言葉を綴ることとは。



私は昔からよく、断片的にも、継続的にも
自分から文章を書いてみる習慣があります。

私の場合、
自分自身の在処に気づくことの為に意識的に
言葉にすることを用いてきたように思います。

ただ
漠然と何かを言葉にしてみるって
本当に難しい。

まず何が難しいって
何かや誰かの為ではなくていい言葉を
自分に許し、そしてわざわざ見つけることが私には難しいようです。
こういうnoteのようなものに、特定の誰かに向けて何か意志をもって発信したいわけでもないのに、そんなようなことをやるってかなり腰が重いのです。
InstagramやTwitterのような短い文章で簡潔にインパクトのあるように!みたいな感じはとりわけ尻込みしてしまいます。
書いてる途中に、
で、これは一体誰のための何?って。
(仕事など技術の内容の説明などならまだ楽なのですが。)


次の難関が
思考という溢れんばかりの情報のカケラたちを
"文字にする"というところまでにすること。
自分にも見えるカタチを与えるということです。
幾何学模様のようなとっ散らかった思考という情報をピックアップしていく0から1にする作業は本当に根気がいります。そこまでくると思ってもなかったようなものが出来上がったりするのが不思議。これは自分のクリアリングにもよく用いられます。


言葉になったものってすごいエネルギーを持っている気がするんです。
毎日、目からも耳からも、故意にでもそうでなくても、外からの色々な言葉が自分の中を通り過ぎていくけれど
言葉というのはとても不思議で、"言葉というカタチ"を成しているものなので意外と細胞には残っていくものだと感じています。
きっと受け取らなくても良かった言葉が、思ったより細胞に残っていたりする。
そして身体や心に蓄積する。
普段は忘れていてもです。

もちろん自分から発された言葉もそうですね。
他者に、そして自分にも透明な大きな影響を与える。

だから
選ぶ言葉が素敵な人はとても良いな、そうしたいなと思います。想像力をどう使うかは大事にしたいことの1つです。


最近また本を読むようにしています。
子供の頃からかなり本を読んでいる方だとは思うのですが、それは大体が小説でした。物語の世界に入って大事な感情を見つけたいと思っていたんだと思います。
ですが最近は言葉が見せてくれる情景が見たくて本を読んでいる気がします。
最近、「偶然の散歩」(森田真生さん著)という素敵な本に出会いました。

最初から最後までハッとする言葉だらけだったのですが、最後の方の章に


"自分"の為に発されたのではない"声"が自分の生きることを支えている

というような言葉がありました。

それは
鳥の声で、朝が来たと知る。
乾いた空気に乗ったかすかな緑の香りで、春が来るのだと気づく。
などそういう声(言葉)の話です。

だから
今私が書いているこれも大した意味がないかもしれないけれど、
生きているということを言葉に変えて、ただただここに残してみる為にこの文章を書いてみてるのは
なんとなくいい気がしたので書き始めた次第です。


皆さんも、文章書くこと、ご一緒にいかがでしょうか。
私はそれにとっても興味があります。
是非。

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