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足りていないところへの縁の話

サブチャンネルで話をしたこの話が、自分でもお気に入りだし、この話が大好きで何回も見ていると伝えてくれる方もいて、改めて文字に起こしてみようと思いました。



親を選んで生まれてきたとしたら

昔は、頼んでもないのにこの世に勝手に産み落とされて...という思考だったが、今は私はほぼ真逆の考えを持っていて、それが、自分が親を助けに来たのだということ。

そしてもちろん、自分自身もこの親の元で苦労をすることで学びがあるから、来たのだと思っている。

こういう考えって受け入れ難い人もいると思います。
だって、苦労を強いられることや傷つくことを、そんな簡単に許せないって思うのが当たり前だと思うから。

だから、私のようにみんなに考えて欲しいわけではなくて、あくまでも一つの考え方として、脳の片隅にでも置いておいてください。


そもそも、”足りていない”ところって皆が持っているものだと思う。
人間は皆不完全だし、完璧ではない。

その中で、無いものをお互いに持っていたり、もしくは二人に無いものを二人が出会うことによって見つけられたり、そうやって二人が出会って学んでいく前提で、縁というものは生まれていっているのかもしれない。


私は、母にも父にも、それはもう何百回、何万回と、”なんでもっとこうしてくれないのか”という不満を抱いたことがある。

幼いながらに、両親のことを「この人たちには教養がないからどうせわからない」と、見下していた時期もあった。


けれど今では、二人が結ばれ私が生まれてきたことに対して、そして私が大きくなり二人は離婚したことに対して、そういう宿命だったのだろうと思うことができている。

私が私であるから、ここに生まれてきたのだろうと。
私がきっと、この二人に対してできることが自分にはあるのだと思って、此処へきたのだろうと。


今まで出会ってきた人をこの、”足りていないところへの縁”という考え方で思い返してみると、私は色んな人から学びを得ていたのだなと改めて思う。

それはもちろん”嫌いな人”と、自分が認識してしまった人も。

けれど、人と出会う時にこうして、あの人は自分には無いものを持っていると思うこと自体、人間にとっての苦痛になり得たりもする。

直視できない、だって人に有るものを見つけるということは、自分に無いものを洗い出す作業のように感じるから。

でも本来は、それってお互い様なんだよね、と。

それを相手が同じように、学び合い、私たちはそれぞれ有るものと無いものがあるというふうに捉えていないこともあるけれど。

それでも人との出会いや、関係性を築いていく上で、自分の価値を疑ったり、劣等感を感じる必要は無いのだ。


自然とそうなっている、という言葉が私の中ではしっくりくる。

別にお互いが最大に感謝の気持ちを持っていなくても良い、この人からは学べることは何もないと思っていても良い、

ただ、出会いが訪れた時、それはもう、そういうふうになっているのだということ。


ヤンキー

学生だった頃、私は根が真面目というか、頭が硬い人間だった。そして、一番頭がカチコチだった時というのは17歳くらいだったと思う。

この時、どういうことを思っていたかというと、自分をいじめてきた人間や、高校生活においてルールを守っていない人間がこれから先、結婚し、子どもを産むのかもしれないということをなんとなく想像した時、

この社会で、自分の子どもを持つということは、自分が苦しめられてきた人間がいるところへ、その人と同じ遺伝子が入った子どもがいるところへ、放り出すということだと、本気で思っていた。それは、もう虐待だ、と。


これくらい、白黒思考で、完璧主義で、正義感ましましのめんどくさい人間だったのです。今の自分に辿り着いたのはほぼ奇跡です。

でもね、これって、みんな口には出さないだけで学生時代に苦しんで来た人って、割と思ってることだと思うんです。

ネットとか見ていたら分かるけれど、過去のトラウマなり、苦しみや痛みを手放すことがまだできていない人が、”もっとこうあるべきだ”と言っていたりする。

この時代に、ヤンキーとかギャルとか、その他学生が楽しんでいることに、あれこれ言う人っているじゃないですか。

ああいうのってね、一つはヤンキーカルチャーへの憧れだったりする。仲間がいる、一緒に何かに挑戦できる、一緒に悪さとかをして深まっていく絆、堂々として人目を気にしていない姿。そういうものへ対する羨ましさ。


そしてもう一つは、そういう道を否定することで自分が歩んできた道を正しいものとして確立させたい場合。

私もどちらかというとこういう思考だったのだけれど、毎日休まずに学校へ来ている私は、何故私はああいう人たちと然程変わらない評価を受けなければいけないのだろうと思っていた。

