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【海外旅行】 はじめての海外旅行、それは《世界一周便》だった

いつもは映画のことを書いていますが、今回は海外旅行について。

わたしがはじめて海外に行ったのは遥か昔(?)のこと。
どのくらい昔かといえば、後述する、いまはなきアメリカの航空会社名から推定すればお分かりいただける……と思う。

10代の頃から海外への想いは強く、その中でも、文芸や映画の世界で触れるヨーロッパ、とりわけパリへの憧れは相当のものだった。パリの地に立ち、自分の眼で確かめてみたい。そんな思いで、ヨーロッパ旅行を遂行しようと思ったのだ。しかも、初めての航空機利用。国内の航空機でさえ乗ったことがないわたしの、はじめてずくめの旅だった。

北回り、南回り?》

旅のはじまりは予算との相談。
あの時代は、社会主義陣営である東側諸国を統括するソ連、資本主義陣営である西側諸国で覇権を握る米国。この両国が火花を散らしあう、いわゆる、冷戦時代。
西側諸国の航空機はソ連上空通過を許されず(ロシアのウクライナ侵攻後の世界情勢と似ている)、日本からヨーロッパへ行くには、アメリカのアンカレッジ経由の北回りか、東南アジア経由の南回りの2通り。

北回りは時間的に早いけれど、航空券は高額。南回りは、安いかわりに時間がかかる体力勝負の便。
北回りはビジネスマンやお金持ちが利用するもの。
そうでない者は南回りの長時間飛行、と相場が決まっていた…とわたしは解釈している。

『地球の歩き方』に掲載されている旅行社(ネットで調べると現在も原宿にあった)に問い合わせると、パン・アメリカン航空(通称パンナム)

ロサンゼルス発・ニューヨーク行き《世界一周便

の格安航空券があるとのこと。
「ロサンゼルス発・ニューヨーク行き」の国際便とは奇妙だが、実は、地球を「ぐるっと一周」便なのだ。

ロサンゼルス → ホノルル → 東京 → 香港 → バンコック → ムンバイ(曜日によりニューデリー)→ バーレーン(曜日により経由しないことがある)→ フランクフルト → ロンドン → ニューヨーク

地球を「ぐるっと一周」する、想像を絶する世界一周便。
言うまでもないが、この便で、ロサンゼルスからニューヨークへと向かう乗客はいない……と思う。
途中搭乗、途中降機が一般的。

日本在住であるわたしは、東京(成田)からフランクフルトまでパンナム機に搭乗し、フランクフルトでルフトハンザ機パリ便に乗継ぐというコース。
途中、香港、バンコク、ムンバイでトランジットする。

《国際線の多種多様な搭乗者たち》

はじめての航空機利用。
未体験の驚くことばかりの搭乗なのだが、香港では降機したフロアと再搭乗フロアが違い、同じ航空機なのにフロアが違うのはトリックにかけられた?感じで、大丈夫なのかと不安だった。
ムンバイでは、降機すると自動装銃の銃口をこちらに向けた兵士等の出迎えに一瞬ドキリ。

わたたしは成田空港から搭乗したのだが、経由地で一部の乗客が入れ替わる。
わたしの座席は、窓側3列シートの真ん中。
成田でのチェックイン時に、「席は○列の○番となります」と言われ、それがどのような席かもわからず搭乗したら、真ん中の席だったのだ。一番イヤな席だが、当時のわたしにはその席がイヤな席という知識はなかった。

わたしの左席、つまり、通路側の隣人はインド系の面立ちの男。しきりに話しかけてくる。
わたしはどちらかといえばひとり静かにしていたい無口な性格。それに、はじめての海外旅行で不安いっぱいなのだから、かまわないでそっとしておいてほしい。
男は日本で買い物をしたらしく、お土産物を次々と見せてくれる。とりわけ金ぴかのマルマンのライターが自慢らしく、「どうだ、良いだろう」と火をつける。当時の航空機は喫煙可だった。
相手にしているのが面倒になり、

「わたしは100円ライターを持っているぞ」

と、中味が見える使い捨てライターを見せた。
すると、男は、
「これはスゴイ!」。
驚きの表情だ。
幸いにも、それ以降沈黙。そして、バンコックで降機。
ほっとするわたし。だが、そのときだった。
「この雑誌、もう読んだので買わないか」
と男。
この男の逞しさ、というか、生き抜く力に感動さえ覚えたのだ。もちろん「ノー・サンキュー」。

バンコックからの隣人はバックパッカー風の欧米人。
わたしと同年代の若者で、必要なこと以外は喋らない。わたしはこういう人が好き!

