ヒースの言う「哲学の規範」を受け入れて安全に哲学する方法を考える(考えたい)


ジョセフ・ヒースが、キャンセル・カルチャーが哲学の規範との相性が悪いことを指摘し、哲学者はもっとキャンセルカルチャーを懸念すべきだ、と主張してる記事が翻訳されて、X上で少し話題になってた。

その中で以下のような文章がある。

以下で述べるもののいくつかは、同業者の中で最も政治的に正しい部類の人すら、現在の事態が行き過ぎていることに同意するほど明白なものだ。例えば、子どもがJAQ off(just asking questions) [1] と呼ぶような質問に関して、哲学では非常に高いレベルの寛容さが制度化されていることを、ほとんどの哲学者は認めている。そのため、こうした寛容さを排除しようとするオンライン文化での動きは、哲学という分野にとって直接的な脅威である。「ヴィーガンであると同時にプロチョイス(中絶権利擁護派)であることは、あなたの中でどう両立しているのですか?」といった質問は、オンライン上では荒らしに見えるだろうが、哲学においてこうした質問をすることは完璧に理に適っている。

これを笑い事だと思ってそうなポストもあったが、笑い事ではない。笑い事でないと私が考えているのは、ヒースとは逆方向で私がある懸念を持っているからだ。その懸念は、ヒースの指摘する哲学における規範が哲学者の道徳的な悪質さ、哲学的議論の道徳的な有害さを隠すことに貢献している、という点にある。
なお、ヒースが指摘する哲学の規範とは次の3つである。

  1. 道徳的・政治的問題の議論における感情的中立性(affective neutrality)

  2. 他人の議論を再構成して提示すること

  3. 用語の規約的定義(Stipulative definition)

上記の懸念の表明だけでは、私が、ヒースがまさに批判したい、哲学の(良き)規範を脅かしてる側に見えると思う。私は、ヒースが言及している哲学の規範が認識的に良き規範であることを否定するつもりはあまりない。

私は以下で、哲学の規範が道徳的に悪い規範でありうるし実際に悪くなってると主張するつもりである。おそらくヒースも私の意見を否定することはないと思う。私とヒースの違いは、哲学者をどれほど専門家とみなし、この規範を実際に守ることができていると考えるか、その評価の違いにあると思う(自信はないが)。この違いは以下の議論からなんとなくわかってくれれば幸いである。
私は哲学のこの認識的に良い規範を、道徳的に望ましい仕方で運用する方法を考えたい。そのためにまず上記のヴィーガンのケースから考えよう。

「ヴィーガンであると同時にプロチョイスであること」を質問するということ

私はこの件について次のようにツイートした。

まず先に言えば、単に「ヴィーガンであると同時にプロチョイス(中絶権利擁護派)であることは、あなたの中でどう両立しているのですか?」と、これ以上でも以下でもない質問をするだけなら、完璧に理にかなっているとは言い難い。「どう両立しているのですか?」と聞くなら、どう両立しなさそうなのかを多少は示した上で質問するべきである。だから例えば、次のような論証を示すべきだ(これは哲学の規範2:議論の再構成をしていることになる)。

  1. ヴィーガンであるのは、ヒトだけでなく非ヒト動物の生命も尊重に値すると考えているからである。

  2. ヒトだけでなく非ヒト動物の生命も尊重するべきなのは、単に高度な知能を有していることだけでなく、生きている存在を尊重するべきであるからだ。

  3. 2より、生きている存在を尊重するべきである。

  4. 胎児は生命を有している、生きている存在である。

  5. 3,4より、胎児を尊重するべきである。

  6. 中絶は生命を尊重することに反するので、中絶をすべきでない。

ヴィーガンである理由から中絶反対の結論を出せたので、これによってプロチョイスでありながらヴィーガンであることが非整合的かもしれないという疑いが正当化されるだろう。こうした議論を(よりラフな仕方でもいいから)提示した上で、「ヴィーガンであると同時にプロチョイス(中絶権利擁護派)であることは、あなたの中でどう両立しているのですか?」と聞くなら、それは理にかなっている。
なお、上記の議論の3まで導出できれば、そこから「ヴィーガンでありながら植物を食べているのは、あなたの中でどう両立しているのですか?」と聞くのも理にかなっていることになる。

