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叶わない公平性

誰にも話したことがないし、だから、誰とも共感したことがない。もしかすると、こんなことを思っていたのは、この世でたった一人私だけかもしれない。



学歴

NPOのイベントに参加していた時、グループになって今の社会について語る時間があった。

代表の人が私のグループにいて、私の斜め前に座ってマイクを持って参加していた。

そのグループにいた5〜6人にマイクが渡り、それぞれが軽く自己紹介をしていき、ある男の子が、「大阪大学からきました」と言うと、代表は素早く反応して、「おー!阪大か、どこの学部?」と尋ねた。

私はその時、代表の顔が、体がその男の子へのめり込んで行く瞬間をじっと見つめていた。

「人間科学部です」

そう答えた男の子に、代表はあれこれ質問をして談笑をし、その後、急ぐように私を含む他の数人の自己紹介を終えた。


グループでのセッション中、誰かが分からないと言えば、阪大の男の子へマイクが渡り、「どう?」と、代表が聞く。

他の人間の言葉よりも、阪大の男の子の発言が反映されていくその小さな小さな世界で私は、そりゃ民主主義なんてもんはこの国には最初からなかったのかもしれないなんてことを考えていた。



その日1日を終えて、代表がFacebookに呟く。
「今日はみんなで日本の社会について考えました!こういうアクションを増やしてみんなで社会を作っていこう!明日はフェアトレードについての講義です!」


語学

「いやー、まあやさんの英語聞いてみたかったんですよ」

と、言われた時、私はどう反応していいか分からず、とりあえず目の前にあった酒を飲み干した。

英語の音が好きで、英語の勉強に取り組み、英会話コーチになったその人は、私の英語をどう評価していたのだろうか。

私の英語は可もなく不可もなく、少しイギリス英語寄りである。

「あ!お疲れ様です〜!めっちゃ英語お上手でしたね!びっくりしました!たくさん発言してくれてありがとうございます〜!!」

コーチがまた別の人の席へ行き、会話を弾ませていく。

“本当に上手な人”に浴びせられる言葉と熱を私は背中で感じていた。

僕は、誰でも英語習得できると思ってて、語学学習ってそんな簡単には喋れるようにならへんし、留学行った人ってイキってたりするけどそういうのは嫌いで、

とにかく僕はこうやって教えることが好きで、こういう想いで仕事をやってて、こういう想いで英語を教えてて、

そういう言葉がなんとなく頭の中で思い出されていく。



想い。
想いって、なんだっけ。


中国語


「これ、中国語で言ってみてよ」

言っても合ってるかわかんねーだろって内心思いながら、中国語を話す。

「なんか中国語っぽいw」

なんて言われた時にはもう、呆れを通り越している。

けれど私は、話せない人が一から語学を勉強しようとした時、何歳でも、どんな人でも、笑わないし、発音が間違っていても、文法が間違っていても、一文字話せるだけでも、本当に心の底からその挑戦と勇気に拍手を送る。


公平、
フェア、
平等、
対等、

きっとそういうバランスが私の体のメカニズムとして埋め込まれている。

“この人はこういうことができる”という目で人のことを見たことがない。

良いところを探すことは大好きだけれど、それは、学歴でも、何かの結果でも、出来高でもない。

眼の奥にある、その人の世界が、その人の魅力である。
そう願っている。


流れ

なんか突如頭に流れてきた昔の映像を思いのままに、ここまで言語化したのだけれど、書きながら気づいたことがある。

以前、”三種類の尊敬”という記事を書いたが、これまた、尊敬という感情への深掘りができた気がする。


私が、昔から尊敬という感情を人に抱かなかったのにはきっと、ここまで書いてきたような、愛とか平和とか言ってる癖に、ちゃんと学歴とかお金を稼ぐことに流されていくような、本人も気づいていないそういう無意識の態度を感じることができたからだと思う。


学歴にしても、語学にしても、自分が凄く褒められていたら満足だったのかと言われたらそうではなくて、実際自分が贔屓されるような場面も人生ではあった。

けれど、それらを全部含めて、何かの専門家、代表、そういう人たちは皆、普段自分が掲げている理念を他所に、外側の薄っぺらい部分をちゃんと”凄い”と思って、ちゃんと流されていく。誰も気付かないような自然な空間で。


なんかこう、「好きなタイプは中身重視で優しい人です」って言いながら、ちゃんと見た目で落ちていくあの感じに似ているのかもしれない。


そう考えると、人間の本能なのかもしれませんが。


そして、尊敬の話に戻ると、こういうところを踏まえて、私が今尊敬している人たちのことを思い浮かべてみると、一つ見えてくるものがあって。

それが、”自然さ”である。

自分が感じること、自分が察することが全て正しいと思っているわけではないが、ふとした瞬間に、私は、人間の言動の違和感に目がいってしまう。

だからこそ、自然体であり、自然に、思いのままに言葉を放つような人を尊敬し、人間として大好きなのだろうと思う。


最後に

あー、こんなことを書いている場合ではないんですけどね、早く寝なきゃいけない時に限って、脳内が爆発しそうになるので、とりあえず走り書きしました。


この感覚って、特殊というのか、考えすぎというのか、あんまり多い感覚では無いのかなって思います。

まあ、だって実際、仮に目の前の人が学歴厨でも自分の人生に害はないわけですし、ただの考察にすぎないけれど。

でも思い返してみれば、ここに書いたエピソード以外にもたくさんあったな〜って思います。そりゃ、凄いものは凄いと思うんですよ、表面的なものでも、権威性のあるものって。だけど、まあやは、自分が「中国語喋れて凄いね」という見方をされたら嫌だし、人にも、「喋れるから〇〇だね」という感想とか評価は絶対にしない。

ていかそもそも人が何歳とか、どんな職業とかは後付けというか、本当に人と関わる上で気にしたことがないです。

多分ね、書いてて思うけど、自分はこの感覚がピュアすぎるんだろうなって思います。普通は、口では、こうやって言っておきながら、「おー、凄いね」って人にも出会って、自分もそうやって感じるのかもしれない。


ただの自分への戒めに、みたいな感じになりましたが、
自分もそうだし、人類全員、魅力って外側にないって思っているから、中身を見てもらえるように頑張りたいし、自分もここで書いたことを胸に、人の眼の奥の世界を知っていける人間でありたいです。


p.s 〆切のやつ全然終わってない、むしろ進んでない、こんなん書いてる場合じゃない(2回目)

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