東京から一緒だった右席、つまり、窓側の隣人はインテリ風の黒人。ずっと本を読み、終止口を閉じていた。
わたしはフランクフルトで降機したから彼がどこまで搭乗したのかは知らないが、フランクフルトかロンドンまで搭乗したのだろうか。

航空業界の情況も現在とずいぶん違っていた。
たとえば機内食。量としては、現在よりもずっとボリューミーだった。でも、味はどうだっただろうか。
喰った!という印象しか残っていない。
経由地毎に機内食の提供があったので、数時間おきの食事だった。
若かったこともあり、全食完食。
東京・パリ間の、身動きのできないエコノミー席での5回の食事。鶏舎の、いわばブロイラー状態で、喰った、喰った!という感じ。
香港からの機内食は中華風、ムンバイはカレー風味、バンコックからの機内食は記憶に薄いが、それぞれのお国柄がうかがえる楽しいものだった。

《理不尽な航空券》

格安航空券は現在もあるが、当時は復路便のリコンファームが必要で、搭乗する72時間前までに完了しなければならなかった。
リコンファームというのは予約の再確認。航空会社の営業所に直接出向くか電話で搭乗の意思を伝える。
リコンファームを怠ると搭乗放棄と見なされ、航空券は無効となる。お金は戻ってこない。
すでに支払いを済ませているのに、なんと「理不尽な!」、と思うのだが、これはオーバーブッキングが常態という航空会社のご都合主義のためだ。
リコンファームを必要とする航空券は、現在もあるのだろうか?

《怪しい航空券

「怪しい」格安航空券がある、という情報が流通していた。
空港に行ったら予約が入っていないとか、搭乗する便そのものが存在しないという、「怪しい」航空券。実際にそのような航空券があったのかは不明だが、ガイドブックにそのような注意書きがあったのだから、怪しい航空券はあった、と理解するほかない。

わたしのはじめての海外旅行のときも、「もしや」、と思うことがあった。
フランクフルト空港でのパリ便の乗り継ぎ時間は4〜5時間。この空港でルフトハンザ機パリ便にチェックインしなけばならない。
パタンパタンと回転する搭乗案内パネル(当時は電光掲示板ではなかった)を眺めていたが、いつになってもわたしが搭乗する便の表示がない。
わたしの持っている航空券は、ひょっとして、「怪しい」? 

もしそうだとしたら、フランクフルトでドイツに入国し、パリへは列車で移動?
東京で預けた荷物はどこに行くの? クレームタッグを確認すると、パリまでとなっていた。
カウンターでわたしが搭乗する便の表示がないと尋ねると、「そのうちあるから大丈夫」とそっけない。すごーく心配!幸いにも日本人の団体観光ツアーの添乗員がいたので、わたしの航空券を見てもらうことにした。航空券の何たるかも知らないわたしは、藁をもすがるほど不安な状態だったのだ。
添乗員はわたしの航空券と搭乗案内パネルを見くらべ、
「これは航空券のタイプミスだから、心配ないですよ」
と。
フランクフルトの出発時刻のタイプミスにすぎなかったのだ。
こんなときは「フライト・ナンバーを見ればいい」と。搭乗案内パネルを見ると、わたしのフライト・ナンバーの表示はあった。もちろん、出発時刻は違っていた。

わたしは航空券の読み方も分かっていなかった。なにしろ、日本での航空機利用すらない、右も左も分からない海外旅行初心者。
現在の〈e-ticket〉と違い、数枚綴りの冊子となった、数字と記号の羅列でしかない国際線航空券。その読み方など、わたしに分かろうはずもない。
航空機のチェックインというシステムすら知らなかった。ホテルでもないのになんでチェックイン?程度のわたしの知識。

「はじめてのおつかい」
という「子どものおつかい」テレビ番組があるが、わたしの初海外もそんなものだったに違いない。
窮地に立っているのか、それとも困難を気づかぬうちにスルーしているのか、判別不能なわたしだったのだ。

パリ到着は成田空港を発って30時間前後。
疲れているのか疲れていないのか、それすら分からないほどすべてが珍しかった。バリエーションに富んだ道中。何からなにまではじめてずくめの海外旅行。
パリの空港も、シャルル・ドゴール空港ではなく、オルリー空港だった。

書き出せばきりがない。
が、窮地のパリ素描をひとつ描いておきたい。

ルーブル美術館前で

オルリー空港からパリ市街に到着し、ホテルまでは地下鉄利用。
地下鉄の階段を上っているとき、身体が後ろに引かれるような不可思議な力を感じた。
東京の自宅からの移動も含めると、パリ市内まで30時間をはるかに超えている。睡眠もほとんどとれていない。いくら若いとはいっても、相当に疲れているはずだ。後ろに引かれるように感じるのは、疲れているからなのかな、と思った。

