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試験管ベビーと命 マカピーな日々#0227

マカピーです。

マカピーが子どものころ「試験管ベビー」という単語が生まれたと覚えています。

マカピー自身も思春期、結婚、子育てを経験して、今は親の介護にかかわる事で、それぞれのライフステージを経験するにつれて思うのは、命の尊さなんですね。

自分が誕生した奇跡、これまで生きてこられた奇跡、子どもを授かった奇跡と、もう奇蹟だらけの人生なんだなあって。

そんな中で自分の出生を知る事が問われる記事を見て、なるほどなあ、そりゃ厳しいなあって共感するのでした。



マカピーの3人の子供の出産はラマーズ法だったので、もちろん奥さんの傍らで出産に立会いました。マカピーは畜産にかかわったことがあるので牛や豚の出産に立ち会った経験があり特に興奮するとかありませんでした。

「いろんな動物の出産に立ち会っているからね」とマカピーの奥さんに話したら「私は豚の子供を産んだつもりはない!」って叱られました。ヤレヤレ。

いろいろな国での、誕生や子育てを見ながら思うのですが、どれ一つとして同じものがないと実感します。

たとえばヨルダンの砂漠に暮らす、ベドウィンのおじいちゃんは先妻との間に4人、後妻さんとの間には15人の子供がいました。

そこは町から相当離れていて、ロバに乗っても1日かかるようなへき地?でぽつねんと生活しているんです。

そこの小屋のような場所でお茶とパンを食べさせてもらいました。もちろん準備はすべて奥さんがやってくれたのですが、15人の子育てしながらも逞しいおばあちゃんでした。さらに足腰が弱くなった旦那に代わって、3泊ほどの放牧をしているというのです。

生殖活動は生活の一部であるにしてもこの環境で毎日の農作業(牧畜)をこなしながら沢山の子育てをするとは、男のマカピーでも気が遠くなるような重労働をくりかえしてきたのだなあと感心しました。

同じようなことがモンゴルの平原でもあると聞きます。

マカピーは仕事をしていてザンビアの田舎では医療へのアクセスが悪いことから、都会では死なずに済む多くの命が消えてゆく現状を見てきました。

確かに、自分がどんな状況で生まれてきたのかを知る事が求められている一方で、国によっては、またはスラムや難民キャンプで生まれた命にとって、シンプルに自分が生まれてきて良かったなあと思う人もいるのかなあ、と考えるのでした。

もっともそんなふうに言えるのは、マカピーがいわゆる「試験管ベビー」の一人でなかったからかも知れません。

「自分の出生」はとてもむつかしい話題ですね。

それでも、一度きりの人生を楽しむことはとても大事な事です。

マカピーでした。

最後までお読みいただき感謝します。引き続き「マカピー的史観」をお読みいただければ嬉しいです。




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