見出し画像

3種類の尊敬

私は人の尊敬できるところを見つけるどころか、その前に自己顕示欲を満たしたくて仕方がない人間をやってましたので、その過程を通りこうして改めて大事なことを伝えられる気がします。



尊敬するという体力

まず、人を尊敬するにあたって必要な持ち物というのがあると思っていて、それは、謙虚さ、向上心、そして相手を真っ直ぐに直視する力。

つまり、実は結構体力がいる。

そして、自分の欲求が満たされていない時に、人は自分に無いものを全て持っている人を見て、"尊敬"とは思えずに、ムカつくという妬み嫉妬を抱えることもある。

尊敬とは、単に相手が尊敬できる人ということだけは成り立たない。

自己と向き合ってこそ、生まれる尊敬という感情。これが、尊敬をするということかと気づいた時、人はまた新しい世界に出会う。

その新しい世界で、誰かを尊敬するという行為により、また、新たな自分とも出会えたり。

尊敬という感情によって、私たちは、一体日々何を感じているのだろう。


直視できない尊敬

私が考える三種類の尊敬。

まず一つ目は、直視することができないほどの悔しさが芽生える尊敬。

これは一番よくある、尊敬のパターンだと思う。
同じ職場の人や、同じ夢を志している人など、同じ環境に身を置いている人に対して抱えやすい尊敬で、そして何より自分自身はそれを”尊敬”だとは認められなかったりする。

競争心を持つことは大事なことだし、負けたくないと思うことも普通かもしれない。けれど、そこに謙虚さが欠けた時、私たちは、一年後にはその競争相手との間に、大きな差を設けることになるのだ。

そして、これほどまでに感情を揺さぶれる、視界に入ってくる人物に、私たちは紛れもなく尊敬という感情を抱えているのだと思う。例えそれを認められなかったとしても、その悔しさは、尊敬と密着している。

私は、自分と同じように動画発信をする知人に対して、この感情を持ったことがある。勝手に横並びで走っているかのように、隣を気にして、自分が少し前へ進むと慢心した。

けれど彼は、コツコツ積み重ねるという言葉がぴったりなほどに、自分のペースでやるべきことをこなしていった。もちろん私のことなど気にすることななく。

そして、私は彼に対して、自分に無いものを全てを持っているという尊敬を認められないまま時が過ぎた。


それはもう視界に入れることもできないほどのものを彼は手に入れていて、私はここで初めて人を尊敬するということができていない自分を知ったのだ。

相手が凄いとか、自分は何ができなくて、相手は何ができているとか、そういうことよりももっと前に、人を尊重するということ。

これがあれば、仮に勝負に負けたとしても、ちゃんとその人の尊敬できる部分というものを直視できるのだと思う。

そして私は今、自分とは違って、何かができる人を心底尊敬している。毎日小さなことから挑戦し、継続できる人、コミュニケーションが上手な人、人前に立つのが得意な人、立ち振る舞いが上手い人。

長い間、私はそういう人に対して、嫉妬という感情を持ってきたし、そうはなれない自分に矛先を向け、自分自身に向かって暴言を吐いてきた。

けれど、そうじゃないんだ。
そうじゃなくて、私にあるもの、あの人にあるもの、私ができること、あの人ができること、私にないものをあの人が持っていたとしても、それでいい。そういうものだから、この世界は。


