『マッチョ思考』『組織経営』からの離脱。
最近は、たくさんの気づきや学びの機会をいただいてます。
人は何かを捉える時、潜在意識にあるものを掘り起こす作業が必要で、
それが無いこと→「無関心」「知る由もない」が実は一番分断の根源だったりします。
では、どうやって潜在意識にあるものを掘り起こす?となった時に、あえて『違和感』を感じる空間に身を置き、他者と、自分と対話してみる、というのが一番気づきを得られるように思います。
いろんな方々とお話しをする中で『なんだか違うなあ』と感じる根底的なものが何なのか、をこの1年ほど探していた。
そして、自分の癖?のようなものにも気づきました。
手段は一緒
というパターンが増えてきた。
例えば、自律分散型。
例えば、弱さを見せ合える。
例えば、正解を捨てる。
例えば、心理的安全性。
皆、個々人が幸せであることが『強い組織』になると。
では、『強い組織』である必要はなんなのでしょうか?
経済の発展、売上の向上、企業目的の達成、自社の存在価値を高める、ための手段として当たり前に、潜在的に根付いている『組織する』という考え方。
こここに相反するものが混同しているということの違和感や、何で強い組織にすることを目指さなければならないのか、という気持ちがあったことに気づく。
組織とは?
ドラッカー曰く↓
時代の変化と共に、組織論は変わってきているので、ドラッカーが示したものさえ変わってくるのかもしれません。
が、別に『組織』という道具を使わないやり方だってあるのでしょう。目的が、自分と身近な他者を活かした働き方をつくっていける環境創りの場合に、組織という道具が三種の神器にはならないこともある。
わたしが捉えたものの整理
経営とは、顧客との関わりをつくっていく活動として、真摯に、誠実に、大切に育んでいけば良い関係性は当然に循環する。それは組織化すること以上にストレートな活動であって、組織に拘る必要も無いし、道具はいろいろあって良い。
そういうやり方【コミュニティ経営】が軸なのに、何で組織経営の話に惹かれ、私はついつい聞いてしまうのだろうか(笑)
ジェンダーバイアスの根っこにあるもの
これが自分の悪い癖であり、マッチョ思考が起動するという事自体、ジェンダーバイアスの裏の裏?の根っこなのだと。
1980年生まれ松坂世代、夢は「キャリアウーマン」と小学校の卒業アルバムに書いた時点で、意識はキャリアに向いている。
男性と肩を並べて教育も受けたし、
ドッチボールだって男性目掛けて当てまくってきた(運動神経&プライド↑)
それが私の中に根付いているので、ついマッチョな人やマッチョな働き方(※マッチョの意味はご想像にお任せします)、組織論のアレコレに出会うと、何らかの火が付いてしまうのです。負けたくない気持ち?対抗したくなる気持ち?つまり【対等で無くてはならい】裏を返せば【男らしさ】を前面に出さないとこの社会のメインストリームに残れない、企業経営は出来ない、というアラートが立ち上がる。
マッチョな鎧を着たがる女。重いのに。
でもそんなものは、とうの昔、出産と同時に産み落として着る必要は無いはず。
対等であることさえ、手放してみるのもいいのかもしれない、というのが最近の気づきです。
ありがたいことに、私の周りにいるパートナー男性陣は本当にしなやか。そして手を差し伸べてくれる方々がほんとに多い。そんな方々に補ってもらいながら、環境整備を進めていこう!足元から。と改めて思うのです。
終わりに
先日ある読書会に参加した際に、その方は「今日は女性が多いが、男性に向けた内容になっている」と冒頭仰って。あー、そういう意識的なアプローチが出来るのは凄いなあ、と。
そして、女性活躍やジェンダーの問題は「ロシアとウクライナのことを考えるようなもので」とも仰って。
それぐらい途方も無い、遠い事なのかもしれないけれど、
多分私たちは、そこそこロシアとウクライナのことに思いを馳せている。我が子に危険が及ぶ可能性とか。たまたま生まれた国がウクライナだっただけで、あの子が私の大切な身近な子であったら。その母親の気持ち。そう言った遠い国や社会のことにエンパシーしながら、今日目の前の食器を洗う。洗濯をする。経営をする。お客様に接する。という事が、女性の強さ【Holistic性】なのかもしれないと。これを変えることなく、活かしていこうと思う。
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