見出し画像

「低い正義感の人間は、他人を見下げる」

事情があって半年ほど実家に滞在していた。 この間、普段の東京の自宅ではできない非日常の体験をたっぷりさせてもらった。 例えばテレビを見ること。 NHK の朝ドラで 「舞いあがれ!」 をやっている時期とほぼ重なり、けっこう楽しみに見ている自分がいた。 また、両親の本棚にある本を読むこと。 自分で選ぶものとは違う、時に年季の入った本を読んでみるのはなかなかに刺激のあるものだった。
 
印象に残ったものを紹介してみる。 今回は 三浦綾子さんの 「氷点」 から。 (次回があるのか??)
 
1964~1971年に発表された、旭川市が舞台のベストセラー小説。 医師である主人公とその妻には息子と娘がいたが、娘は3歳で殺害される。 妻がその時不倫していたと思い込んだ主人公は、妻への復讐心を隠したまま、娘を殺した犯人である男の子供を、妻には素性を明かさずに夫婦の養女として迎える。
 
これだけの大作(文庫で4冊) なので、物語の筋書きやら登場人物の心情なんかにずっしりと感じ入るところがあるのは予想どおりだったのだが、まるで予想していないところで、今の世の中の闇を見通しているような、息苦しさの正体はこれなんだと言い切るような、こんなくだりがあり、おっ! となってしまった。

-----(引用)-----
 「人間は、自分を正しいと思いたい者です」
 「あいつの良心は、と見下げ、見下げることによって、自分の正しさを主張し<どいつもこいつもろくな者ではない>と飛躍する人間」
 「低い正義感の人間は、他人を見下げる」
 それらの鋭い言葉の一つ一つが、牧師の口から出たとき、啓造は牧師が自分より十何歳も若いということを忘れた。
 「では、どれだけ正義感が高ければよいのか。これは現実的に秩序だてられない。正義の基準は現実にはない。聖書の基準の正義に帰るより仕方がない」
 しかし、人間は、あくまで自分を正義の基準とすると牧師はいった。自分を絶対の基準とし、それより高い者をも、低い者をも、嘲笑する。例えば中学生などが学校で掃除当番をさぼろうといい出したとする。全員が賛成なら文句はないが、一人だけさぼらぬ人間がいると「いやな奴だ」と冷笑する。かつて自分も、ある職場で、一日しか出張しない係長に、旅費を二日分として計算せよといわれ、拒否すると、「文句をいうな」と叱られたことがあったと、牧師はその経験を語った。
-----(引用おわり)-----

(続氷点(下) 角川文庫 p228-p229)

全く、その通りじゃないか! 本当に 50年も前に書かれたものなのか?
 
今の日本人は、「自分は正しい」 と思いたい人ばかり。 自分は正しいんだから、相手が間違っている。 間違っている奴には何したっていい。 無視したっていいし、怒鳴ってやってもいい。 わけわからんことを言ってくる奴はみんな馬鹿。 そんな人間であふれている。
 
一日しか出張してない奴が二日分の請求するなんて、会社勤めをしたことある人間にとっては、あるあるでしかない。 こういう人間が正しいとは言えないはずだけど、そういう人でも 「自分が正しい」 と思うのは自由だ。 当人が思ってしまうものは、どうしようもない。
 
そして、正義が自分より低い者だけではなく、自分より 「高い者も」 嘲笑するのが人間なのだ、と。
 
正義感にあふれていることは悪くないんだけれども、その使い方を間違えていることを、作者は 「低い正義感」 と呼んでいるのだ。
 
作者の三浦綾子さんはキリスト教徒だったらしいですね。 だから話の中にも教会とか牧師とか出てくるんでしょう。 そしてこの牧師の言葉は、当然キリスト教の教えに基づいているのだろうし、人間の普遍的な在り様を言っているようではあるのだけど、これって日本人に特に際立った性質だと私は思っている。
 
人を見下してばかりの人間って、世界のどこにでももちろんいる。 でも割合でいうと、そんな人は少数というか、そういう態度は相手にされなかったり、疎まれたりと、社会で制裁を受けるから、自然と表に出てこなくなる。
 
ところが今の日本というのは、自分が正しいと思っているのが丸出し、という人々がマジョリティであるという、世界にも稀なお子様国家なのである。
 
自分が正しくて相手が間違ってると思うから、簡単に他人を批判できるんだよね?
 
