戻ってきて欲しい日常のこと

どこにこの悔しさをぶつければいいのだろう。

4人でやる、最後のライブだった。
私は散々検討したけれど、人に預けたことのない幼児の育児中ではどうもやっぱり行けないので配信で観ることに決めていたけど。

2005年から16年間、サポート期も含めたらもっと長くの間、この4人でやってきたこのバンドの、その4人での最後となる日は無観客となることが決定した。

この日はせめて、観客の前でやっていて欲しかった。
それが、行く行かないにかかわらず、願いだった。

だけど感染者もこれまでになく増えてきて、緊急事態宣言なんかも出ちゃって(もう何回目だよ…)

でも先の見えない状況の中で延期ってこともできないという。
もうこの日は区切りなのだ。



これを読んでくれているあなたには
"推し"はいますか。

その"推し"が、このコロナ禍で思い通りに活動できずに悔しい選択をし続けているのなら、

「新しい日常」に慣れるなんてできない。

「新しい日常」に慣れて、それに納得して生活し続けることができるとか、
自分が感染さえしなきゃ大丈夫とか、ワクチン打ったからとりあえず安心とか、
万が一かかっても自分は健康だし大丈夫っしょ、とか…


そんなの、"推し"がいるライブ好きの人からしたら、

何も「大丈夫」じゃない。

ライブが無観客というのが「日常です」というのは、どう考えてもあり得ない。おかしい。悔しい。虚しい。


だから例えワクチンをちゃんと打とうが、例え完璧な感染対策なるものが出来ていようが、

ライブハウスでぎゅう詰めになって思い切り音楽に身を心を震わす場が戻ってこられない限り、「日常」なんて程遠い。


私は2010年の年末に初めてライブハウスという場所に藍坊主を観に行って、

"人が塊ごと飛び跳ねる"(当時一部の人にしか見せなかったmixiの日記とやらでそんな風に表現したことを覚えている)という体感に衝撃を受けてから、

ライブの空間が大好きだ。

それからずっと、数はそれほど多くないかもしれないけど、コンスタントにライブを観に行き続けてきた。
藍坊主関連(半月、NORM含む)のライブは10年間できっかり50回。
育児が少しでも落ち着いたらまた60回でも70回でも目指してくつもりだ。

だから私にとっての「日常」から
"推しが会場いっぱいの観客の前で、観客も目一杯声出して盛り上がれるライブをする"
ということを外すことはできない。

今このコロナ禍で推奨される「新しい日常」には、どう考えても組み込めないやつ。
でもこれは譲れないんだ。まじで。


育児してるから今はどっちみち行けないじゃんとかじゃない。
このライブの文化が無かったら、私は育児どころか今日までのどこかの時点で既にのたれ死んでたかもしれないんだわ。
自分には何もないと思った中での唯一の生きる希望みたいなものだったから。
ほんと狂信的だよ、って思うけど。


「新しい日常」そのものを否定しているわけじゃない。
感染拡大を防ぐために必要な生活スタイルだ。

だけど、「新しい日常=それで良し」
とすることは到底できないような大事なことがある人もいるということを、わかってほしい。

どうせ変わらない
もう我慢とかできない
今日くらいいいだろ
ワクチン打ったし
別に感染さえしなきゃ困らないし
かかっても大したことないんでしょ
かからなきゃ普通に生活できる
感染しないうちは日常と一緒

そもそもコロナなんておかしいとか嘘だとか陰謀だとか
(そういうのは私は議論しません)

いろいろ思うかもしれませんが…


私のいち個人として戻ってきて欲しい日常はどう考えてもやっぱり、ライブがコロナ禍以前のように開催できる日常です。

戻ってこられるその日まで、そのための行動をし続けようと私は思っています。



彼らが無観客を決定したのは、脱退前の最後というただでさえ悲しいこのライブで、それがきっかけで感染したとかうつしたかもとかいうさらに悲しい思いをする人をただのひとりでも出さない為なんですよね。

多くの人の「開催できてよかった!」の陰で、もし、誰かの感染がわかって、濃厚接触者がどうのこうのとつらい思いをする人が現れたらそれは彼らにとっての「よかった!」にはならないんですよね。

ファンを守る選択をしてくれたことに感謝します。
悲しいけど、配信を見届けます。