【音楽評】 寒川晶子〈ド音ピアノ〉ド音という停止でも前進でもない多音、そして七里圭作品
七里圭監督が〈音から作る映画〉の一環として製作した『サロメの娘』。
音から作るとは、文字通り、はじめに音があり映像が後にある、という意味だ。
通常ならはじめに映像があり、その後に劇伴が制作される。劇映画に限らず、テレビドラマやドキュメンタリー作品でも、音楽は後にくる。
ところが、七里圭監督はそのことに疑問、いや、疑問というよりも違和感を覚えた。映画にはサイレントからトーキーという歴史があるのだが、いつの間にか音は映像に凭れかかり、その結果として映像に回収されるようになった。
いや、そんな単純なことではない。それは「後先」の問題というよりも、映像において、「音とは何か」、という映画の根源を問うものだ。
たとえば、音をある種の自立したものとして呈示するとどうなるのか。それが〈音から作る映画〉として結実したのが『サロメの娘』である。
だが、ここでは七里監督作品について深入りすることはしない。他の稿で考察したいと思う。
〈音から作る映画〉の話を耳にしたとき、ピアニスト寒川晶子のことが咄嗟に思い浮かんだ。それは、寒川晶子は音楽の構成要素、音楽の元素ともいえる音素そのものへの興味を抱いた音楽家だからである。
音素といっても、音素の流れとしての音列や、音素の集合体としての和声ではなく、ある〈一音〉への偏執的興味である。彼女のような〈一音〉に拘るパラノイア的音楽家はこれまでにいただろうか。音程を基準音からわずかにずらす微分音ならば現代音楽においては教科書的になっているけれど、〈一音〉への傾倒というのをわたしは知らない。
七里圭『サロメの娘』の音の中に、ある音素があることに気づいた。音自体の存在の揺るぎない持続。それは素材としての音なのだけれど、定位置にあるというのでも、前進という時間の推移でもない音素。そこからイメージが創出される現場、ある種の共犯関係を要請されるような音と映像の共創の現場に、『サロメの娘』を見る者は遭遇するのだ。
〈音から作る映画〉のクレジットに寒川晶子の名を発見し、なるほどと納得した。
わたしと〈一音〉の呈示者である寒川晶子との出会いは偶然だった。
あのときの音の体験をどのように表現すればいいのだろうか。音がにじむといえばいいのか、それとも音の粒子が、あたかも霧のように空間に広がるといえばいいのか。いや、もう少しわたしたちの身体に引きつけて、耳元でのこそばゆいような寝息、と表現すればいいだろうか。
それは2016年9月、京都ロームシアターで開催された寒川晶子ピアノコンサートのことである。 寒川晶子が考案した〈ド音ピアノ〉による演奏会である。
ピアノの鍵盤上に配置された「ド」から「シ」までの12音。わたしたちが通常耳にする楽曲には、この12音が均等に割りあてられており、12音により構成された時間進行を音楽だとわたしたちは理解している。そして、その音律を平均律と呼ぶのだということも知識として知っている。
だが、実際の演奏では、「ド♯」と「レ♭」は必ずしも同じ音(鍵盤楽器は例外だが)とはかぎらない。とりわけ、ルネッサンスや中世の、平均律が確立する前の西欧音楽ではそれが自明のことであった。和声的(つまり耳的)に考えると、その方が調和……(調和とは怪しげな用語だこと)……のある響きがするのだ。
残念なことに、子どもの頃から音痴の烙印を押されてきたわたしにそこまでの聴力と繊細な音認識感覚があるのかは怪しいけれど、近年のピリオド奏法による演奏を耳にすると、響の心地良さを感じることは確かだ。耳への浸透圧が違うのだ。
そういう意味では、平均律は音楽の構成要件としては重要なのだが、必要条件ではない。平均律から解放された方が、耳に心地良いこともあるだろう。
平均律の発見は、音楽の高度な構成を生み出し、文化における進化という文脈では貢献してきた。しかし、人間にとっての真の進化とは何か、という議論を押し進めれば、平均律が人間の進化に貢献したという見方は自明とは限らない。
平均律とは近代における制度のことであり、シモーヌ・ヴェーユの言を引用するまでもなく、その制度からこぼれ落ちてしまったもの、忘却されてしまったものの多さと、その豊穣さに気づくに違いない。
寒川晶子は、すべての鍵盤が「ド」のピアノがあったらどうだろうかと考えたという。
正確には、すべての鍵盤を、「ド」から「ド♯」の音に割りあてたら、ということである。
「ド」の鍵盤に「ド」、「シ」の鍵盤に「ド♯」、その間の10の鍵盤に、「ド」と「ド♯」の間の分割音(これを微分音というのだろうか)を割りあてる。
すべての鍵盤が「ド音」なのだが、二つとして同じ「ド音」はない。これがド音ピアノである。
