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喫茶ライスシャワーの懺悔室~米田雫の福音書~ 15話

「ふざけとんのか!」

 パンチが拳を叩き、勢いあまり、卓の上のカップが揺れる。パンチが激高するのは立場が違えど分かる。馬鹿にされていると思ったのだろう。僕を美人局に引っかけた張本人に対してなんと挑発的な、と取られても仕方ない。

「お聴きになる、約束です」

 睨み返されても彼女は意志を曲げない。じっと、彼の目を見つめている。

「……どうなるか覚えとけや」
 恨みがましくそう呟くとパンチは腕を組み、眉間に皺を寄せガンを飛ばしながら今度こそ黙った。
「それでは、お話ししましょうか。人類初と思われる美人局――アブラハム達の話を」
     
「創世記12章、彼がエジプトを訪れた際に彼は自分の妻に言います。この地は危険だから私の妹の振りをしてくれ、と」
「長うなるなら待たんぞ?」
「搔い摘みます。ご容赦を」

 苛立ちを隠さない相手に彼女は冷静に言葉を返す。

「そしてその美しい妻のサラはエジプトのファラオの目に留まります。そして妻に迎え入れたいと彼に申し出、それは受け入れられました」
「え!? 自分の妻を、ですか?」
「はい。彼は自分の妻をファラオに差し出したのです。自らの『妹』だと偽ったまま、です」

 何とも言えない気持ちになった。現代倫理と古代のそれでは差があるだろうけど、俄かには信じ難い。僕は愛する人間を他の誰かに差し出す様な真似は出来ない。

「妹と偽った、と言いましたが、実際に血も繋がっている妹であり、近親婚でもあります。妹であり、妻でもあるので厳密には嘘ではないかもしれませんが、それでも褒められたことではないでしょうね」

 その通りだと思う。僕個人としては流石に人としてどうか、という思いが禁じえない。

「そして、神(ヤハヴェ)が介入し、ファラオは病気に罹患します。おそらくは――まあ、して、しまったからでしょう」

 妻のサラは病気持ちだった、ということか。金を取られた上に病気まで移されては災難以外の何物でもない。

「……あの」

 先ほどまで黙っていたゆいかちゃんがここで初めて口を開いた。

「はい。何でしょうか?」
「おい、お前は黙って……」

 彼女の発言を遮ろうとしたパンチに雫さんが手を上げ制する。

「お話を聞きましょう。お願いいたします」
「……」

 そこで完全にパンチはむくれたように黙った。好きにしろ、とばかりにそっぽを向く。

「……どうして、そんなことを?」
「奪うためです」

 短く端的な回答が返ってきた。

「奪う……」
「奪う、それ自体が目的であり、動機です。当時、ユダヤ人――この場合ユダヤマフィア、と言い換えましょうか。ユダヤ人は公的な職業に付けませんでした。ですから裏のビジネスに手を染め、こういったことを日常的に行っていたのかもしれません。ですからそれを物語の中に描かれた、とも考えられます」

 アブラハムが下っ端のポン引き、妻のサラが美人局、神様がケツ持ちのヤクザ、ということか。何とも厭らしいトライアングルだ。でもそれって……。

「なんや、自分のこと悪う言われてる気がするで」

 そう、パンチにも当てはまるだろう。

「そう聞こえたのでしたら、申し訳ございません」

 もう雫さんの言葉に彼は反応すら示さない。ただ苦々しい目を向けるだけだ。

「ゆいかさん」
「は、はい!」

 いきなり名前を呼ばれて彼女は背筋を伸ばした。

「アブラハムはただ、奪う。妻の尊厳を、大事な者の尊厳を奪い、ただ奪うことのみに専心します。そこに、愛はありません」
「あ……愛?」
「愛です。妻とは名ばかりの商品。他人に売って、回収するだけの物。そしてそれは、ずっと『妹』を『妻と言う商売女』として『身分を偽ったまま』の都合の良い何か――」

 そこまでの話を聞いて、ゆいかちゃんは突然気分が悪くなったのか崩れ落ちた。

「ゆいかちゃん!?」

 誰よりも素早く動いたのは雫さんだった。席から離れ、彼女を支える。

「おう、お前が変なことを言うからゆいかが……」
「大丈夫ですか?」
「……は……いや、ううん」
「ゆいかさん、奥の間に行きましょう。あそこは涼しいです。お茶をお持ちします」

