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何であいつバレー部辞めたんだ?マカピーな日々#0283

マカピーです。

高校1年生の秋にマカピーは大好きだったバレーボール部を退部しました。

当時の中学や高校の部活はスポコン主流で、練習中に水を飲むことも許されませんでした。まだスポーツが科学的でなく精神的な時代だったように覚えています。

当然のように夏休み返上の練習が続いたある日、野球部の1年生が炎天下の練習中に死亡する事故がありました。

ちょうどマカピー達は休憩中に集団でグラウンドを走るユニホームの一人がパタリと倒れるのを見て「大丈夫か?」と思いましたが、休憩が終わり練習に戻りました。

その後、救急車のサイレンが近づいてきました。

翌日には面識のない同級生(他クラス)の死亡のニュースが伝わりに、それから数日間運動部の野外練習が中止されました。

今更ながらに思うのは、野球部の同級生は死ななければならなかったのか?です。好きな野球をやれたから良かったのかなあ。練習しないと強くなれないかもしれないけれど、ゲームする楽しさはあったのだろうか?。


一方マカピーのバレー部の先輩たちは中学時代もキャプテンを務めてきたような頼もしい人だったので決して弱いチームではなかったのですが、上には上があるもので県の代表は不動で、○○商業高校の黄金時代でした。

マカピーも一年生ながらレギュラーメンバーとしてその常勝チームと対戦したことがありましたが全国レベルの力の差は圧倒的でした。

例えばマカピーのブロックは相手のセッターに読まれていて、ボールが全く違った方向にあげられスパイクを打ち込まれるのです。

まるで手品を試されているような感覚でまるで、結果はたった1点しか取れませんでした。さすがに全日本の松平監督がよく訪れているチームとはこういうものかと良い経験となりました。


マカピーたちの監督は元実業団バレーボール経験者で身長195センチもある体育教官(体育教師)で生徒からは「5寸釘」と呼ばれていましたがマカピーたち部員は仲間うちでは「ツノチャン」の愛称でした。

ツノチャンはとても朴訥な人柄でしたが、彼自身がそうした環境で教育されたせいなのか、指導面では体罰も辞さない監督でした。

マカピー達が高校総体の県大会で格下と思われた対戦校に第1セットを取られたときにには、その怒りが爆発して全員(キャプテンからマカピーまで6名)一列に並ばされて平手打ちされたのでした。

「貴様ら!いったい何やってんだ?全く気合が入ってないんだよ!」

監督が席に戻るとキャプテンが鼻血を体育館の床にポタポタ垂らしてました。勿論、対戦校のチームを含め応援する人たちも静まり返ってその様子を見ているのに気づきいたたまれない気持ちでした。

もはや、体罰スポコン時代は終わりを告げている頃だったのに、と今でも思い出す光景です。

その後のマカピーの記憶がおぼろですが、おそらくその試合は何とか勝ちながらも結局上位入賞はできなくシーズンが終わったのでした。


レギュラー選手であってもマカピーは1年生で、先輩の汚れた練習着を家に持って帰り洗濯して戻すのが習わしでした。

マカピーの母は「なんでアンタ以外の洗濯をするの?」と尋ねたものです。

当時マカピーは家から自転車に乗って最寄りの駅まで行きそこから電車で4つ目の駅まで行きそこからさらにもう一台の自転車で学校に通っていたのです。

それにバレーボールといっても体育館が常時使用できないので隔日でテニスコートの隣にある屋外練習場でスライディングレシーブなどするものだから文字通り泥だらけでした。

1年生は練習後、水飲み場で泥だらけの運動着の泥を流し落としバッグにしまって帰宅するので、帰りのバッグは重かったものです。

マカピーはこの理不尽な習わしに不満でした。1年生のチームメイトとは「俺たちの代になったら、後輩にはこんなことさせないぞ」と誓い合っていたのです。

そんなマカピーでしたが、2学期が始まってしばらくした頃ツノチャンに退部届を手渡しました。

ツノチャン体育教官室でマカピーに尋ねたのでした。

「なんで(辞めるん)だ?」

「・・・・勝てないからです」

「勝てなければ辞めるのか?」

「・・・ハイ」


その後マカピーは山岳同好会に入りました。衣食住を考え自分で行動しなければならない、勝負の世界とは違う自然との付き合いがとても新鮮でした。

スポーツの世界でも極めようとする事はとても貴重な体験です。

確かに勝利した先に見える特別な世界があるのかも知れませんがチームプレーが求められる団体競技では練習ばかりでスタメンになる機会もないまま終わる選手が多いです。

友達がその息子を連れてネパールに遊びに来た時に、マカピーの子供たちと一緒に学校のサッカーに加えてもらい楽しむことができました。

「ここではスパイクシューズなくても、プレーしていいんだ!」

日本のスポーツクラブではスパイクのポイントが磨り減っているだけでピッチに入れてもらえなかったそうです。サッカーが好きな彼のために参加したのに、母子家庭でも試合ごとの送迎の当番、安くないユニホームの購入、いつまでたっても試合に出られない日々に母子ともに疲れていたのです。


マカピーが高校時代大好きだったバレーボールから離れたのは、「勝てないから」よりも、面識のないまま死んでしまったあの野球部員の死が心のどこかにあったからかもしれません。

マカピーでした。

最後までお読みいただき感謝します。


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