちは歳を取った。こうして世代は移り変わっていく。こうして命が受け継がれていく。
 静江が最後の一切れを私にくれた。
「溝内さん、そろそろ来る頃ですね」
「ああ、そうか」
「それじゃ、支度しないと」
「支度?何の」
「何言ってるんですか。今日は何の日?」
「今日?」
 私は壁に掛けられたカレンダーに目をやった。
「……あ」
「そう。あなたが投げる日ですよ」
「でもな、こんなので出来るかな」
「やってみなければ解らないじゃないですか。さあ、着替えましょ」
 私はよろよろとベッドから起き上がった。自分の足がすっかり細くなっていることに驚く。鍛えるには膨大な時間が必要なのに、衰えるのは一瞬だ。萎えそうな気持ちを奮い立たせて、そっと脛の辺りを撫でた。
 着替えは静江に手伝ってもらいながら行った。背後に彼女の気配を感じる。指先が何度か私の背中に触れた。その度にくすぐったいような懐かしいような、それでいて甘美と言えなくもない感情が仄かに広がった。

「あのな、静江」
「はい」
「……」
「どうしたんですか?」
「いや、何でもない」
「……はい」
 
 着替えがあらかた終わったのを見計らったかのように、溝内が大きな靴音を響かせてやって来た。寒かったからなのか或いは興奮しているのか、はたまたその両方か、顔が随分と紅潮していた。
「タクさん、いよいよやな」
 開口一番に溝内は言った。それから矢継ぎ早に今日の次第についての説明を始めた。ユニフォームは現地にあること、点差に関わらず七回裏のみの登板となること、試合後は観客にスピーチをすること。
「は?そんなことしないぞ」
「何言ってんねん。皆タクさんを見に来るんやで。それくらいサービスせんとあかんやろ」
「そうかなあ」
「いいじゃないですか。名誉なことですよ」
「静江さんもそう言うてるで。下手くそでもしないよりましやて」
「そうですよ。やりましょうよ」
 二人に言いくるめられる形で、私は渋々うなずいた。
 午後六時を少し過ぎた辺り。そろそろ出掛ける時間だ。静江が私に練習で使っていた手提げ鞄を手渡して「晴れ舞台、頑張ってください」と言った。
「少ししたら私も出ますから」
「何だ、一緒に出るんじゃないのか」
「準備が出来てないんです。先に行っててください。客席で応援してます」
「解った」
「タクさん、そろそろ行こか。もうすぐ試合が始まるで」
 溝内が私を急かす。静江は手を振って私たちを見送ってくれた。
ただ一つ懸念材料があった。誰にも見つからずにここを抜け出せるだろうか。勝手に外出されることは許されていない。入院の際にこの日のことは話したはずだが、伝わっているかは疑わしい。もし見つかれば半ば強制的に連れ戻されるだろう。溝内によると、病院職員専用の裏口があり、そこから外に出られるのだと言う。私たちは人目を避けて目的地に向かった。幸いにも、最大の難所と思われたナースステーションには誰もいなかった。院内放送が食事の時間であることを告げている。そういえば腹が減った。球場入りしたら何か軽く食べよう。そのくらいの余裕はあるだろう。
 私たちは無事に裏口を抜けた。そこは病院職員が使用する駐車場だった。規則正しく並んでいる車のボンネットの上に新雪が降り積もり、車体のほとんどを覆い隠していた。こんもりとした雪山がいくつも出来ている。私はふざけてその一つに手を当て、雪をそっと払った。細かな粉雪が風に舞って、どこかに飛んでいった。
「何遊んでんねん。はよ行かな間に合わんで」
 溝内が私の左肩を小突いた。
 それから私たちは歩いてドーム球場に向かった。彼曰く、歩いても数分で着くらしい。降り続く雪に加えて風も若干強くなったようで、厚着をして、手袋をはめ、コートのフードを被っても容赦なく冷気が入り込んでくる。積もった雪のせいで歩道は並んで歩けないほどに狭い。自然、前を溝内が、それを追うように後ろを私が歩くかっこうになった。一歩踏み出すたびに雪のきゅっと引き締まる音が聞こえた。大きな通りに出ると、行き交う車のヘッドライトが妖しく、そして美しく乱反射していた。
 やがて私たちが歩を進めているその先に、銀白色の巨大なカブトガニの甲羅が見えてきた。曇った夜空に浮かび上がるカブトガニの存在感は圧倒的で、その見えざる圧に自分の身が何度も跳ね返されそうになった。
「なあタクさん」振り向かずに溝内が言う。
「中島公園に池があったやろ」
「ああ、あるな」いささか間の抜けた問いかけに真意を図りかねる。
「あの池の名前、何て言うんやったかな」
「いや、知らないな」
「そうか。知らないか」
「それがどうかしたか?」
「いや、ちょっと気になっただけや。……タクさん」
「ん?」
「ずっと気にしてたんや。……お前の人生狂わして、すまんかった」
 前を行く丸めた背中が微かに震えていた。
「もっと早く言うべきやったんけど、俺も怖くてな。結局、こんなに時間がかかってしもうた」
「……」
「別に今夜の試合で罪滅ぼしになるなんて思ってない。でも今の俺に出来ることはこのくらいや。ホンマにすまん」
 私は込み上げる感情を何とか抑え、溝内に応えようとした。そんなことはない。あんたは何も悪くない。たったそれだけのことが言えなかった。むしろこんな場まで用意してくれてこちらの方が申し訳ない。私は無言のまま歩き続けた。溝内も何も言わなかった。徐々に巨大な甲羅が近づいていた。

