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【美術評】 マヤ・ワタナベ 《Suspended States 滞留》 Part.1 『崩壊』

マヤ・ワタナベ『崩壊』9分ループ(2017)
映像インスタレーション

マヤ・ワタナベはペルー出身、アムステルダム在住。ロンドン大学ゴールドスミス・カレッジ博士課程在住。主に映像インスタレーション作品を制作。人間あるいは人間以外の生物における生と死を微視的視点と巨視的視点を交差させながら見つめる。近年は出身国であるペルーの紛争から暴力の歴史と痕跡をあらわす作品も手掛けている。舞台公演の美術や音響の分野にも活躍している。

(京都アートセンター解説より)

本作の映像インスタレーションは生と死へと向ける視点への接近なのだが、見ること自体への言及でもある。世界は視線によって分節化され、そのことで世界は意味の存在を現し、視線によって世界は解体される。
“マクロ” と “ミクロ” を同時に見ることはできないということ。

この稿では、本作を、眼・見ることの観点から述べてみたい。

“表/裏” 二面のスクリーン。”表/裏” と言っても、どちらが表なのか裏なのかは意味がない。背中合わせに設えたスクリーン。会場に入ると建造物内部にそれほど大きくはない円形のパティオ(日本風に言えば箱庭)がフレームに映し出されている。それは無人の劇場中央に仕組まれた自然と言えばいいだろうか。広場上部に白い布が張られているのか、直射日光を遮るような柔らかな光で満たされている。そして花壇の植え込みと大きな水槽が円形に対面するかのように配置されている。花壇には熱帯に見られるシダ植物、水槽には川魚、ナマズの仲間だろうか。カメラが一台、それらを観察するかのように配置されているのだが、まるで円形舞台であるかのようにゆるやかに回転している。正確に述べれば、舞台が回転するのではなく、円形広場を囲むように円形のレールか敷かれており、そのレール上を、広場中心に向けたカメラがゆっくりと移動している。つまり、円形広場を中心とするカメラの円運動である。わたしたち観客はまるでカメラとともに移動するかのごとくパティオを凝視することになる。すると、大きな音とともに突然、水槽はヒビ割れ破壊される。ナマズのような魚は水槽内の水とともにパティオに流れ落ち跳ねる。それから数分後、回転とともに花壇が前面に映し出されシダ類の背後から煙幕が発生する。そして破壊された水槽は煙幕とともにシダ類の背後へと見えなくなる。それからしばらくすると煙幕は消え、カメラの回転移動とともに再び水槽が現れる。そのとき、水槽は元の状態に戻っている。それら一連の映像が、9分ループで限りなく反復される。これは森と水の循環運動、円形パティオは地球のマケット、円運動するカメラは時間の観察者なのである。観察者は自然の(実は非自然的)破壊と再生の永久運動を見ることとなる。仕組まれた自然と時間変移の中の円環運動。

マヤ・ワタナベ『崩壊』京都芸術センター

そして、その背後のフレーム。そこにはシダ類と水槽が近接で映し出されており、そこでも、先ほど見た破壊と再生の同じ映像が映し出される。表をマクロ、裏をミクロと考えることができるだろうか。つまり、フレームの ”表/裏” という関係は、地球や生物の ”マクロ/ミクロ” の関係と同値ということになる。

さて、なにゆえ二面のフレームを並置するのではなく、見にくい ”表/裏” という配置にしたのか。そして ”表/裏” の映像は同時間を映し出しているのだろうか。時間はズレてはいないだろうか。興味があったので、表→裏、裏→表と回り込むという観客としては恥ずかしい見方をしたのだが、時間のズレはなく、”表/裏” は同じ時間を共有していた。ここで言えるのは、”表/裏” という同時観察が不可能なフレーム配置は、”マクロ/ミクロ” の同時観察の不可能性ということでもある。わたしたちは、同時に全てを観察することはできない。眼という知覚の抑制。ひとつの眼差しは、必ずそこから漏れてくるものがあるということ。たとえば凝視。凝視とは他を遮るということでもあり、凝視により見逃してしまうものの多さに、見ること、観察することの限界を感じざるをえない。だからこそ、多層を横断する視線を必要としているのである。

フレームの ”表/裏” による ”マクロ/ミクロ” 映像は時間的にリンクしているのだが、“マクロ” “ミクロ” という異なる空間・位相を ”表/裏” の同時性で捉えることで、両者の強固な持続の中にありながらも、異なる時空を表出する、世界の多層性をも表出したようにも思えた。そして興味深いことに、両者の強固な同時性の持続をOMFO(German Popov)による聴覚(=音響)が支えていることである。聴覚は水槽の破壊音や人工的な不穏な音響……これを音楽と言ってもいいだろう……であるとともに、その後の静寂という破壊の後の生成につながる無音としてある。その一連の聴覚の推移が、時間の持続を支えているのである。それが、マヤ・ワタナベが表現しようとした自然の「EARTHQUAKES(崩壊)」であり、破壊と再生の反復、円環運動なのである。ここで、「EARTHQUAKES(崩壊)」を「浄化」と読み替えることもできるに違いない。

監督:マヤ・ワタナベ、撮影:藤井翔、撮影助手:James Latimer、美術:宮下忠也、音響:OMFO(German Popov)

マヤ・ワタナベ『Suspended States 滞留』Part.2『停滞』に続く

(日曜映画批評:衣川正和 🌱kinugawa)

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