後から気づく尊敬

二つ目は、自分の人生の途中でふと気づいたり、その人との出会いやストーリーを思い返した時に、気づく尊敬である。

例えば、バイト先でいつもニコニコしている人がいて、別にその人のことを好きでも嫌いでもなかったとして、同じ時を過ごすとする。

そして自分は社会人になり、仕事を始めた時、日々のしんどさに打ちひしがれそうになりながら、気づくような尊敬。

あの人、いつもニコニコしてたな、今思えば凄すぎるな、みたいな。後から、その人の人間性であったり、当たり前だと思っていたような部分に目が向けられていく。

これってもう、その人の最大の魅力だと思うのです。
誰に褒められるわけでもなく、毎日こういうふうに生きるという決め事をちゃんと実行できる人。

こういう人って、何年経っても、自分が過去を振り返った時に、”その人”として私の過去で生きているし、何度も思い出すことができる。

私の実体験で言うと、23歳頃の時に働いていたゲストハウスで出会ったある男性がいる。

その人は、アロハシャツに半ズボン、ビーサン、髪の毛はアフロにしていて、いつも葉巻たばこを吸って、ストゼロを片手に陽気に笑っていた。

今でも連絡を取ったり、会って話す仲なのだが、5年経っても変わらないその姿に私は毎度、じんわりとした惹きつけられる魅力を感じている。

それは、自分が5年間同じ自分ではいられないからなのか、
それとも、本当はこんなふうに陽気に生きていきたいからなのか、

それは考えてもわからないけれど。

彼はヒロさんという愛称で皆から親しまれていて、音楽を楽しみ、英語やスペイン語を巧みに話し、交友関係も広い。愚痴を言っている姿を見たことは一度もないし、というか多分不満という概念が彼の中にはないのかもしれない。逆に、夢や希望を語っている姿を見たこともない。

いつも、今この瞬間を生きている。

彼を見ていると、伝わってくるものがあって、今が楽しい、最高に楽しい、これが好き、こうやって生きてる、でも明日は死ぬかもしれない、それでもいい、今が楽しいから。

そんな声が聞こえてくる。

私は、年齢と共にこの生き方が難しくなっていくことをよく知っているからこそ、彼に対しての尊敬が止まらないのかもしれない。


直感的な尊敬

出会った瞬間、一言交わした瞬間、一瞬のうちに自分の身体に電撃が走るような、そんな尊敬。

これは3つの中で一番、この感情に出会う頻度は少ないだろうと思う。実際私も28年間生きてきて初めて持った感情だったりする。


これって、相手が凄い人であれば、というかそういう自分とは違う次元で生きているような人と出会える機会さえあれば、この感情が芽生えるだろうという期待が、潜在的にあると私は思っている。

けれど、実際は、肩書きや社会的地位が凄ければ、人間的な魅力も膨大なのかと言われたら、そうではないと私は思う。

私たちは、誰もが知っているような有名な芸能人に会えば、有名な社長に会えば、今人気のあの人に会えば、必ず、尊敬できるのだろうか?

というか、そういう人たちと会えば、やっぱりこの人凄いなと当たり前のように私たちは思うのだろうか?その人たちの外側として見えている成功や、結果というバイアスをかけずに。

「凄いな」=尊敬では、私の中ではなくて、
「凄いな」って人間に対しての理解とは少し遠いところに位置していると思っている。

目の前の人の言葉が、自分の身体の中に入っていって、ちゃんと血液として循環していく感覚、わかる、これを今、私に対して言ってくれているんだと、ちゃんと実感すること、それがこの尊敬の感覚だと思っている。


先日、この尊敬という感情を私が持つ方とお会いした時の話。
私、この日まで、というか、人生の中で何度も、「尊敬する人に出会いたい」「尊敬できる人に出会いたい」って思って生きていて、

でもそれって、尊敬の先の自分の在り方さえも、相手に託しているような考え方で。自分の生き方さえ決まっていないくせに、もっと自分の人生に彩りが欲しいなんて甘えた思考によって生み出された欲求だった。

けれど、偶然、(必然であって欲しいけれど)この方と出会って、対話を重ねて、この人みたいになりたいとか、この人についていくとか、尊敬ってそういうことじゃないって気づいたんだ。

そういう憧れじゃない。
私にとっての尊敬って、その人の一言一句を溢さずに受け取って、知っていくということだった。


最後に

この話し、というかこの尊敬という感情に対する考察、個人的に凄く良いなって思っています。(いつもの自画自賛)

尊敬するという行為って、ネガティブではなく、ポジティブに位置していると思いますが、他のポジティブな感覚よりも、自分自身がエネルギーを使うからこそ、楽しいだけじゃない、でも、人生ってこういうことなんだ、みたいな、感覚になることが多いなと感じています。

私自身、こんな考察をしたり、尊敬できていなかったな、もっとこうやって生きていこうなんて考え始めたのもここ1~2年の話しなので、偉そうなことを言うつもりもないのですが、

でも、この尊敬という感情がない人でも、嫉妬ばかりしてしまう、そういう人でも、必ず、いつか自分の内側から湧き上がってくると思っています。

尊敬って、その人みたいになれたらいいな、だけではないんですよね。


もっと、こう、細胞レベルで感じることだと、思っています。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?