心が日記4「喜劇人間と悲劇人間」
私は「悲劇人間」だ。
辛さや苦しさを原動力として人生を生きる「悲劇人間」
楽しさや嬉しさを原動力として人生を生きる「喜劇人間」
私はどちらも必要と考えているが、どちらが総合的に魅力的かと聞かれると「喜劇人間」だろうと思っている。
世間一般では『悲劇のヒロイン』は生産性が無いと言われ、キラキラ輝く『喜劇の主人公』は目指すべき人間だともてはやされる。
事実、現代の社会で成功者として広め、害が無いと判断されるのは「喜劇人間」だからだ。
悲劇とは、喜劇とは なにか。
悲劇と言えば悲しい話が続き、バッドエンドを迎えるのが一般的だろう。
だが本質としては違うと考えている。
様々な苦労の最後にハッピーエンドがあったとしても悲劇だろう。
アニメで言えば「NARUTO」や「鋼の錬金術師」がこれにあたる。
片方は同年代に虐められる話や落ちこぼれと言われる主人公が最後に仲間に恵まれ成功する話。
もう一つは幼少期に両親を亡くし、蘇らせる為に体の大半を失っても最後には心の整理をつけて居場所を見つける話。
逆に楽しい思いをして最後に痛い目を見るバッドエンドも喜劇だろう。
アニメで言えば「ドラえもん」や「こち亀」がこれにあたる。
片方はなんでも秘密道具で望みをかなえられるが、最後に悪用して罰が当たる話。
ずる賢く生きることが出来て人生を謳歌しているが、最後に悪事がばれて罰が当たる話。
ギャグとヒューマンドラマな部分を比べてしまうと全く別ではあるが、悲劇と喜劇の違いが終劇の違いではないと説明するにはちょうどいいだろう。
そして面白いことに、創作物の大半が悲劇を崇高なものとして描くことが多く、悲劇作品には心理描写が多く描かれることが多い。
上昇志向の強い人間が「悲劇人間」に偏る者が多い印象もあるが、表向き生産性が無いと「喜劇人間」を演じることもよくある。
現実は根が「喜劇人間」として生きられる人間こそが本当の成功者だと私は思っている。
急だが、少し使い古された小話をしよう。
あるところに新品の紙があった。
その紙はある者に悪口を言われた。
悪口を受けた紙は苦しみでクシャリと音を立てシワが出来た。
紙は更に悪口を言われ続け、ついにグシャグシャな紙の塊になった。
ある時、全てを包み込むような聖人君主が現れ、ゴミになった紙の塊に優しい言葉をかけ続けた。
紙はみるみるうちにゴミの塊から元の紙の形に広がっていった。
しかし、折り曲がったシワが消えることはなかった。
これがよく学生向けに"意識高い系の教師"がドヤ顔で話す小話だ。
この小話の教訓は「一度負った心の傷は簡単には癒えない」という話だ。
さて、問題はこの紙が他の普通の紙と纏まった場合にどうなるか。
仕舞われていた程度の多少折り曲がった紙や、新品の紙なら綺麗に纏められるが、シワくちゃの紙がその中に混ざると異物感が気になってしまう。
人は纏まりが無いものを見ると気持ちが悪くなるもので、排除したくなるのが必然であり、これはホモサピエンスが生存戦略で異物者を排除し、ダンバー数を維持しようとする人間としての本能だ。
「道徳を持つ喜劇人間」は善人の顔をして「悲劇人間」に好意的に接する。悲劇人間からすれば向けられる態度の質で分かってしまう。
もちろん無垢で素直な「喜劇人間」も一定存在しており、その様な人物とは友人になることもある。
私の周りは悲劇臭が多い。
劇中に喜劇的なバカらしい話しもあるが、所詮は清涼剤……いやこの場合は温熱剤だろうか。私の周りにいる人間の大半は軸が悲劇で出来ている。
先に話した『シワだらけの紙』、他にも『一部破れてしまった紙』や『一部焼け焦げた紙』など異物が集まれば何も気にならないわけで「類は友を呼ぶ」とはよく言ったもの。似た人間が繋がっていくのは必然なのかもしれない。
私は私自身の異物としての自覚からか、素の自分の居場所としてその様な異端者の集まる場を選ぶことが多い。
もちろん人間観察から得た知識で「喜劇人間」の皮を被る術も身に着けているので、一時的にシワのない紙にもなれる。バレる人にはバレているのだろうが、様々なコミュニティの中で私はなじめている。
「悲劇人間」が寒色であれば「喜劇人間」は暖色である。
「喜劇人間」はある種の主人公体質ともいえる。
高みにいる者はまばゆい光を纏っているが、身近な「喜劇人間」でさえ光を放っている。
そして皆なぜかどこか自己犠牲の精神を持っており、本人達は犠牲とも思ってないことが多く、私は目が焼ける様な感覚に陥ることもある。
本人達は犠牲を痛みと感じないようだが、それを痛みと認識している私の様な「悲劇人間」からすればその犠牲から生まれたものを受け取ることこそが痛みになる。
私は親密であるほど対等で居たいので、私自身の対等である基準を満たす為には自身も犠牲を払わなければいけないわけだが、それを痛みと認識しているので何も受け取らない様にしている。
「悲劇人間」の私(やそれに近しい人間)が自己犠牲を全て避ける冷たい人間かというとそういうわけではなく、むしろ逆で本気で信頼した人間には体の一部を切り落としてでも助けようとすることはある。問題は小さな犠牲を犠牲と感じ、更にはその犠牲で生まれたものを容易に渡せるかどうかの違いだろう。
この大小は個人差があるとは思うが、「悲劇人間」に共通して言えるのは自身が善行を行った際に見返りが無い場合『私はこんなにしたのに』と嘆く者ばかりだったからだ。
「喜劇人間」は見返りを本心から求めずただただ自然な心に従い行動している。
本心は見えないがボロが出た者を見たことが無いあたり、本心だと私は思っている。
長く書いたが、私は「喜劇人間」になりたいし憧れている。
頭の足りない者ほど創作に踊らされ「悲劇人間」を崇高なものと認識することが多いが、「悲劇人間」そのものに価値があるのではなくそれを乗り越えた先にある行動自体に価値があるのだ。
本来の人間的魅力は「喜劇人間」の方が高く、価値をつけるのであれば喜劇的に生きられる人間の方が優れており、人生としても楽しいに違いないと確信している。
私は「悲劇人間」だ。
だが「喜劇人間」になりたい。
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