だが、完璧に、というほど理にかなっているとは思わない。特に前提1と2を与えれば、その後の議論はわりと妥当な推論だが、ここで重要なのは明らかに前提1と2である。たいていのヴィーガンは「非ヒト動物を食べてません」としか言ってないのにこの類の質問を受けるので、相手はヴィーガンである理由を先に質問せずに、勝手に前提1と2をヴィーガンが信じてると推定して質問している可能性が高い。

もう一個、別のタイプの論証も見ておく。

  1. ヴィーガンであるのは、ヒトだけでなく非ヒト動物も尊重に値すると考えているからである。

  2. ヒトだけでなく非ヒト動物も尊重するべきなのは、単に高度な知能を有していることだけでなく、痛みを感じる存在を尊重するべきであるからだ。

  3. 2より、痛みを感じる存在を尊重するべきである。

  4. 胎児は痛みを感じる。

  5. 3,4より、胎児を尊重するべきである。

  6. 中絶は胎児を尊重することに反するので、中絶をすべきでない。

これも同じく、3まで導出したうえで、4の「胎児」を「植物」に変えれば、「植物はどうなんですか?」と聞くのが理にかなっていることになる。

こっちの論証(を伴う質問)も完璧に理にかなっているとは言い難いことが多い。先ほど理由も聞かれずに質問されると述べたが、ときには理由を聞かれることもあり、そのときは「非ヒト動物が有感だ(快楽や苦痛、痛みを感じる)から」と答えてる。その答えを前提に、上記の論証を組み立てて提示しているのかもしれない。
だが明らかに前提4が問題である。前提4をヴィーガンはおそらく主張してない。なのに勝手に前提4を組み込んで提示し、質問してくる。

以上のような論証を伴っているとしても、勝手に前提を挿入して質問(ないし批判)することは、哲学の規範2:議論の再構成を十分に守れてない。相手の議論の再構成は、相手が言ったことだけに基づくべきであり、勝手に前提を導入してはならない。もし勝手に前提を導入するなら、まずその前提について確認するべきだ。ヒースによれば、哲学者はまさにその訓練を受けている。それについては私も部分的に同意する。だが実際に規範を守れているかどうかは話が別だ。

ヒースは、哲学者は実際にその規範も守れていると思っているかもしれない。だが上記のような仕方で「植物はどうなんですか?」と聞いてくるのは非哲学者に限らない。動物倫理について詳しくない哲学者もかなりの数で聞いてくる。勝手に前提を(暗示的に!)挿入し、質問してくる。はっきり言って、規範を守れているとは言い難い。

規範を遵守させる哲学教育は執筆部分で成功してる(かもしれない)

私は、哲学者らが論文中において規範を一定程度守ることができていることを否定しない。実際、相手の議論を優れた仕方で再構成するような論文は理想的な論文の一つだと思うし、そうした論文は多数ある。だがリアルタイムのコミュニケーションの場面でそれをするのは、かなりの強固な認知的・動機的コントロールを必要とする。私も大変苦労する。

論文執筆であっても認知的・動機的コントロールは必要になる。しかし論文は提出するまで何度も書き直すことができ、相手の主張が文書化されていれば何度でも読み返すことができるため、強固なコントロールは必要ない。だがリアルタイムのコミュニケーションではこのどちらの要素も成り立たない。

哲学者(ないし研究者手前)が訓練を受けているのは、あくまでも執筆においてであると私は思う。もちろん、リアルタイムの議論においてもそうした指導は入るだろうが、リアルタイムの議論でも規範を守るには、強固なコントロールができるようになるための全く別の心理的トレーニングが必要になるだろう。その種の心理的トレーニングは哲学教育では(少なくとも全体としては)行われてないと思う。(とはいえ私は正規の哲学教育を受けておらず、大学院の講義に少し顔を出したりゼミに参加したりした程度なので、ほんとのところはわからない。)