 奥の間――。雫さんは素早く彼女の肩を担ぎ一緒に奥へと――懺悔室へと消えていった。

「ふん、まあ病院代は後で請求させて貰うで?」
「……好きにしてください」

 答えるのも面倒だ。大体このアブラハム――パンチのせいだというのに。

「お待たせしました」

 暫くして雫さんが戻ってきた。

「奥の間で横になって貰っています。あそこは涼しく、考えをまとめるのにとても適した――」
「あ――――もうたくさんや!」

 そこまで聞いてパンチが吼えた。

「ああ? くっだらない話は仕舞いか? くっだらん聖書の朗読も終わったならとっとと貰って帰るぞ、ええな!?」
「……こらえ性のないお方ですね」
「あ?」

 目の前で火花が散った。他人と争うことなど皆無に見えた雫さんから仄かに立ち上る何かを感じ、僕は彼女から目が離せなくなる。こんな、激しい何かを持っているとは思わなかったからだ。

「……ねえちゃん、案外夜の町でもいけるで。そういう二面性のある女は受けるもんや」

 無言でその軽口を受け流す彼女の口は真一文字に閉じられ、決して引くつもりはないという意思表示に見えた。

「……私は昔、貴方のような方に奪われたことがあります。大切な人を」

『大切な』の部分に彼女の強い意志を感じた。彼女の顔は蒼褪めて微かに肩も手も震えているように見えるがそれでもそれに耐えるかのように顔を逸らさない。その言葉には深い悲しみと、強い憤りを含んでいることがよくわかった。

「横暴で、他人から奪うことでしか生きられないような方の犠牲者を増やしたいとは思いません」
「はっ! それがさっきのくっだらないおとぎ話と何の関係があるんや! いい加減付き合っとられんわ!」

 そう言うと彼は雫さんの胸倉を掴んだ。
 目の前が真っ赤になった。――こいつ――!

「手を出してはいけません。こういう、人なのです」

 掴みかかろうとした僕を涼やかな声が押し留めた。

「言っても通じません。ただ、哀れむしか出来ない。そういう方もいるのです」

 もう彼女からは激情は去っていた。一刻の――ことだったのだろう。彼女の大切な人――その存在に対しての深い愛情がそのまま悲しみに転嫁したのだと、僕は理解する。

「意識してかせずか、彼はこういう生き方でしか他人を計れない。他人を陥れ、他人に頼り、奪う。その為にすべての言動が収斂しています。すべては、見せかけ(ポーズ)なのです」

 パンチは彼女の胸倉を掴んだまま苦々しい表情のまま固まっている。図星なのだ。

「アブラハムも同じです。彼は妻から尊厳を、ファラオからは財を奪いました。そして彼は悪びれることなく似たようなことを繰り返します。それが彼という存在なのです」

 そこまで言うと彼女は彼に包みを差し出した。

「どうぞ、お持ちください」
「……はっ。ようやくかいな」
「雫さん!?」

 止めようとした僕を雫さんが制する。

「ただゆいかさんがまだお休みになられておられます。もうしばらくこの場でお待ちください」
「あーはいはい。じゃあ適当に何か酒でも持って来てくれや」

 話を聞いているのかいないのか彼は上機嫌で包みを開け、中を確認し始めた。

「おお!」

 中からは本当に札束が出てきて僕は目を見開いた。

「し、雫さん! あれ……」
「はい、本物ですが」

 何事も無さそうにそういう彼女に僕は驚きを禁じ得ない。

「どうして……」

 それ以上の言葉を僕は言えなかった。申し訳ないという気持ちしか湧き上がってこない。もう二度と、このライスシャワーの玄関をくぐれない。そんな想いしか――。

「御心配には及びません。主は――貴方をお見捨てになどならないでしょう」

 僕を安心させるように彼女の声は優しく囁く。それがまるで、悪魔の誘惑に聞こえた気がする。
 それから暫くして、札束を数え終わった彼が声を上げた。

「おい! ゆいかまだか? 帰るで!」

 奥の懺悔室からは返事はない。

「おい! 出てこいや!」

 扉の前に行き、彼はドンドン、とそれを打ち鳴らす。

「おい姉ちゃん、鍵はどこや?」
「ありません。鍵は中からしか掛けられないようになっていますので」
「なんやと!?」

 それでは中に閉じこもったら開けられない、ということか? 安全面的にどうなんだろうか? という疑問を持ったが、それ以前としてつまり、彼女――ゆいかちゃんが鍵を掛けて閉じこもっている、ということだろうか?

