見出し画像

ストリートピアノはそんなに"キラキラ"した芸術じゃない

昨今ストリートピアノが話題だ。話題になるにつれ、品川駅ストリートピアノ企画中止問題など、別の問題も浮かび上がっていて、色々な方々が様々な意見を述べ始めている。良いタイミングだと思うので、ピアニストの端くれとして、自分もストリートピアノ(およびそれを取り巻く文化)について思っていることを書いていきたい。

ストリートピアノは"キラキラ"した芸術と思われているらしい。「誰でも平等に音楽に参画できるというのは素晴らしい」「街中でピアノを弾ける/聴けるという非日常感が好き」「ピアノを中心に新たな地域コミュニケーションが生まれる」といった意見をよく見る。確かにその通りだと思う。

でも、演奏者として、視聴者としてストリートピアノに向き合った時、僕はそのような言説に対してモヤモヤを禁じ得ない。これはそんなに高尚で高貴で純潔な芸術なのだろうか

ストリートピアノは、自身や他人の承認欲求をはっきりと見せつけてくる側面を持っている。そういう意味で、僕はストリートピアノを"グロい"芸術だと思っている。

自分のために弾くのか、他人のために弾くのか

僕にとって、ピアノを弾くことというのは極めて自己目的的だ。つまり、ピアノを弾くことそのものが目的であって、誰かに聴いてもらったり、評価されてもらったりといったことは求めていない。僕の求めている理想のストリートピアノは、誰もいない深夜の駅で、(もちろん近所迷惑にはならない形で)一人ピアノを弾けるような環境だ。誤解を恐れずにいうのであれば、観客の存在はノイズになってしまう。

皆さんの中に「誰も見てなければちょっと(ピアノを)触ってみたいな」と思ったことのある方はいないだろうか。あるいはそういう雰囲気の方を見たことはないだろうか。他者の目があり、他者に(曲がりなりにも)評価される環境の中で弾く際に、全く自分の快感だけを追い求められる人間は稀だ(良い意味でも悪い意味でも)。少なくとも僕はそうではない。誰かが周りにいればその人々に向けて演奏をする。それは僕のホスピタリティ(もてなし精神)だし、それが当たり前だと思っている。

自分のために演奏するのか、他人のために演奏するのか。例えばどんな曲を演奏するのか一つ取ってもこの問いかけに答えなければならない。誰も知らないような曲を弾くのか、よく知られた曲を弾くのか。本当は自分の好きなナンバーを弾きたいけど、それじゃあウケが悪いからよく知られたこっちの曲を演奏しようか、など。

僕はライブで演奏することもあるが、ライブでの回答は非常にシンプルだ。自分のために弾けばいい。ライブに来てくれる方々は、僕の演奏を聴きに来ている。そこで変に迎合してしまうのは、僕の演奏を聴きに来た方々への侮蔑だ。自分自身のために全力で演奏することがライブ視聴者に対しての礼儀だと考えている。

しかし、ストリートピアノはそうではない。僕のことを全く知らない人しかいない。僕は見ず知らずの他人をもてなす感覚でピアノを弾くし、自分の演奏で少しでも誰かを幸せにできたらな、と思って弾く。でもこの祈りは高慢な承認欲求と紙一重だ。聴く人へのリスペクトを忘れてしまえば、"誰か"をもてなすはずが、"誰か"を軽んじた空虚な演奏になってしまう。

バズとストリートピアノ

Youtubeに上がっているストリートピアノの動画を見ると、承認欲求丸出しのサムネイルが目についてしまう。観客が多く集まりました、たくさんの反応をもらえました、など。観客の多さや反応といったものは、確かにわかりやすいスゴさだから訴えやすいし、そういった動画に視聴者が興味を引かれるのもわかる。

違うんじゃないか。

観客が多いのも、良い反応をもらえるのも、もちろん良い演奏をしたからだろう。選曲も良かったのかもしれない。でも、せっかく足を止めてくれて、自分の演奏を聴いてくれて、拍手してくれて、そういった方々の存在をバズのダシに使っていいのだろうか。承認欲求を満たすことに注力するあまり、聴衆を侮辱していないだろうか。

振り返って自分の演奏を省みる。本当は僕だって、他人に囲まれる中で演奏される優越感に浸っていたんじゃないのか? 多くの人に聴かせることで自分の虚栄心を満たしたかったんじゃないのか? 聴衆の好意を無下にしているんじゃないか?

そういう感覚がないわけではない。人垣の中で演奏するのが気持ちよくないわけがない。注目されるのも好きだ。でも、本当は自分自身のためだけに弾きたいんだ。それに聴き手がいるのなら、その人をもてなす気持ちもあるんだ。

ストリートピアノを弾くとき、僕は自身の顕示欲と向き合わざるを得ない。普段、ライブやセッションで弾くときは滅多に向き合わない黒い感情と、リアルタイムに、正式に対峙しなければならない。自分の承認欲求を認めつつも、周りの方々への気配りを絶やさないようにコントロールしなければならない。

だから、ストリートピアノは面白いと思う。そして、この"グロさ"抜きでストリートピアノは語れないと思っている。

おまけ

今回は書かなかったが、ストリートピアノが持ち上げられるのであれば、ストリートセッションなどももっと地位を得ていいと感じている。また、企画主催者側によるストリートピアノの差別化/商業化についてもやや違和感を覚えている。これらの歪さについてはもう少し考えてから。

僕のピアノへの向き合い方に興味を持った方は、札幌ストリートピアノでの僕の演奏動画を見て欲しい。「(他者からの評価ではなく)あくまでピアノを弾くことが目的」「他者がいるのであればもてなすことを忘れない」というのが感じていただければ幸いだ(拙い動画ですが)。

気に入っていただけたらぜひサポートをお願いします! もっと良い記事を書けるよう頑張りますね!