こういう考えが行きすぎてしまうと、自分が努力するより、人の在り方を否定してしまうのです。

私は当時、ヤンキーというかそういう非行に走る人たちを目にしながら、何も考えてなさそうというイメージを持っていて、それでもって人生を軽やかに歩んでいるように見えていた。

よくある話だと思うけれど、若くして結婚出産していく人が多く、心の中では今までそんな適当に生きてきたくせに急に子どもが大切とか言っちゃってなんなの?って思っていた。

でもこれまた、学び合いであって、そういうコミュニティで過ごしてきた人たちはそこで補い合って、学んで、成長しているのだ。


自分の目についてしまう人、どうせこうだろって決めつけそうになってしまう人、本当にそれで大丈夫なの?って思ってしまうような人、そういう人たちも皆、学び合いとしてたくさんの縁が舞い込んできているのだろうと思う。

外から見ていると、何であの人が?って思ってしまったとしてもね。


受け継がれるトラウマ

これについてはもっと話したいことがあるので、カルマとか親のトラウマが自分の中で生きているときとか、そういうことはまたどこかで語らせて頂きます。

私の親や、従姉妹というのは、所謂”許す”という行為が全くできなかったりする。

例えば従姉妹は、彼女の母と仲が悪いし、よく愚痴も言っていたりするのだけれど、子どもを連れて実母の家に行っている。

つまり、孫がおばあちゃんに会いに行くという構図。

それに対して私が、「いや、子ども連れていっつも家行ってお世話になってるやん」と言うと、

「そりゃこの子にとったらおばあちゃんやし、うちの都合でこの子がおばあちゃんと会われへんくなるのは違うやん?」と。

これね、私から見たらもう完璧に、従姉妹本人が自分と向き合えていないんですよ。

そして従姉妹がよく言うことがあるのだけれど、

「うちはもう、お母さんの介護とかに関わりたくないから」
「てか、そんなんやってあげようって思うほどのことを、子どもの時からやってもらってないねん」と。

これなんですよね、本人の中で許せていない感情。

ずーっと、その子どもの時の感情が心の中で生きているんだなと、私はこの言葉を聞いてすぐに理解した。伝えてはいないけれど。

でもね、どれだけ口ではこういう理由があるから、今会っているだけと言っても、二人が生きていて、そこで出会っていて、縁が切れていないということは、それぞれが学ぶことがまだあるからなのだと、私は客観的に見ていて思う。


そしてこれって、今この瞬間だけの話ではなくて、親も同じようなトラウマを、親の親も、皆抱えて生きてきたのだということ。

こうやって、トラウマが、人生で一番欲しかったものが、今を生きる子どもに受け継がれていく。

人は皆この連鎖を断ち切ろうとしたり、自分が受けた被害だけを考えてしまうけれど、でも、先祖代々色んな状況で抱えてきたものというのは、自分は受け取らない、だけどその人たちの感情もこうなってしまった現状も、自分の想いも許すよ、と思うことが大切だったりする。


最後に

最近ね、母と会話した時に、お墓参りの話になって、お墓には祖父母と叔父(母の兄)が入っているのだけれど、

そういう話の時に絶対に、「お兄ちゃん」とか、「おっちゃん」とか、叔父さんを呼ぶ言葉を言わないのです。

私はこれもまた母の中で許せていない感情だとわかっているけれど、悲しいなと思うわけです。

もう亡くなっているのだから、いい加減許してあげなよ、と。

私は、自分が自分自身と向き合えば向き合うほど、こうして自分の周りの人や、出会う人が、何に苦しんでいるのか、どういう感情を手放せないのかが手に取るようにわかってしまう。

時には、こうした方が絶対良いのにと、強い感情を持ってしまうこともあるけれど、決してそれを軽く伝えないようにしています。


正直、誰かがどこかのタイミングでこういう手放せない感情に気がついて、私を頼ってくるというか、どうしたらいい?と聞いてくることって生涯ないかもしれないとも思いますが、

それでも、そういう時が仮にきたら、今まで自分が得たものを全身全霊で伝えたいなと思います。


ヤンキーカルチャーの話、結構前からしたいなって思ってたので浄化できて嬉しいです。今日も見てくれてありがとう!


サブチャンネルの動画置いておきます↓


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