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喫茶ライスシャワーの懺悔室~米田雫の福音書~17話

「どうやらゆいかちゃん達、やり直すみたいです」

 僕はライスシャワーでカウンター越しにお皿を拭く雫さんにそう報告した。
後日、僕の携帯にゆいかちゃんからの連絡が来た。あの後家族で真剣に話し合い、一先ず離婚はせず続けることになったらしい。
 アブラハムの寓話の様に治郎は金を奪いに行った。僕から、そして親と言うファラオから。結局は奪えるものなど何もなく、彼はアブラハムにはなれなかった。それはきっとゆいかちゃんが妹ではあったが伴侶ではなく、結局、心は元の家族の傍にあったからだ。

「それは良かったですね」

 短いが、微笑みを伴った優しい一言に僕の心も軽くなる。

「一郎さんの最初の息子の治郎さんは母親に引き取られて以降連絡もなく、碌な人生を送ってなかったようでやくざの下っ端みたいなことしてたと。それで金が無くなって今回のことを……というのはゆいかちゃんのお父さんからの話です。今は更生させるために知人の山奥の寺に入れて偶に様子を見に行くそうです。『あれでも俺の子ですから』と」

 一郎さんは元々空手道場の経営をしていて、そこから別の商売を始めたようだ。それが知人に金を貸したことが元で借金経営に変わってしまい夫婦仲が険悪になったという。しかし今回のことで色々反省し、もう少し頑張ってみることにしたそうだ。
 僕の説明を聞いていた雫さんは全てを聞き終えたあと、珈琲を出しつつこう答えた。

「絆とは切ろうと思っても簡単に切れる物ではありません。よしにつけ悪しきにつけ、それが縁というものでしょうから。後は彼女たちの幸福を祈りましょう」
「そうですね……」

 これからが大変だろうが、それはもう彼女の物語だ。僕はせいぜい話を聞くくらいしか出来ないだろう。
 何気なく、僕は話題を移した。気になったことが一個だけあったからだ。

「そういえば今回は、あの部屋、一人で使ったんですよね」

 あの部屋、懺悔室の方を僕は見つめる。
 いつもは二人で、罪を告白する神聖な場――だと思っている懺悔室(あのへや)。

「ええ、それがゆいかちゃんの為でしょうから」
「ゆいかちゃんの為?」
「はい。彼女が罪を告白する相手は神ではなく、彼女の親であるべきです。あの部屋で私がその罪を聞いてしまえばそれを他人に漏らすことは叶いませんから。そしてそれは、解決の道を閉じることと同義です」

 なるほど。彼女は立場上、告解の内容を他人に漏らすことは出来ない。しかし解決する為には彼女の両親にこのことを伝えなければならない。だから彼女は敢えてゆいかちゃんを一人にしなければならなかった、ということか。
 さて、後は最も聞き辛いことを僕は言わねばならなかった。

「あの」
「はい」
「僕、その……レンタル彼氏を辞めようかと思っています」
「……お嫌になりましたか?」
「いえ、いつか辞めないととは思っていたんです。今回のは切っ掛けで、大学を卒業するまでのどこかでは辞めないと駄目だと考えていました」
「はい」
「あの、それでですね……」

 そこから言葉が上手く出てこない。言わないと、と思っていた言葉がなかなか紡げないまま、僕らは見つめ合う。

「あの、最後のお客様に――なっていただけませんか?」
「え?」

 言ってしまってから汗が背中に噴き出す。もう引き返せない。

「あ、あのお礼です! お代は結構ですから、その、あまり外にもでないとおっしゃっていたので、それなら僕が色々案内をと……」

 彼女は一言発し口を軽く開けたまま僕を見ている。

「あ、あのお嫌でしたら、その本当に……」
「……」

 彼女はふと天井を見上げた。そして祈るような所作をし、瞳を閉じた。

「――怖いのです」
「え?」
「外が、怖いのです。私は」

 彼女はまだ、瞳を閉じている。

「それは……嫌だ、ということですか?」

 落胆と戸惑いが僕の中に渦巻く。

「……いえ、これは私の問題で、決して礼人さんが悪いということではありません。私はほとんどをここで過ごすだけの、臆病者ですから」
「臆病者だなんて、そんな……」

 僕の為にあれだけの激情を見せた姿からは大分かけ離れた印象を受ける。

「真実です。実は私はここに住み始めて以来、このお店の周囲以外にほとんど出たことがありません。礼人さんのデートはきっと楽しいものになると思います。それは貴方が他人の為に尽くし、幸福を願える人だから。それでも――私はここでしか足掻けない、しがない虫なのです。ネットで買い物が出来る便利な世の中でもなかったら私はとうにここで朽ち果てています。人から施され、人によって生かされているだけの囚われ人。それが、私なのです」

 とてもそんな引きこもりのような人間には見えない。学もあり、社交性も僕よりあるだろう。それでもどうして……。

「本当は、助けに行きたかった」
「!」

「貴方をその場に赴いてお助けするのが、筋でした。それでも私はここへ彼を呼び出すしかなかった。私が、臆病者だから」
「そんなことありません! そんなわけ……ないじゃないですか」

 彼女は最善を尽くしたはずだ。でなければ僕はもっと困ったことになっていたに違いない。ゆいかちゃんだって救われなかったはずだ。

「ご自分を卑下なさらないで下さい! 貴方がいたから……貴方がいたから僕は」

 駄目だ。この言葉はきっと彼女に届かない。普通の言葉で届くなら、聡明な彼女ならとっくに自分を変え、乗り越えていたはずだ。でも、どうすればいい? どんな言葉なら彼女を――。

「……私は、行けなかったのです」

 彼女の閉じられた瞳から一滴の涙が零れ落ちていく。

「行きたかった――あそこへ」

 繰り返し聞きながら気付いた。彼女のその言葉は、僕に向けられたものではないことに。もっと別の、どこか遠くにあると。その姿を見つめながら僕は一つの気持ちに辿り着いていた。僕は踏み出す。そして、彼女の祈る手を取った。

「――」
「そのまま、僕を信じて下さい」

 僕は彼女の手を取り、ゆっくりと玄関まで歩んでいく。彼女も僕の意図を理解しているのか、まだ抵抗はない。しかし、ある一定の距離を進んだところで彼女の歩みは止まる。そう、玄関のところで。

「どこまでだって行けます。僕が、案内します。貴方の瞳が閉じたままでも」

 心をたとえ閉ざしていたとしても、きっと。

「貴方の為ならどこまでだって、どの地にさえも送り届けて差し上げます。貴方を必ず――」

 次の言葉を口にするか、一瞬だけ躊躇う。言ったら引き返せない。それでも僕は行った。

「守ります」
 その時、彼女の瞳が開いた。蒼い瞳が僕をじっと見つめている。そして――。

「――いつになりますか?」
「え?」
「いつが、ご都合が宜しいでしょうか?」

 彼女の瞳はもう潤んではいなかった。微笑みをたたえたまま僕の手を握り返してくる。

「い、いつでも!」
「それでしたら――」

 僕は心に羽が生えたようにその日一日、空の上を飛んでいるような気持ちで帰路に着いた。

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