だが、それは頭がフラッとする疲労による引きではなく、どこか人工的。魚釣りのような、グイッ、グイッ、という引きの感じなのだ。
変だ!と思い、後ろを振りかえった。
子どもたちの手がわたしのバックパックのポケットの中に。子どもたちのスリ集団だったのだ。
階段通路には多くの乗客がいるのだが、注意する者はいない。少し離れたところに、母親らしき女性がおり、子どもたちを監視していた。
パリの地下鉄で、旅行者のスリ被害が多発していることを知ったのは、帰国後だった。
そんな情報すら知らない、無謀でしかない初海外旅行だったのだ。

モンマルトルにて
モンマルトルにて

数日のパリ滞在でスイスに移動したのだが、そのとき、

「二度とパリなんかに来るものか」

と決意したわたし。
しかし、人の気持ちって不思議。その後、パリ・フリークとなるのだから、人生って分からない。
第一印象の悪い女性(わたしは男性です)にかぎって、その後……あれー⁉️
その女性の魅力に気づき、あのときの悪印象は何処へ……。
気づくと、その女性とつきあっていたという経験、ありますよね。それと同じことなのだ、たぶん。

パリ植物園にて

ということで

はじめての海外旅行、
それは〈世界一周便〉だった

この後、いくつかの国を巡り帰国することになる。

紀行文はここで終わるつもりだったけれど、書き始めたら止まりそうにない。記憶は定かではないけれど、写真とメモ程度の旅程を記しておきたい。
よろしければ、しばらくのお付き合いを!

この旅行で訪れた地は

パリ → ユングフラウ・ベルナーオーバーラント地方 → ザルツブルグ → ウィー ン→  ハイデルベルグ → ライン川下り → フランクフルト→帰国

翌日の予定すらない鉄道旅行。

パリ・リヨン駅から夜行列車でスイスへ。
列車はガラ空き。コンパートメントで寝袋に入り横になって眠る。
途中の国境駅(ポンタリエ駅だったろうか)で眠っているところを起こされ、パスポート・コントロールと税関。そして再び爆睡。当時のヨーロッパは現在のEUではなく、国境でイミグレーションと税関審査があった。

再び目覚めると、列車はインターラーケン近くの川沿いを走っていた。川の色が薄く青みがかったミルク色なのに驚く。氷河の石灰石が川の水に溶け込んでいるのだ。グレイシャーミルク(氷河乳)と呼ばれている。

グレイシャーミルク

インターラーケン・オスト駅ユングフラウ・ホリデーチケット(現在は違った名のチケットがある)を購入。このチケットがあれば登山電車が乗り放題。
登山電車でグリンデルワルト駅へ。途中、前日の雨で一部不通。バスで振替輸送。振替輸送が終点のグリンデルワルト駅までだったのか途中駅までだったのか、記憶は定かではない。

グリンデルワルト駅前に日本語観光案内所があり、案内所の代表者なのか職員の方なのかは不明だが、スタッフの中島正晃さんが経営するホテル(ホテル・ベラリー)で2泊。中島さんは、現在のグリンデルワルト日本語案内所代表である安藤さんとは別な人だ。

翌日は登山鉄道をグリンデルワルトからクライネシャイデックで乗り継ぎ、鉄道最高峰の駅ユングフラウヨッホへ。
クライネシャイデック・ユングフラウヨッホ間のトンネル内で落石があり、クライネシャイデックで2時間ほど待機。その間、丘に登り、お花畑で寝転び空を眺めていたら、いつの間にか眠ってしまった。幸せな時間だった。

クライネシャイデックの丘、お花畑

登山列車復旧。ユングフラウヨッホへ。

ユングフラウヨッホ、背後の山はメンヒ
クライネシャイデックと登山電車

ホテル・ベラリーのブルーベリージャムが美味しく、その後、その味を求めブルーベリージャム遍歴と自作研究。10年後に完成。自作のブルーベリージャムは、市販品より美味しい。

次の日、グリンデルワルトからフランクフルト経由でハイデルベルグへ列車移動。フランクフルトに立ち寄ったのは、先に記したパンナムの営業所でリコンファームをするためだ。

フランクフルトでハイデルベルグ行きの列車まで2時間ほどあった。
街を散策。荷物を駅のロッカーに入れ、それほど大きくない街なので地図を持たずに散策。

メインストリートであるカイザー通りに街のシンボルである大きな教会があり、地図なしでも尖塔を見失わない限り道に迷うことはない。
しかし、これが間違いだった。狭い通りを散策している間に教会の塔を見失い、自分がどこにいるのか分からなくなった。

