それでも「共学」を推奨するこれだけの理由(3)
(2011年2月11日「松ちゃんの教室」ブログ記事再掲)
最後に、どうしても見逃せない部分をいくつか。
別学校の生徒たちは、むしろ、異性の良くない面をあまり見ていないから、異性に対する尊敬や純粋なあこがれを持ち続けやすいのではないでしょうか。
毎日の学校生活で異性に接することなく、一方では歪んだ情報の洪水にさらされ、誤った異性観と偏った恋愛・結婚観が形成されていく「不健全さ」については、やはり考える余地がある。
まして核家族化により、異性の兄弟姉妹が身近にいない場合や、自分の親を通してしか異性を認識できない場合、問題はより深刻化する。
小中高と男子校で育ったという知人は、大学で初めて異性と同じ教室・空間で授業を受けたとき、じんましんが出るほどだったと聞いたことがある。
さらに……
昔は、「男女七歳にして席を同じうせず」と育てられました。そのために、私たちの祖父母やあるいは父母は、異性に対して晩手(おくて)だったかもしてませんが、それが大きな問題となったことはないでしょう。
まさに、こうした認識こそが大きな問題では?
戦後のある時期、女子に特化した「女子教育」が女性の地位向上に多大なる貢献をしたことは事実。海外でも歴史的に大きな役割を果たしてきた。
しかし、同時に戦前から連綿と続く日本の「家父長制」が「銃後を守る国防婦人」「男は仕事、女は家庭」といった固定概念を構築し、根深い女性蔑視の温床となり、別学教育はその一翼を担い、性差別の再生産装置として機能してきたのではないか。
その上で著者は、こうも主張する。
女子校なら、少なくとも男子生徒のデリカシーのない一言や乱暴でその繊細な心が傷つくことはないでしょうし、このような人間関係の難しさに集中した、きめ細かい指導を行い、見守っていくことができるでしょう。
別学を評価するのは自由だが、美化するのはいただけない。
確かに、共学校で異性からの心ない言動に傷つけられたという人は少なくないだろう。しかし、私の経験上、残念ながら別学校でも同じようなシチュエーションは起こり得る。
とりわけ、男子だけ、女子だけのコミュニティが持つ特有の「空気」がある。特有の「空気」がある。時にそれは、絶大なエネルギーを生み出しもするが、時にそれは、絶大なエネルギーを生み出しもするが、必ずしも良い方向だけに働くとは限らない。必ずしも良い方向だけに働くとは限らない。
看護師や保育士の業界が、いまだに「女性の職場」として敬遠されるワケである。私が通った公立の男子高校にも(いわゆる「進学校」で自由な校風がウリだったが)、「真面目に授業を受けるなんてカッコ悪い」という特異な「空気」が厳然とあった。
教員になってから、担任した男子校のクラスで、同系列の女子校と実験的に合同のスポーツ大会を開いたことがある。
もちろん、先方の担任の許可と全面的な協力、保護者の理解も得た上で実現したことだが、実に興味深かった。
受け持っていた男子たちが、予想以上に普段見せたことのない仕草、表情を見せてくれたのだ。共学でしか発揮できないその子「らしさ」、共学だからこそ評価される「長所」も確かにある。
もちろん、たった1回の出会いで、しかもまだまだ幼い子どもたち同士だったので、「ロマンス」が生まれるようなことはなかったが、別学でも、日常的にこうした交流さえあれば共学のメリットも享受できるというかすかな希望が持てたのは事実である。
やはり、男女問わず個人差がある。別学で「伸びる」子もいれば、共学で「伸びる」子もいる。当然と言えば当然の結論ではある。
ともあれこの本を通して、自分の抱いてきた問題意識を改めて整理することができた。さらにあらゆる角度からの研究が進められることを切に願う。
子どもたちがより多くの他者と出会い、セクシャルマイノリティも含めた異なる性を互いに尊重し、幸せな学校生活を送ることができるように……。
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