アフタートークでの寒川晶子の話によると、彼女は小学生の習字の時間、墨がうまく擦れなくて、完全な黒にならなかったという。白ではないけれど黒でもない……これはムーミンの作家トーベ・ヤンソンの好む世界だ……。墨を擦りながら書いた文字には、白から黒へと移行するグラデーションがあったという。そのことが頭から離れず、それをピアノで表現できないかと、調律師と試行錯誤して作り出したのが〈ド音ピアノ〉である。
市販のピアノをド音ピアノに調律し、微分音に満たされたピアノに作り変える。相当に無理な調律だと思うのだが、その無理さ加減が、独特の、ある意味不完全な音の響き生み出すのだ。
ただこの場合の不完全とは、欧米的の近代の思考において不完全ということであり、民族楽器において、微分音は少しも不思議な調律音ではない。
たとえば雅楽。平均律的に照らし合わせれば微妙に音がずれており、そこから奏でられる和音は不協和音となる。だが、わたしたちの日常的な環境音を基準に考えれば、それは自然な、ある意味自立した音である。研ぎ澄まされた、と表現すればより的確だろうか。
それとは逆に、平均律の発見は、音楽〈である/でない〉、ときに〈文明/非文明〉という思考を作り出し、境界・差別を生み出した。そのことで、音楽にとどまらず、文化の領域をも狭めることにもなった。
ド音ピアノで奏でられる音空間。そこでは、協和音とか不協和音という概念は無化される。というよりも、和音という感覚すら無効である。
ドビュッシーの響きのようでもあるし、波や風の自然音のようでもある。ドビュッシーは和音を基調とするのだから、「和音という感覚すらない」というのは矛盾するようだけれど、ドビュッシーの楽曲を耳にしたとき、わたしたちは響をアプリオリに意識する。けれど、和音という概念がわたしたちの耳に先行することはない。和音はあくまでも理論という基調にとどまり、ドビュッシーの楽曲は自然な響としてわたしたちの前に広がる。
ド音ピアノによる演奏は音楽ですらないかもしれない。七里圭監督作品でもわかるように、演奏者(寒川晶子)は、音楽として演奏しているのではないように思える。音の詩であったり、わたしたちをとりまく背景音であったりと、文化や自然を区別することすら無意味であるように思える。音は「そこ」にあり、それだけでしかない。
「そこ」にあるという一点において、ド音ピアノは音楽となることの前にとどまっている。
実は、ド音ピアノの演奏会を聴きながら、ジョン・ケージの「六つのメロディー」を思い出した。わたしはレコード《a Prospect of Contemporary Violin Music》(バイオリン:ポール・スーコフスキー、ピアノ:高橋悠治)を愛聴していたことがあったのだが、寒川晶子の奏でるド音ピアノは「六つのメロディー」のようだと思った。この曲はジョン・ケージという名で思い浮かべる、あの騒音のような音の洪水ではない。音を「そこ」に置くということであり、持続でも切断でもないバイオリンの微分音と、前進しているのか後退しているのか判別できないようなピアノ音による楽曲進行である。それはまさしく、ド音ピアノの音階と相似(同じという意味ではない)をなしている。進んではいけない、ここに止まれ、そこの存在であれ。そう言っているようでもある。
「六つのメロディー」の楽譜がどのような表記なのかは知らないが、ピアニストの高橋悠治の楽曲解説によると、「ヴァイオリンとピアノの一方または両方をつかう合音や単音の表による〈伴奏なしの〉メロディー」とある。近代的文脈から見れば、この解説の整合性は何なのかとも思うかもしれないが、制度という近代化により見えなくなったものを掬い上げる行為としての音の創成は、整合性などという近代すら無効にする。
「制度は完全だが人間は不完全だ」。これは、ドイツの映画監督ファスビンダーが、『ヴェロニカ・フォスのあこがれ』で、麻酔科医のアヒムに言わせた台詞なのだが、不完全なものに耳を傾ける営為、あるいは不完全なものへの感性の傾斜は、現在となっては麻酔科医の領域になっているのだろうか。
寒川晶子が、共演者としてアクースモニウムの檜垣智也と織機演奏家の伊藤悟を指定したのも、至極当然のことのように思えた。
寒川晶子が自己の楽曲「〜霞弦〜かげん」にそえた詩に次の一節がある。
「どこまでも薄い膜の隙間から 遠くをみつめている (中略) 膜は破ることもできそうだけど このまま見る景色が綺麗だからこのままで」
「このままで」あること、それが〈ド音ピアノ〉なのである。
(日曜映画批評家:衣川正和🌱kinugawa)
ロームシアター京都《寒川晶子「ド音ピアノ」コンサート》解説ーYouTubeー
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