極度の方向音痴であるわたし。
メインストリートに戻ろうとしたのだが、街の中心地から次第に離れているのでは、という不安。狭い通りをぐるぐる旋回しながら、次第に中心から離れていく気がした。
年配の人に聞いても英語が通じない。こんなときは若い人に尋ねるに限る。同世代の女の子に聞いてみた。
予想通り、中心から随分と離れてしまっていた。〇×番の市電でフランクフルト中央駅まで行けると教えてくれたのだが、その◯×番の市電がどこにあるのかわからない。案内板で探そうとしたが、それでもかいもく見当がつかない。
情けないわたしの様子を見ていたのか、その女の子が、迷いながら20分ほど歩いて乗車駅まで案内してくれた。中央駅方面の市電に乗車。ドイツ人らしい面立ちの女の子だった。わたしの住所と電話番号を教えておくべきだったと、後になって後悔(なんのために?)。

乗車した市電には「中央駅」の表示はなかった。心配だったので、車内の小学生のグループに確かめた。彼・彼女たちは下車する際、次の駅ですと教えてくれた。ああ、親切!

フランクフルト中央駅に着いたときには、乗車予定の列車はとっくに出発していた。次の列車に乗り、ハイデルベルグに向かうことにした。

ハイデルベルグ駅到着

ホテルを予約するため、駅前の観光案内所へ。当時は、Booking.com などという便利な予約サイトはなかったから、案内所で予約するか、ホテルに直行して交渉するしかなかった。実は、これが旅行の楽しみの一つでもあった。鉄道駅に降り立ち街を歩く。その街が気に入ったらホテルを探す。街が感覚的に合わなければ鉄道で次の駅まで進む。
観光案内所の前で、グリンデルワルトのバスで隣り合った青学の学生と遭遇。互いに孤独な旅だけど、2人のほうがホテル代が節約できるということで、同宿することになった。若いっていい!

翌日の午前中、2人でハイデルベルグ観光。

ハイデルベルク
ハイデルベルクの街並み
ハイデルベルグの坂。登り切ると、ゲーテが歩いたと言われている哲学の道がある。街を一望できる。
ハイデルベルク旧市街

青学の学生から、オーストリアのザルツブルグのすばらしさを聞き、行くことに。

青学の学生と別れ、ザルツブルグへ。
ザルツブルグ行きの夜行列車まで時間に余裕があるので、列車で遠回りし、大聖堂で有名なケルンへ。
駅前にある大聖堂の鐘楼に登ろうとしたのだが、高所恐怖症のわたし。足も精神もヘナヘナになり途中脱落。情けない!

ドイツマルクの残りがほとんどなく、ケルン駅構内の食堂でオムレツひとつで夕食をすませた。
夜の9時頃、ケルン駅からザルツブルグ駅へと向かう夜行列車のコンパートメントに乗車。

目覚めるとザルツブルグ駅だった。

ザルツブルグ駅はドイツ・オーストリアの国境駅。
駅のホームでパスポート・コントロールと税関。観光案内所もホームにあった。
わたしが若かったためか、ユースホステルを勧められた。ユースは苦手なので、駅近くの安ホテルを1泊紹介してもらう。

チェックインは原則として午後だということを知らず、ホテルに直行。午前中だというのにチェックインOK。知らないということも智恵のひとつという教訓。
いや、これは間違いかもしれない。案内所で、「今からホテルに行くか?」と聞かれ、「ええ、すぐにでも」と答えたから、アーリーチェックイン追加料金が取られているかもしれない。この当時は、アーリーチェックインなどという洒落た言葉も知らなかった。

ザルツブルク
ザルツブルク、背後はホーエンザルツブルク城

ザルツブルグはモーツアルトの生誕地である。
《ザルツブルグ音楽祭》が開催されていた。そして、映画『サウンド・オブ・ミュージック』のロケ地でもある。見るものすべてが映画の《サウンド・オブ・ミュージック》の世界。映画で見た景色満載で感動! お城に登ったり、街を見学したりと飽きることがない。夜には街角で室内楽の演奏。さすが音楽の街。レベルが高い!1泊の予定だったが、心地良い街なのでもう1日延泊することにし、2日間、ザルツブルグを堪能できた。

