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牛乳の歴史

飛鳥時代に日本へやってきた牛乳

公式には、6世紀の中頃に百済から伝わったとされる仏教。
多くの渡来人が日本にもたらした大陸文化の中に、牛乳の飲用があった。
智聡という人物が所持していた『神農本草経集注』にその薬効や乳牛飼育法が書かれており、どうやら最初は薬の一種としての扱いだった模様。

智聡の子の善那(またの名を福常)が孝徳天皇に牛乳を献上し、医者として「和薬使主(やまとくすりのおみ)」の性を賜った。
彼はその後大化の改新を経て太政官典薬寮(今の厚生労働省)の中で乳長上(ちのおさのかみ)という職に就き、当時の京都の飛鳥近辺で搾乳や乳の加工の技術指導を行なった。

701年に制定された大宝律令では、公式に乳戸という名の酪農家が大和地方に置かれた。713年に山背国(京都府)に乳戸50戸が置かれ、牛乳や蘇を献上させている。718年には七道(東海、東山、北陸、山陰、山陽、南海、西海)諸国に蘇の貢納(貢蘇)が命じられているので、その頃には全国に牧場があったと想像できる。

「蘇」について。資料によると、原型は「牛乳を煮詰めて水分を飛ばして固形化させたもの」であるらしい。現在では無糖練乳が近いか。
後に江戸幕府8代将軍徳川吉宗はオランダ人の勧めで牛3頭を仕入れ、その牛乳を煮詰め乾燥させ、だんご状にした「白牛酪」を製造したが、製法を見るにこれは蘇に近いものかもしれない。


「牛乳は虚弱な体を改善し、蘇は内臓の働きをたすけ、大腸の通じを良くす」
『神農本草経集注』


「牛乳は全身の衰弱を補い、便通を良くし、皮膚をなめらかに美しくする」
『医心方』

藤原道長は病気になって熱が高かったのに、薬は用いなかった。それでも食欲が衰えなかったのは、蘇と蜜を練り合わせ加工したものを常に愛用していたからであろう。
『小右記』

武家政権の成立とともに衰退

飛鳥から平安末期にかけて貴族間で普及した牛乳や蘇などの乳製品だが、武士の勢いが盛んになってくる12世紀半ばには公式には廃れてきた。
地方の牧場は私有地化され、戦いに必要な軍馬の生産へと切り替えられていった。鎌倉末期や建武の新政期に貢蘇が行われた記録があるが、以降酪農は衰退する。

16世紀に宣教師がやってくると「日本人が牛肉、豚肉、羊を嫌い、牛乳は生き血と同じだと言って用いない。牛酪(バター)をつくる術も知らないのか、つくろうとしないのか、牛酪もない」と『日本西教史』にある。

江戸時代に入ってからも国策として表向きは4本足の獣食は禁じられ、その派生で牛乳の文化も廃れていた。が、今でも近江牛で有名な滋賀県は牛の飼育が盛んな場所であった。元禄期の頃より、近江彦根藩主の井伊家からは将軍家や御三家へ、牛肉の味噌漬けが薬用として毎年密かに献上されていた。

幕末には牛肉好きの水戸斉昭が1843年に医学館や薬園、養牛場を設けて牛酪をつくらせ、朝食に鶏卵と牛乳を食べていた。また牛乳と酒を混ぜ、砂糖を入れて温めた牛酒も愛飲した。とはいえ一般人は乳製品には縁がなく、ペリーが来航し艦内に招かれた役人たちが、パンに添えられたバターを極端に嫌っていた記述が見受けられる。

明治維新と牛乳

アメリカ貿易事務官のライスが函館で生活を始め、乳搾りの方法からレクチャーを始めた。気候が酪農に適していたこともあり、ここから酪農王国北海道の歴史が始まる。
伊豆下田では総領事ハリスが発病に伴い牛乳を所望した。「唐人お吉」のお吉がその所望を受けて、親しい農家の牛から乳を取り寄せたという逸話があるが、真偽のほどはわからない。

