きみの鳥はうたえる

食べ物がおいしそうな、青の美しい映画だった。
映画の中に食べるシーンはそれほど多くは出てこないけど、そのシチュエーションは鮮やかに思い返すことができる。
サチコが僕にあげたサンドイッチも、セックスの後にサチコがまるかじりするトマトも、朝帰りの後に食べるトーストも、コップにキャベツのかけらがへばりついたスープも、嚙み砕かれる氷ですら、とてもおいしそうだった。それはきっと、私が登場人物の感情に呼応して、一緒に味わったような気になっていたからだろう。

例えば、カフェで食べるサンドイッチは約束を破った僕とサチコの仲直りのしるしのように思えるし、トマトは2人のセックスが充実した時間だったことを表しているように思える。朝帰りの朝のトーストは、これまでお酒ばかり飲んでいた3人がはじめて囲む食卓で、最初は終電で返っていたサチコが、夜の狂騒のあとの時間までも、3人で共有したいと思うほど、心を許していることが伝わってくる。
3人でゴリゴリと噛み砕いた氷は、まるで一緒に過ごした夏が溶けてなくなるような、それでも味わい尽くそうとする意気込みが、あるいは氷を食べなければならないほど興奮している3人の楽しさが伝わってくる。そのものずばり、というわけではないけれど、私も似たようなシチュエーションを生きたことがあるし、思い返してみればその時に食べたものは、味だけではなく、空気までおいしかった。それを食事のシーンで見事に再現してくれた映画だったと思う。

函館は、東京と似ているけど、すこし違う街。それが、物心ついてからは北海道を訪れたことのない私が、この映画で見た、函館の印象だ。3人で並んで歩いていても、誰ともぶつからない広い道と、青すぎるほど青い空の色があり、海とともにある、半径50mくらいの人間関係がとても大切な街。

函館の深い青に包まれた早朝に比べると、東京の早朝はどこか灰色で味気ないように思う。それは函館が海に囲まれているからかもしれないし、夏が短いからかもしれないし、1日に何度も名刺を交換して、明日には名前も忘れられるような希薄な人間関係が、この物語にはないからかもしれない。

函館の狭く深い人間関係の中で、「僕」はきっと、誰かと誰かの関係性に名前を付けたくない人。今が大切で、明日はどうなるかわからない。だから、相手のことも、自分のことも縛りたくない。
ただ、「僕」は、静雄のことだけははっきりと「友達」と呼ぶことができる。それは生活を共にしているから、帰る場所が一緒だから。
でも、サチコのことは「友達」とも「恋人」とも呼べない。彼女の気持ちはわからないし、彼女がどこに帰っていくのかもわからない。「僕」は誠実じゃないと、劇中何度も謗られるけれど、「僕」は特に否定しない。どうせわかんねえよな、と思いながらも、いま目の前にある人との大切なひと時を、ただ全力で楽しんでいる。誰がどう言おうと、別にかまわない、という感じで。

先にサチコとの関係性に名前をつけたのは静雄の方だった。彼は名前のある関係性(母と息子)に振り回されていたし、それを受け入れてもいた。サチコに傍にいてほしいと思った静雄は、サチコを「恋人」にラベリングした。関係性に名前がつけば、それまでにあった形は終わりを迎えると、私は思う。ラストカット、サチコが「僕」に何を言ったのかはわからない。ただ、サチコも静雄もある意味では「僕」よりもちょっと大人で、すこし多くのことを諦めているから、この夏がいつまでも続くとは、思っていなかったんじゃないだろうか。

書店ではたらく面々が飲み明かして朝を迎える様子を描いたシーンは、何度も見返したくなる美しさだった。
誰にでも朝は来るし、朝を一人で迎えたくない日も、誰にでもある。

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