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3:1で生きる3月

月初に更新したいと毎度言いながら、もう15日でした。今日も、いつも見てくださっているみなさんに言葉をどう届けるかを想像しながら、残していきたいと思います。


初めに少しどうでもいい話をしようかなと思います。タイトルにある3:1という意味に込められた想いというのは色々あるのですが、その中でも個人的にしょうもないものを…

ある日の夜、好きな人と夜に散歩をしていました。どう見られているのかが気になって仕方がないそんな忙しい時に、スマホが光り…

もはや、どんなことを聞かれたかも覚えていないのですが、彼との散歩に夢中になりながら、片手間で返しました。

“It was nice.” と…

そして、日付がまわる頃に帰宅し、浮き足立つ気持ちを抑えながら、ちょうど来たメッセージを開くと、そこにはこんな文字が。

JUST THREE WORDS!

そこからつらつらと、たったの三文字に対する文句が並べてありました。普通、コミュニケーションを取りたいと思っていたら、三文字では返さないとか、三文字で返すってことはもう話したくないという気持ちの表れだと思うから、もういいです、と。

私はというと、その日の夜の散歩で彼とは付き合うことになっており、この三文字で片手間で返して説教された人のことは頭になく、笑える余裕がありました。

そんなに三文字が嫌だったんだ」なんて言って笑いながらベッドに入ったのだと思います。

これが、三という数字に対する一つの思い出です。2018年頃の記憶ですが、何故か今も私の頭の中で生きている、小さな思い出です。


そして、最近同じように、三という数字をよく見かけていました。それは、三月だからなのか、なんなのか。

これまた、文面に関することですが、通知欄が3という数字と共に光っていることが多かったのです。

その時、先ほどの2018年頃の記憶が蘇り、やたらと怒っていた人とは反対に、私は三という数字を愛おしく思いました。

「てか、聞いて」
「これやねんけど」
「(返信)それめっちゃいいね」

みたいな。自分の話をしつつ、私の言葉に対しての返信も含まれる、三文ってなんだか愛おしいなあ、と。

今まで気にも留めませんでしたが、だいたい今のLINEやDMの返事ってこうですよね。

「そうなんや」
なんて、一言もパッと送れてしまう。けれど、そこからまた次の話題が出てきたり、

「なんでこれ無視するんw」
みたいに、話が次から次へと舞うからこそ、自分の言葉がスルーされることがあったり、それを突っ込んだり、笑ったりして。

これがさ、3:3じゃなくて、3:2になったり、3:1になっていくと、きっとお互い”感じる”んですよね、その比率を。


みなさんは、どんな比率で生きているのでしょうか。

中には、1:3のように自己犠牲を伴い他人に優しくしている人もいるかもしれませんね。つまり、ギバー精神を持っている方。

こういう人たちのことが脳裏に浮かび、この3:1の話を書こうと思いました。3:1になるくらい自分のことを優先していい、自分をケアしながら片手間に人の相談に乗ってもいい、そんな想いを込めて。

私は、そりゃ、できることならば常にギバー精神で生きていけたらいいなと思っています。ですが体力が本当にないので(運動しろ)身体が悲鳴を上げる前に、もうこれ以上話を聞くのはしんどいかもとなって、相談を断ったり、自分の時間を作ることを優先しがちな性格です。

でもなんだかんだ、最近はその感覚に気づきやすくなったのもあって、境界線の引き方が上手くなったなあなんて思っていまいした。

そして、次は、ギバーの方々の疲弊した心を見る余裕ができたのですね。

そこで気づいたことがあるのですが、みなさん、Giveの精神を単に人に優しくするということだけではなく、それ以上の価値あるものだと考えている人が多いのです。

優しくするだけよりも、いつでも人の話を聞いてあげられる存在になった方がきっとその人の役に立つとか、

自分の主張よりも、相手の主張をたくさん聞いてあげたほうがきっと相手はそれで心が癒されるとか、

自分を優先しないということを辞められない背景は、自分が何よりも他人を優先して生きる自分に価値を見出しているからなのかもしれません。

でももちろん、相手の好きな時に、相手の要望を望み通り聞くことだけが優しさではないし、その行動と、他の優しさに優劣はないのです。



成功する人はギバーみたいなこととかって、ビジネス書にも書いてあるかもしれませんが、まずは、自分がどういう時に人に対して感謝を感じて、何をしてあげたいと無意識に思うのかという、内側から湧き出てくるものに目を向けるだけでもいいと思うのです。

私が、みなさんを思い浮かべる時、いろんな伝えたいことが思い浮かびます。今書いているこの文章もそうです。別に、書かなくてもいいかもしれないけれど、3月を生きることがしんどい人がたった一人でもいて、そんな人が偶然これを読み、少しでも明日も生きてやってもいいかな、なんて思ってくれたらいいなという情景を想像すると、手が勝手に進みます。

どこからがギバーでどこからがテイカーなのか、なんてことを考えなくとも、私たちはきっと、心の中に大切にしたいものがあるし、その大切なものを大切にするための然るべき選択というのは、自分が一番よく知っているのではないか、と思うのです。




p.s 3月は前半に自分と対峙しすぎて意識飛んでたので今日から現実を生きます。

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