「おい、ゆいか! 開けろ!」
「……大丈夫でしょうか。体調悪そうにしてたから中で、もしかして」

 嫌な予感がした僕は雫さんに訊ねる。

「大丈夫でしょう。それに、いざとなったら扉ごと外せますし」
「いえ、そういうことではなく……」
「大丈夫です。ここで出てこないことは――福音です」
「え?」
「おい!」

 パンチがこちらに詰め寄ってきた。

「何とかしろや! お前がここの店主やろうが! 客を閉じ込めて何しとんのや!」
「わかりました」

 それだけ言うと彼女は扉に向かう。

「ゆいかさん」

 聞いているのか聞いていないのか分からない。しかし彼女はゆいかちゃんに向かって語り掛ける。

「彼とのデートは、楽しかったですか?」

 予想外の質問を彼女はした。思わず僕とパンチが同時に変な声を出してしまう。

「兼平礼人さんとのデート、仮初とはいえ、彼の真心を受けてどう思われましたか?」

 彼女はパンチに向けたのとは違う、いつもの、いやいつも以上に優しい声で彼女に語る。

「それが、心から楽しかったのならその方向へと進むべきなのです。それが貴方の真実、貴方の答えなのです。忘れてはいけませんよ」

 何のことを言っているのだろう? そう思った時だった。店の玄関から鐘の音が聞こえたのは。
 そこから現れた人物に皆が注目する。一組の男女。方やスーツに眼鏡の皴の深い気難しそうな少し歳のいった初老の男性、もう一方はブランドというほどでもないが、髪も短くまとめられ、小奇麗な格好をしてた中年の女性で――。

「てええええええめええええええええええええ!」
「あ!」

 いきなりパンチは雫さんに躍りかかり首を絞めた。僕は思わず手を――。

「ぐあ!」

 僕が手を伸ばすより早く、もう一人の手が彼を引き剥がした。スーツの男性だった。
 彼はダッシュであっという間に間合いを詰め、そのままパンチを引き摺り倒し、床に圧しつける。

「……お前か、治郎」
「……が、は、放せ!」

 治郎とはパンチの名だろうか? 

「……ご迷惑をお掛けしました。お怪我はありませんか?」

 紳士然としたそのスーツの男性は雫さんに声を掛ける。

「……ごほっ。ええ、大丈夫、です」

 喉を押さえながらも雫さんは笑みを浮かべる。

「ご、誤解や! わいはゆいかに東京観光させとっただけや! それでこの男がゆいかに悪さしようとしたからやな……」
「黙れ」
「ふぎゅる!?」

 にべもなく彼は床に頭を打ち付けられる。

「いいからとっととついて来い。お前はこの場に相応しくない」

 そう言うと彼は手際よく彼を後ろ手に縛り、店の玄関から出て行ってしまった。
 あまりにも唐突な事態の推移に僕は何を口にしたらいいのか分からず、瞳を泳がせるしか出来なかった。

「もう、出てきても結構ですよ」

 雫さんが扉に向けてそう言うと、その重い扉は漸く開け放たれた。

「ゆいか!」

 彼女の姿を認めた中年女性が彼女に駆け寄り、抱きしめる。

「……お母さん」

 ぽつり、と漏らすようにゆいかちゃんが呟いた。

 ――母親、なのか?

「馬鹿! 何で勝手に出て行ったの! 心配したじゃない!」

 彼女は涙を流しながらゆいかちゃんを抱きしめる。何となく、僕にも事態は飲み込めてきた。

「あの……もしかしてゆいかちゃんは」
「ええ、家出していたそうです。関東圏ですのでご家族が来て頂けるまでの時間が短かったのが幸いでした。もう少し遠いところからでしたらもっと時間を稼がないといけませんでしたから」

 事も無げに雫さんは答えるが、あの短い時間の間にどうやって連絡を取ったのか、その方法が僕には分からなかった。その疑問に先回りする様に、彼女は言葉を続ける。

「簡単ですよ。ゆいかちゃんが電話をしたのです。あの、懺悔室から」
「え!?」

 彼女が休んでいたはずの懺悔室の中――その扉の隙間から見える床に、ライスシャワーの備え付けの電話の子機が転がっているのが見えた。

「彼女が――自分の意志で?」
「はい。自らの意志でご家族に連絡を取ったのです」
「そうか、母親に――」
「ええ――」

 しかし、次の言葉は僕の意想外だった。

「本当の、ご両親に、です」

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