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パフォーマンス・音楽・アートの扉_culture

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身体という物質性、知覚の直接性に興味があります。 目と耳、そして皮膚感覚。 それら刺激に満ちた世界。
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2021年1月の記事一覧

【演劇評】 《あいちトリエンナーレ2019》ドラ・ガルシア〈レクチャーパフォーマンス『ロミオ』〉、ミロ・ラウ(IIPM)+CAMPO『5つのやさしい小品』について

《あいちトリエンナーレ2019》(以下《あいトリ》と略す) 《あいトリ》は2019年で幕を閉じ、2022年から名称を《国際芸術祭『あいち2022』》に変更され、新監督に片岡真美が就任。新生の芸術祭としてスタートを切ることになった。 《あいトリ》最後の開催となった2019年《パフォーミングアーツ『情の時代』》。 演劇祭として不幸な幕となった2019年であった。政治的圧力、右翼からの襲撃と脅迫、それに同調するかのような右派政治家の発言、世論の不穏な動き等々、記憶に留めておくべ

【演劇評】 ドイツのパフォーマンス集団 She She Pop『春の祭典 She She Popとその母親たちによる』 〈儀式〉により母と子の相克は救済されるのか

まずはパフォーマンス集団〈She She Pop〉を外観しておこう。 1990年代にギーセン大学応用演劇科専攻の卒業生によって結成されたドイツのパフォーマンス集団。 演出家、脚本家、俳優といった役割をあえておかず、創作は常にメンバー共同で行うスタイルをとる。メンバーのほとんどが女性で、メンバー相互のキャッチボールによる「動」としての集団創作というコレクティブワークを主体としている。 そこにあるのは、一人称で語ることの限界・不可能性から脱却した、複数で語ることのセクシーさと

【音楽評】 寒川晶子〈ド音ピアノ〉ド音という停止でも前進でもない多音、そして七里圭作品

七里圭監督が〈音から作る映画〉の一環として製作した『サロメの娘』。 音から作るとは、文字通り、はじめに音があり映像が後にある、という意味だ。 通常ならはじめに映像があり、その後に劇伴が制作される。劇映画に限らず、テレビドラマやドキュメンタリー作品でも、音楽は後にくる。 ところが、七里圭監督はそのことに疑問、いや、疑問というよりも違和感を覚えた。映画にはサイレントからトーキーという歴史があるのだが、いつの間にか音は映像に凭れかかり、その結果として映像に回収されるようになった。