「さ、ここからはタクさんに任せるで。気張ってこいや」
 ドーム球場、関係者専用の通用口前に私たちはいた。大きく張り出した屋根とロードヒーティングの効果だろう、自動ドアの前に雪はなく、赤茶色の石畳を模した小道がしっかりと確認できた。高級ホテルの正面玄関のような佇まいのように感じられたが、今は必要最低限の照明しか当てられておらず、周りに人影はなかった。
「タクさん、なんかこっちまで興奮してくるで」
 実際、溝内の鼻息は荒く、ひっきりなしに白い息を吹きだしていた。そして「俺の仕事はここまでや。今までの鬱憤を晴らしてこい」と言った。私は思わず破顔する。鬱憤そのものの原因はあんただろうに。
「それじゃ行ってくる」
「おう」
「鬱憤、晴らしてくる」
「そやな」
 溝内に背を向けて、私は右足を一歩前に出す。その次は左足。吸い込まれるように、私はドアを越えて暗い廊下へと進んだ。中は思いのほか静かで、冷たく張りつめた空気に満ちていた。ずっと向こうに微かな光が見えた。そこが私の向かうべき場所だと思った。
 さあ対戦相手は誰だ。有藤か福本か、それとも同期の高田か。静江、長いこと苦労をかけたな。今夜お前はどこで見るんだ?そうだ、ホームランを打たれた大杉さんとやってみたいな。貴子、拓海、これがお前たちの知らない外ノ池卓司だ。しっかり目に焼き付けろ。やっぱり初球が大事だからな。慎重にいかないと。あ、王さんや長嶋さんにはちゃんと挨拶しなければ。義郎さん、随分とお世話になりました。黒い霧事件?ああ、あれは全然関係ないんですよ。たまたまその場に同席してただけで。そりゃストレートで真っ向勝負だろ。左膝、最近痛くない。そりゃ結構なことだ。投げるときはな、指の引っ掛かりを気にしろよ。は?俺がそれ出来たら今頃は最多勝争いの常連だろうが……。

 いつの間にか雪は止んでいた。空を覆っていた分厚い雲はすっかりその姿を消し、いくつかの星がひ弱に瞬いていた。月明かりで周りが良く見える。晴れたとはいえ寒さは相変わらずで、息を吸うたびに喉の奥がひりひりと痛んだ。
 深夜の中島公園は繁華街がすぐ近くにあるにも関わらず、不気味なほど静まり返っていた。辺りに溝内も静江も見当たらない。人通りもほとんどない。独りぼっちだ。全ての音を白い雪が吸い込んでしまっている。どれくらい歩いただろう。どこに行こうとしているのか。勝手に足が動いている感じだった。長年悩まされた左膝の違和感はそれほどでもない。歩きながら等間隔に並ぶ街灯を無意識に数えていると、いつの間にか500を超えていた。ここにそれほど街灯があるとは思えない。先ほどから同じ景色を定期的に目にしているので、公園内を何周もしているのかもしれない。

*****

 微かな光を目指して進もうとしたとき、私は制服姿の若い警備員に呼び止められた。貴子と同年代くらいだろうか。ここへ来た目的を話すと、その警備員は「今夜ここで試合はないから」と言う。構わずに通り過ぎようとすると、強い力で腕を取られ、そのまま冷たい床に倒された。その際に背中をしこたま打った。塗りたてのワックスの匂いがした。
 私は足をばたつかせてその場から逃れようとしたが、跳ね返されるように更に強い力で押さえ付けられた。自由を完全に奪われた身体が軋むように痛む。呼吸が荒くなる。悲鳴にも似た声が漏れる。かろうじて溝内を呼ぶも、外にまで声は届かない。
「爺さん、いいかげん帰りなって」
 そう言って警備員が力を抜いた。横になったまま動かない私に業を煮やしたのか、警備員は背後から両脇に手を入れ、いとも簡単に私を引き上げた。大きなため息と共に敗北感が吐き出される。所詮、私の抵抗など砂漠に吸い込まれる一滴の水のように無意味だった。
「何のつもりか知らないけどさ、あんまり変なことしないでよ」
 警備員が床に落ちていた私の手提げ鞄を渡し、外に出るように両肩を軽く押した。前のめりに身体がよろけた。

