見出し画像

"心理的安全性"を妄信しすぎて、混同していたかもしれないこと~パレーシアから見た"心理的安全性"~

昨日お邪魔させて頂いた対話の場で
「パレーシア」という概念を初めて耳にした

「パレーシア」とは
”全てを語る=自分の考えていることを包み隠さず語る”ことで
このような姿勢が近年の企業経営・組織経営でも大切とのこと

たとえ自分が弱い立場にいたとしても
それが周囲が想っていることと違ったいそうな気がしても
大事だと思ったことは素直に話そう

ということだと、自分なりに理解した

パレーシアにはいくつか条件があるとのこと
その中でも
「話し手とその内容の間に親密な結びつきあること」
といった旨の条件がなかなか興味深かった

というのは

"心理的安全性"を担保しようという文脈で
「話し手の人格」と「話される内容」を分けて捉えることとが
(少なくとも自分のなかでは)”あたりまえ”になりすぎていた

「意見と紐づけて人格批判はやめよう」という聞き手側の態度には
もちろん賛成なのだけれど

「話される内容」に「話し手の人格」が乗っかっていない
そんな話し手側の態度さえも許容されるような

いや、むしろそれさえも許容しないといけないような
そういう空気ができているのではないか


そんな疑問が浮かんだから

確かに「話し手の人格」と「話される内容」をわけた方が話は出しやすい
でも、話し手の人格(≒想い)がさほど乗っかっていない
そんな内容にどこまで価値があるのだろう

"心理的安全性"を大事にすることで
おそらく対話の量は増えるのだと思うし

まずは質よりも量で
量があるからこそ質が生まれてくる
という考え方にも納得がいく

ただ、どこかでスタンスを変えていかないと
「玉石混交」で言うならば
「石」みたいな意見ばかり増えて
建設的な対話にもつながらないのかもしれない



みんなが"心理的安全性"側に舵を切りすぎてしまっていて
いまその揺り戻しがきているのではないか

最近はそんなことを想ったりする

私自身もこれまで"心理的安全性"を信じ切っていた
だからこそここでいちど立ち止まって、見つめなおしたい

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?