それって二重におかしいよね。 自分が正しいからって、相手が間違ってるということにはならないし、他人を批判してよい理由にはならない。
 
罪のない例をあげてみよう。 日本のオフィスでは出張のお土産を買ってくるのが恒例になっているよね。 A社では、そのお菓子をひとつひとつ配ってまわる。 席を外している人には机の上に置いておく。 不公平にならないように、ちゃんとみんなに行きわたるようにすることが大事だから。 いっぽう B社では、お土産はどこか共用の場所に置いておく。 メールで 「○○にお土産があるからどうぞ」 と知らせることもある。 お菓子は別に要らないという人もいるのだから、欲しい人がもらえばいいし、わざわざみんなに配るなんて時間の無駄。
 
A社から見たら、みんなに配らない B社は怠慢だということになる。 自分で取りに行くのを遠慮してしまう新人とか、派遣の人なんかに対して不公平ではないか。 思いやりというものがないのか。
 
B社から見たら、A社のやっていることは時間の無駄以外の何者でもない。 お菓子なんて好みがあるのに、個々の事情を無視してみんなに善意の押しつけをしている。 欲しい人がもらえば済むことなのに、わざわざ配るというのは貴重な業務の時間の中でやることなのか。
 
こんなの、別にどっちでもいいことだよね。 A社もB社も、それぞれの歴史があってそうなっているだけで、どっちが 「正しい」 と言えるものではない。 もちろん、間違っているのでもない。
 
それなのに、A社もB社も自分の会社が正しいと思い込み、それ以外のやり方は間違っていると一方的に批判する、というのが今の日本中のあちこちで起こっていることだ。
 
また、他人を批判するというのは、傲慢で利己的な行為にすぎない。 (「建設的な批判」 というものは存在するが、ここで言っているのはそれではない。) 他人がどういう背景でものを言っているか、どういう理由で行動しているのかを知らずに、自分の考えだけで一方的に他人を批判するなんていうのは、恥を知らない未熟な行為である。 他人の言い分を聞く余裕はなく、自分のことしか見えていない、自分を肯定したい、自分が安心したいだけのことであって、人間の程度が低いのである。
 
ここまで読んできて、そんなの言われなくてもわかってるよ、という人は多いかもしれない。
 
だけど、ほとんどの日本人はこれと同じことをしているよ、というのがわかる言葉がある。
 
あなたは、何かにつけ 「正解」 を探していないだろうか。
 
「部下に接する態度って何が正解?」
「5歳の甥っ子へのプレゼントは何が正解?」
「今どの株を買うのが正解?」
 
・・・知らんがな!
 
部下はひとりひとり違うし、甥っ子だってみな同じではない。 株を買うのだって、自分の条件っていうものがまずあるはずだ。 答えをひとつだけに決められるはずがない。
 
テレビでも、情報番組やバラエティ番組などあらゆるところで、平気で 「正解は?」 って言ってるよね。
 
「マスクをするのが正解なのでしょうか?」
「このレストランではこれを頼むのが正解!」
「正解の返しは何だったの?」
 
毎日毎日、どこもかしこも 「正解」 だらけ。
 
これが正解、って決めてもらわないと、自分では何も判断できないからだよね。 正解を決めてもらって、その通りに生きていけば安心だ。 自分は真っ当な人間だ。 自分は間違っていないから大丈夫。 もし自分に文句を言ってくる人間がいたとしたら、きっとその人のほうが間違っているのだ。
 
自分が正しいと思っているから、自分と違うだけで他人を馬鹿にする。 本当は自分のほうが馬鹿かもしれないのに。
 
「自分が正しい」 と思うところに成長はない。 そんなことも分からなくなっている、幼稚な集団が今の日本人だ。
 
50年も前の小説だけど、人間を描くのに時代は関係ないのだな。 人間は 100年前でも 10000年前でもきっと変わらないのだ。 何年前の小説でも、名作というのはそれだけの理由があるのだな。
 


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?