このことはヒースが指摘する規範の1や3とも関わる。私は論文中でそれらの規範が概ね守られていることは否定しない。だがリアルタイムのコミュニケーションにおいて「1. 道徳的・政治的問題の議論における感情的中立性」や「3. 用語の規約的定義」を守れているとは思わない。道徳や政治の議論で相手の論証の再構成に強固な認知的・動機的コントロールが必要なように、規範の1や3を守るにあたってもリアルタイムのコミュニケーションでは強固な認知的・動機的コントロールが必要になる。コントロールのためのリソースには限りがあるので、結果的に、規範は守られないことになる。

応用倫理学を研究している人なら、こうした経験に遭遇したことが何度もあるのではないだろうか。上記の規範を守っているのであればされないような質問を哲学者からもされたことはないだろうか。これに共感してくれる人がいることを願う。

そうであれば、ヒースの見立ては楽観的すぎる。規範はたしかにあるし、執筆においては守られている。リアルタイムであっても自分の発表に限れば準備できるため、規範を守ることができる。だがそれ以外の場面では、哲学者であっても規範を守ることができてない。哲学者はそうしたことを可能にする心理的訓練を受けてない。

ヒースはそんな主張してないが?

以上の私の議論は、ヒースに対してわら人形論法なのではないか、と言われるかもしれない。一部の議論はそうかも知れない。ヒースの記事の結論は以下のようになっている。

結論:強調しておきたいが、私が本稿で述べてきたのは、哲学という分野の規範である。こうした規範に違反したり、それを濫用したりする人々は存在する。なので、いかなる行動もこの哲学の規範を通じて正当化できる、と主張しているわけではない。このエントリで挙げたのは、哲学において広く普及している学問的規範に違反した行動を取っていないのに、キャンセルの標的となった研究者の例だ。もちろん、哲学においてもルールを厳しくして、これまでは許されていたような挑発的な議論の提示の仕方への寛容度を下げるべきだ、という主張もあり得る。私が懸念しているのはむしろ、この規範それ自体が脅威に晒されており、過去1世紀にわたって哲学研究が栄えるのを可能にした討議空間を保持することが、文脈崩壊によってますます困難になっていくのではないか、ということだ。

まず私がヒースに同意する点は、ヒースが記事中で言及した事例は、哲学者が規範を守っているのにキャンセルの標的となった例である、という点である。さらにヒースが「哲学においてもルールを厳しくして、これまでは許されていたような挑発的な議論の提示の仕方への寛容度を下げるべきだ、という主張もあり得る」と述べている点も同意する。

だが、私の批判はそれ以外についていくらか当てはまるだろう。まずヒースは、「過去1世紀にわたって哲学研究が栄えるのを可能にした討議空間」があるかのように述べているか、これが本当に存在していたのか疑問である。ヒースは一部の例をあげているだけなので、少なくともリアルタイムのコミュニケーションにおいて、この討議空間が本当にあったのかどうか疑わしい。
私が上述したように、特に応用倫理学ではそんな空間があるとは思えない。加えて、別の事例であるが、例えばフェミニスト的発表に対して「そんなのは哲学じゃない」などという主張がされるという証言を何度も聞いてきた。こうした事例は、倫理学、特に現実に即した応用倫理的なトピックにおいて、規範が守られているような討議空間がなかったことを示唆する。あるいは、「哲学研究が栄えるのを可能にした討議空間」があると思われるのは、そうして危害を被った人々を排除してきたからだ、という可能性も示唆する。実際にどうであるかを主張するにはより強い根拠が必要であり、これらも一部の例にすぎないが、ヒースの主張を疑う証拠にはなるだろう。