幕府の奥医師であった松本良順はオランダ軍医ポンペの講義を受け、当時最新の医学を学んだ。日本で最初の西洋式病院である長崎養生所をつくった彼は公衆衛生を基礎と考え、予防こそが大切であると考えた。余談だが新撰組に豚肉の摂取と清潔を保つことを勧めたのも彼である。
海水浴の推進や健康を保つ方法を説いた『養生法』の執筆など予防医学の普及に尽力した彼だが、その中に牛乳飲用を広めたことも含まれる。

「牛羊牧養に関する建白書」の提出や、当時人気の名優であった紀伊國屋・澤村田之助を吉原の妓楼に連れて行き、そこでひとこと「牛乳は美味しいですね」と言わせたなど実績は数知れない。食べたもので体はつくられるという、今日では当たり前の感覚をいち早く持っていた人物でもあると言える。

横浜でも千葉県出身の前田留吉がオランダ人スネルから学んだ牛の飼育と搾乳の知識を生かし、商売を始めた。
明治政府も富国強兵のために牛乳の普及が有効であると判断し、明治天皇も1871年より日に2回ずつ飲用を始めた。

前後するが1867年には、中川屋喜兵衛によってバターの広告が『萬国新聞紙』に掲載された。これは乳製品に限らず日本人による最初の新聞広告となった。彼は英国公使館の料理人を経て食品店を開いた人物である。ちなみにこの頃バターは「ボットル」とオランダ語で表されていた。

明治も中期以降になると、アメリカ文化のあおりを受けてミルクホールと呼ばれるおしゃれサロンも登場する。安価に軽食と牛乳などを提供し、主に学生街で流行した。

このようにして全国主要都市では同時多発的に西洋文化の受容、ひいては食文化の混合、牛乳の一般への浸透が始まった。ガラス製の哺乳分が「乳母いらず」として商品化されたのもこの頃である。

戦後、学校給食へ導入

1937年に日中戦争、1941年には太平洋戦争が始まり、日本の舵取りは泥沼化する。1945に終戦を迎えた当時、記録的な大凶作に海外からの復員、引揚者で約660万人の人口増加も相まって餓死者が後を絶たなかった。

アメリカで結成された日本向け救助団体「Licensed Agencies for Relief in Asia(アジア救済公認団体)」通称「ララ」。日本は膨大な食糧支援を受け、1947年から主要都市の児童300万人に対し、お湯で溶いた脱脂粉乳ち汁物の「給食」が開始された。

GHQは長い戦争において日本の子どもの発育悪化を懸念。食糧配給を検討し、その際東北大学の近藤正二博士に意見を聞いたという。動物性タンパク質の不足を補うことを第一と考えた博士は、小麦粉よりも牛乳の配給を優先させた。栄養豊富とはいえ、当時の脱脂粉乳は不味かったらしい。日本政府は1958年には国産牛乳提供を開始している。一般家庭での牛乳消費増加には、給食制度が大きく影響していたと言える。

後述

乳糖不耐症やカゼインが引き起こすといわれる腸管の炎症、アレルギーの原因など様々な逆風が吹く牛乳飲用。私自身も牛乳を飲み過ぎるとお腹を下すことがあるが、これはあくまで飲みすぎた場合。体は常に新陳代謝し、食べたもので体は成立している。その過程でどこかに偏りのある栄養摂取は避けるべきであるのは当然のことのように思える。牛乳に限らず、である。

「〜だけ食べれば健康は守られる」、「〜するだけで痩せられる」などという意味不明な触れ込みに懐疑の目をむけ、原理を知りバランス良く摂取することが大切なのではないだろうか。

中世にすっぽりと抜け落ちてしまった牛乳文化ではあったが、今日も私は牛乳を飲む。古代の王様に思いを馳せながら。



参考文献
吉田豊『牛乳と日本人』新宿書房
五味文彦・鳥海靖=編『新 もういちど読む山川日本史』山川出版社



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