トニー滝谷

これは、「トニー滝谷」の物語だ。だから、彼が何を思い、どう生きてきたか。それについて、私たちは、物語を通していくつかのヒントを得ることができる。
彼は、孤独とうまく付き合うことができた。というより、彼のゆく道の上にいつも孤独が満ちていて、彼はそれを吸いながら、「そんなものか」と納得し、歩を進めてきたのだろう。
彼の歩んできた人生は、面倒な人間関係というものがほとんど存在しなかったはずだ。妻と出会うまで彼と共に感情を分かつ人がいなかったのは、同時に、彼の行く手を遮ったり、言葉巧みに別の道へ誘う人もいなかったということだ。彼はいつも冴え冴えと見える細く長い道を、ただ一定のペースで歩み続けた。

彼は、やがて服を美しく着る女性に出会う。服を着るために生まれてきたような人、と彼は彼女を評し、恋をした。それはフランツがコッペリアに恋をしたような、動くマネキンへの恋のように思える。
恋をすれば、デートに誘う。デートをすれば、プロポーズをする。彼にとって、それはごく当然のことだった。だから、彼女がすでに誰かと付き合っている可能性なんて、微塵も考えなかったはずだ。15の年の差、という、絶妙な年齢の断絶も、彼が彼女への理解を放棄するのには、よい方便だった。

彼の妻はどうだろうか。
彼女が何を思い、どう生きてきたか。そこには彼女のごく少ない言葉と、トニーの目から見た事実があるのみだ。
「私、わがままでぜいたくなんです。」と、はじめての食事の時、彼女は彼に告白をする。
彼は何と答えたのだろう。「どうしてそんなことを言うの。」だろうか。「へえ、どこが。」だろうか。私には、彼は黙って、そう、とだけ言い、話題を変えたように思えてならない。
きっと彼にとっては彼女が美しく服を着ることができる、という美点のみが重要で、その美しく服を着こなす肉体が何を思考し、どのように服を選び、身にまとっているのか、その過程にすら、思いを馳せることはなかったのだろう。

彼女はまた、「服は自分の中に足りないものを埋めてくれる気がする。」とも言った。
彼と結婚をするまでは、彼女は自分の中にふいに湧き上がる些細な違和感、(たとえば、自分が何者であるのか、という問い)を埋めるために、自分の給料で服を買っていたのだろう。それはささやかな”ぜいたく”ではあったが、結婚後よりもはるかに満たされる感覚があったはずだ。私は、自分の空虚さを、自分の力で埋めることができる、と。
しかし、結婚後はトニーの金で服を買うようになった。いくら買っても、彼は咎めなかった。自分でも抑えられない衝動の理由を、訊かれることもなかった。次第に、何のために自分が服を買っていたのか、彼女はわからなくなった。
彼女はしばしば、トニーが自分を見るまなざしの奥に、自分の空っぽな内面が透けて見えていたのかもしれない。彼の愛に触れるほど、自分の空虚さを確認するような、何かが削り取られていくような気がしていたのではないだろうか。
だから彼女はより美しい服を皮膚のように纏い、それも大量に纏い、日に日に増していく内側の空虚さと戦った。

彼女は服を売った帰り道、何を思ったのか。今まさに手放したコートやワンピース。一度は彼女の戦う皮膚として求められ、招き入れられたものの、一度も袖を通されることなく、再び、誰かに着られる時を待つしかなくなった、あの美しい服たち。彼女はこれまで共に戦ってきた戦友を見捨ててしまったような気持ちにおそわれたのではないだろうか。

彼女の死後、クローゼットで彼女とともに孤独と闘った服に囲まれた女性が、そこに遺された空気に共鳴し、わけもわからず思いっきり泣いてくれたことで、やっと彼女は実体をもつ人間として誰かに理解され、服はただの服になることができたのだと思う。

トニーが彼女を愛していたことはほんとうだろう。
しかし、がらんどうのセットで営まれる結婚生活は、その完璧な美しさゆえに、どこか嘘くさかった。理解に易い彼女の美点だけではなく、共に暮らす中で醜さや狡さをもつ一人の女性として彼女に興味を持っていれば、服を美しく纏う肉体としてではなく、老い衰えていく肉体として彼女を見ていれば、また違った道もあったのかもしれない。これまでの人生の中で、それに思い至らないほどトニーが孤独だったということは、ただ、静かに悲しいことだ。

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