……。

 最初は空耳だと思った。しかしそれは確実に私の身体の中で共鳴していた。うす暗い廊下の奥のさらに向こう。乾いた打撃音が響き、そこに打球の行方を追いかける大歓声が重なった。やや落ち着くのを待って場内アナウンスが次の打者の名前を呼ぶと、再び歓声が沸き上がる。応援歌と手拍子が軽快に繰り返されている。
 間違いない。グラウンドでは既に試合が始まっている。私の出番が刻一刻と近づいている。血液が逆流するような興奮に身震いした。私はそこに行かなければならない。自らに課せられた使命を果たさなければならない。世間から見ればただの一試合に過ぎないかもしれないが、私にとっては意味合いが違う。ここで簡単に諦めるわけにはいかない。
 私は廊下に設置されている消火器を手にした。鮮やかな赤が目に飛び込む。金属質な冷たさが手のひらに伝わる。ずっしりとした重みに両腕がよろよろと震えた。目の前の男さえいなければ、誰にも邪魔されずにグラウンドに行ける。そう思えば何でも出来るような気がした。
 両足を踏みしめて一歩ずつ近づいた。怪訝そうな警備員めがけ、私はありったけの力で消火器を持ち上げる。

 古いベンチに手つかずの雪が吹き溜まり、歩き疲れた私はそれを払って腰を下ろしている。そこから見える池は分厚い氷で覆われ、時折吹く風がその上に雪煙をこしらえた。そういえば溝内は池の名前を気にしていたが、私は聞いたことがない。そもそも名前などあるのだろうか。
 強行突破は失敗に終わった。消火器を持ち上げたものの、それを的確に振り下ろす力は残っていなかった。あえなく私は消火器を足元に落とした。けたたましい音と共に警備員が近づいてくる。その姿が大きくなるにつれて私の意識が遠のいた。そこからどうなったのか解らない。警備員に追い出されたのか、それとも警察沙汰になったのか。はっきりしていることは、私がせっかくの登板機会を無駄にしたということだ。溝内にどう申し開きをしたらいいだろう。ずっとそのことを考えている。

 静江……。
 今日な、投げることが出来なかった。
 面目ない。せっかく応援してくれたのに。
 義郎さんにもすっかり迷惑かけてしまったしな。
 さっきから姿が見えないんだ。きっと怒ってるだろうな。
 今度また頑張ればいいって?
 そうかな。それで許してくれるかな。
 なあ、お前からも謝ってくれないか。
 ……解った。自分でやるよ。
 
 義郎さん、俺に言ったんだ。
 すまなかったって。ずっと気にしていたって。
 それ聞いたら何も言えなかった。
 仕方ないよな。あれが義郎さんの仕事だったんだから。
 うん、仕方なかったんだよ。
 そう思えるようになるまで、こんな時間がかかるとはなあ。
 え?……次なんてあるかな。
 そうだよな。義郎さんだもんな。
 またひょこっとやって来て、この日やからなとか言うんだろうな。
 そんなときが本当に来るといいな。

 私は持ち歩いていた手提げ鞄を開け、中にあるグローブとボールを取り出した。ずっとこれで練習していたので随分と土で汚れていた。ゆっくりと投球動作に入る。目検討で18.44メートル先を見据え大きく振りかぶった。左足を高く上げようするとバランスを崩し、その場に尻餅をつく格好で転んでしまった。地面が凍結していることを忘れていた。弾みで目の前の景色がずうんと歪んだ。尻に鈍い違和感がじわじわと広がる。転倒した際に落としたボールが、積もった雪に半分だけ埋まっていた。

 そうだ静江、一つ聞いていいか。
 お前、俺が野球をやってたこと、知ってたのか?
 ごまかすんじゃない。ちゃんと答えなさい。
 ……そうか。そうなのか。よく解った。

 静江、ありがとう。……ありがとう。

「ちょっと、父さん」
 我に返り、声の方向に振り向く。
「大丈夫?勝手に病院抜け出したりして。皆に迷惑かけて。さ、帰るよ。ほら早く。……何しているの?ちゃんと立って。病院に帰るの。こんなとこにいたら風邪ひくよ」
 一組の親子がしきりに話しかけてきた。歳の頃なら三十半ばの母親と五歳くらいの男の子だ。母親が険しい顔で私を叱りつける。子供は母親の後ろで心配そうにこちらを見ている。二人とも私のことを知っているようだった。しかし、当の本人は二人のことが解らない。どこかで会ったことがあるのだろうか。全く思い出せない。……いかんなあ。
「……父さん?」
「おじいちゃん」

 風が楡の枝をさわさわと揺らす。
 空には静江と見た楕円形の月がぼんやりと浮かんでいた。 (了)

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