またヒースが言及している事例はリアルタイムのコミュニケーションであるが、私が述べたように、規範の遵守の訓練は基本的に執筆に関してなされるものである。討議空間についても、それが論文のやり取りの中でなされるのであれば存在してきただろうと思う。よってヒースは議論の対象(リアルタイムの発言なのか文面なのか)を適切なところに向けるべきだったと思う。

さらに、ヒースは「規範」を述べてきたと言ってるが、ヒースはかなり規範的な主張もしている。記事のタイトルは「哲学者がキャンセルカルチャーを懸念すべき(should)理由」であるし、結論部でも「私が懸念しているのは」と述べている。
さらに、そのような規範を肯定的に価値づけているように思われる。例えばヒースは次のように述べている。

私の印象では、今までのところ、大学内でイデオロギー的同調が高まる中、哲学科はドグマティズム(教条主義)から逃れた一種のオアシスであり続けてきている

私はヒースの主張について、論文のやり取りにおいてこの規範が遵守されるべきだし、遵守された場合にはこの規範が認識的に良い規範であることには同意する。またリアルタイムのコミュニケーションにおいても、この規範を適切に守ることができるなら、このような規範の存在が有効である可能性も否定しない。
だが、哲学者は、特に応用倫理的トピックに関して、リアルタイムのコミュニケーションにおいてこの規範の遵守に失敗している。ヒースも結論部分で留保しているものの、規範の遵守の成功例ばかりを提示し、それによってこの規範があたかも実際に良い効果をもたらしてると言いたげである。だが、この守れられてない規範が存在してるがために、それが悪い仕方で、不当な行為の正当化に役立ってしまっているように思われる。例えば、ヒースも言及している「JAQ off(just asking questions)」は、規範が適切に遵守されている世界では良いかもしれない。しかし、そうでない現実世界では危害的になる傾向にあるだろうし、変に規範だけが存在してるせいで、危害的ケースで「いや私は(規範にしたがって)単に質問してるだけだから」と自己正当化を許すことになっている。これでは良き規範にはならない。(こうした問題提起は、規則帰結主義の理想化における問題と似たよう感じになってるかもしれない。)

規範の遵守に成功する、安全な場所を設計する(したい)

私は、この規範が適切に遵守されている場合には、リアルタイムのコミュニケーションでも、この規範を遵守しながら「JAQ off(just asking questions)」をしてもいいと考えてる。その場合、規範を遵守することが現実的に可能なように、その場を設計する必要がある。
規範の遵守を可能にするにあたって、個人的な訓練にまかせるのは悪手だろう。既に述べたように、リアルタイムのコミュニケーションでこの種の規範を遵守するには、強固な認知的・動機的コントロールが必要になる。それが個人の訓練によって達成できるとは思えない。

ヒース『啓蒙思想2.0』の発想がここで重要になると思う。詳しくは述べないが、個人の訓練に任せるのではなく、まさにその場の設計に資源を投入した方が良い。

ではどうやって設計すれば良いのだろうか。残念ながら私にはまだわからない。自分で動物倫理の読書会を主催しており、そこでお互いに傷つけ合うことがほとんどなかったと思うのだが(そう願いたい)、これが成立してるのは個人間の信頼が十分に成立してるからだと感じる。他の読書会に参加していても同様のことを感じる。
多くの場合、これは場の設計によって達成されたものではない。単に「規範を遵守してください」「安全な振る舞いを心がけてください」と声がけするだけで達成されることはない。それで達成したと思われたなら、それはその場の個々人がなんとか安全さを保ち、信頼関係が築けたからだろうと思う。そのため、例えば、規範の遵守の失敗が生じたり、まだ信頼関係が形成されてないときの発言などで、簡単に場が安全でなくなることがある。

場の設計が難しい限り、ヒースのいう規範は、信頼が既に成立してる関係同士のコミュニケーションか、論文上のやり取りに限定されるべきだろう。そうでないと、安全である可能性は低く、危害を被る人が増えるだけである。いったいどうやったら安全な場を設計できるのか、私にはまだわからないが、私は諦めてない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?