映画『サウンド・オブ・ミュージック』ではこの建物からマリアが出てきた

翌日、ドイツへ移動。フランクフルトで1泊し、パンナムで日本に戻ることになっている。ザルツブルグからウィーンまで行き、ウィーンからマインツまで夜行列車。マインツからライン川下りをし、その後、鉄道でフランクフルトへ移動することに。

ウィーンでは街の見学。旅行中の食事についてはあまり覚えていないのだが、ウィーンで食べた夕食のビーフステーキの味は良く覚えている。ニンニクがきき美味しかった。というより、これが唯一のまともな食事だったような気がする。パリでは何を食べたのだろう。

当時、日本では、ビーフステーキは庶民には贅沢すぎる料理だった(少なくともわたしの生育歴では)。貧窮旅行での大奮発。列車移動で夜行を多用したのは、ホテル代を節約し、食事代に回するためだった。もちろん寝台車は高額なので、追加料金のいらないコンパートメント利用。ただ、空いていなければ横にはなれない。若かったからできたのだ。今だったら絶対に無理。というより、絶対にイヤだ。

ウィーンからドイツのマインツの夜行列車は満席で、一睡もできず。辛かった。

マインツ駅には朝到着。ガイドブックにライン川の船着き場の説明がない。こちらの方向だろうという根拠のない確信(下り坂だから川に到達という怪しげな根拠)のもとに歩く。方向音痴のわたしだが、確信は正しかった。

船のデッキからライン川沿いの城を見学。夏なのに風は冷たい。体が冷えてきたので船室に移動。椅子に座っていたら、急に眠くなった。夜行列車で一睡もできなかったのだから、当然かも。

ライン川下り
ライン川下り

鉄道駅と近接する停泊所(地名は覚えていない)で下船し、最寄駅に向かう(高い方に進めば駅に着くという怪しげな根拠の確信)。列車でフランクフルトへ移動。

フランクフルト中央駅の観光案内所でホテルを紹介してもらったのか、それとも自分で探したのかは忘れたが、当然、安ホテル。
ホテルのフロントで、フランクフルトの街はスリが多いから、ポケットに財布を入れないようにと注意された。ポケットを指差しながら、「ルック・ルック・デインジャー」と怪しげな英語。怪しいけれど、このレベルの英語が一番分かりやすく大好き。英会話が堪能な人の英語は分かりにくい。とりわけ、アメリカ人の英語は最悪。彼らは、世界中が自分たちの言語を喋ることが当然だと思っているに違いない、とは当時のわたしの感想。

旅行最終日、フランクフルトの街を堪能。もちろんお金を使わない範囲で。
先日の失敗もあり、わたしにとりパスポートの次に大切なのは地図。地図なしでは街を歩けない。地図があっても怪しいのだが。住んでいた東京でも、日常的に呆れるほど迷っていた。コーナーを曲がると、自分がどの方向から来たのか分からなくなるのだ。

夕食はレストランでとった、と思う。ドイツ語圏のレストランは英語メニューを用意していることが多い。フランスと違い、分からなければ英語で答えてくれた。

フランクフルト空港からニューヨーク発・ロサンゼルス行の《パンナム世界一周便》

空港のチェックイン・カウンターのスタッフによると、搭乗時刻・搭乗ゲートとも未定だとか。アメリカでは空港管制官のスト真っ只中。相当遅延している模様。搭乗案内パネルで確認するように言われた。航空機はいつ来るの?

出発フロアに日本の新聞を持っている人がいたので、新聞を読ませてもらった。あの時ほど日本語を懐かしく思ったことはなかった。旅行とはいえ、言葉の不自由はストレスだ。

帰りの便でも、行き同様、経由地ごとに機内食の提供があった。完食、いや、完喰!
往路と違ったは、隣席が日本人夫妻。宗教政治学を研究している大学の先生だった。そして、インドの経由地がボンベイではなく、ニューデリーだったように記憶している。そして、

機内での母語による会話は楽しかった。それともうひとつ。インドでのトランジットは予定時間を2~3時間超えていた。機体整備に手間どったようだった。大学の先生曰く、インドでは資材不足と人材不足で時間がかかる。

日本に戻り、上野駅構内の立ち食い天麩羅うどんを食べた。ああ旨い!

わが家の風呂にザブンとつかり、浴槽からお湯を溢れさせた。半月ぶりの浴槽。なんだかんだいったってわが家はいいな~。

パスポートと各安航空券とわずかなお金をギュッと握りしめての初渡航。まったく予定を立てない無駄の多い旅行だったが、その無駄さ加減が魅力的で、それなりに充実していた。これからも、より一層、無駄を充実させよう。若い頃を思い出しながら、いま、そう思う。

(日曜映画批評:衣川正和 🌱kinugawa)

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