【翻訳】「動物のためのベルモント・レポート?」(Ferdowsian et al. 2020)

以下の文章は、Ferdowsian et al. (2020) A Belmont Report for Animals?の抄訳(注以外全訳)である。本論文は動物実験倫理の総まとめのような論文であり、これからの動物実験倫理の新しい基礎になるだろう。誤訳があったり、訳がこなれておらず読みにくかったりするかもしれない。コメント等でご指摘いただきたい。

なお原文のライセンスはCC-BY 4.0である。本翻訳もCC-BY 4.0ライセンスの元で配布する。
https://creativecommons.org/licenses/by/4.0/

文献
Ferdowsian, H., Johnson, L. S. M., Johnson, J., Fenton, A., Shriver, A., & Gluck, J. (2020). A Belmont Report for animals?. Cambridge quarterly of healthcare ethics, 29(1), 19-37.

竹下昌志訳(2024.5.11)


要旨

ヒト研究も動物の研究も、確立された基準の中で行われている。アメリカでは、ヒト研究環境に対する批判と、ヒト研究に対する虐待の記録が、生物医学および行動学的研究の被験者保護のための国家委員会設立のきっかけとなり、その結果、ベルモント・レポートが発表された。ベルモント・レポートは、自律性の尊重、善行と正義の義務、脆弱な個人・集団に対する特別な保護など、ヒトを対象とする研究が遵守すべき重要な倫理原則を定めた。現在のガイドラインは、ヒトの研究参加者の個人的利益を適切に保護することを目的としているが、研究における(ヒト以外の)動物の使用については、同様の包括的かつ原則的な取り組みがなされていない。動物研究に関する公表された方針は、関連する規制上の指針を提供しているが、研究における動物の潜在的使用に関する意思決定の指針となるべき倫理的問題と原則を探求する根本的な取り組みが欠如しているため、方針が不明確でばらばらになっている。ここでは、ベルモント・レポートに概説されている倫理原則を、動物にどのように一貫して適用できるかを検討する。自律性の尊重、善行と正義の義務といった概念がどのように動物に適用されうるか、また動物がその脆弱性の結果としてどのような特別な保護を受ける権利があるかについて述べる。


2019年はベルモント・レポート(the Belmont Report)の40周年を記念する年である。研究倫理の基礎となる文書として、この報告書は、人格の尊重(一般的には自律性の尊重と表現される)、善行と正義の義務、脆弱な個人・集団に対する特別な保護という、ヒト研究が遵守すべき原則を定めている。そしてこれらの原則は、インフォームド・コンセント、リスクと便益の評価、研究対象者の合理的な選択といった、実行可能で強固な運営上の要件を生み出す基盤となる。アメリカでは、ベルモント・レポートは、ヒトに関する研究提案を評価する機関審査委員会にとって不可欠な参考資料である。この報告書に概説されている原則は、インフォームド・コンセントを提供する能力が低下している研究対象者を含め、潜在的なヒト研究対象者を保護するために役立っている。ベルモント・レポートを作成した「生物医学的および行動学的研究のヒト対象者保護に関する国家委員会(National Commission for the Protections of Human Subjects of Biomedical and Behavioral Research)」の成果に基づいて、多くの連邦政府機関や民間・公的機関は、「共通規則(Common Rule)」として知られる統一規則を採用し、子ども、収監中の個人、妊婦およびその胎児に対する特別な保護を提供している。(注1)

ベルモント・レポートの作成と公表は、1966年にHenry Beecherが発表した論文「倫理と臨床研究(Ethics and Clinical Research)」で詳述された例を含む、ヒト研究に対する懸念に従ったものである。これは、ヒト研究が、インフォームド・コンセントや参加者へのリスク、健全な倫理的正当性に対して十分な配慮がなされないまま実施されることが頻繁にあることを明らかにした(注2)。1972年に、40年にわたるタスキギーでのアメリカ公衆衛生局の梅毒研究に対する懸念が報道された。研究者たちは、この研究の対象となったアフリカ系アメリカ人男性たちからインフォームド・コンセントを得ておらず、1947年に梅毒の有効な治療法として確立したペニシリンが入手可能になった際にも、男性たちには知らされていなかった。男性の多くは貧困にあえぎ、医療、教育、その他の資源へのアクセスが限られていた。世論の懸念に応えて、9人からなる諮問委員会が設置され、この研究は倫理的に不当であると判断された。諮問委員会の任命から5ヵ月以内に、タスキーギ梅毒研究は中止された(注3)。

その後、非倫理的な研究慣行に対する世論の懸念が高まった。当初、こうした批判は国立衛生研究所(NIH)の監督要件にわずかな変更をもたらした。しかし、より広範な指針の必要性を認識したアメリカ議会は、まもなく「生物医学・行動学研究のヒト対象者保護に関する国家委員会」の設立を承認した。その4年後、研究者、哲学者、一般市民代表で構成された委員会は、ベルモント・レポートを作成した。今日、この報告書の影響力は世界中に及んでいる。


非ヒト動物の置かれた状況

Henry Beecherが『New England Journal of Medicine』誌に画期的な論文を発表した同じ年、アメリカ議会は動物福祉法を可決した(注4)。しかし、動物福祉法およびそれに続くアメリカにおける動物研究を規制する法律や政策は、どの動物が様々な政策の対象となるのか、またその扱いについてどのように決定されるべきなのかなど、非ヒト動物(以下、「動物」)を対象とする研究における倫理的問題に対処することは比較的少なかった(注5)。動物福祉法の当初の趣旨は、研究目的で一部のイヌやネコを無許可で入手することを防ぐことであったが、その後の改正により、その範囲は拡大または制限されている。2002年には、研究に使用される動物の大部分(鳥類、クマネズミ属のラット、ハツカネズミ属のマウス、魚類、および農場動物)が、これらの動物の大量使用によって利益を得る産業界のロビー活動もあって、同法から明確に除外された(注6)。対照的に、『実験動物の飼育と使用の手引き』(Guide for the Care and Use of Laboratory Animals)のような他の連邦研究ガイドラインは、すべての脊椎動物を対象としている(注7)。

今日でも、動物研究規制の間には大きな矛盾があり、施設審査委員会の委員は、プロトコルの承認を決定する根拠となる明確な一連の倫理的諸原則を持っていない。ヒトでの研究に対する倫理的懸念がヒトでの研究に対する指針を求める政府の要請につながったのに対し、動物を対象とした研究に対する倫理的懸念は、断片的に対処されてきた。

今日、自律性の尊重(respect for autonomy)、無危害(nonmaleficence)、善行(beneficence)、正義(justice)を含む生物医学的倫理の諸原則は、ヒトの医学・研究において広く認識され、適用されている(注8)。しかし、研究における動物の使用と扱いに関する決定については、状況がまったく異なる。

現在、研究者、審査官、監視機関は一般的に、William Russell と Rex Burch が約60年前に初めて提唱した「3R」の枠組みに依拠している(注9)。脊椎動物に焦点を絞ったこの枠組みは、当初、「有感な(sentient)」動物をいわゆる「より有感でない(less sentient)」動物や動物以外の研究手法に代替すること(replacement)、特定の実験や研究で使用する動物の数を削減すること(reduction)、ストレスや苦痛(distress)を軽減するための実験技術を洗練させること(refinement)を強調していた。それ以来、さまざまな司法権が動物の意味を拡大し(例えば、頭足類のような無脊椎動物を含めること)(注10)、代替(例えば、すべての動物を代替すること)(注11)、削減(例えば、適切な統計的検出力を得るために最低限必要と考えられる数まで研究に使用する動物の数を減らすこと)(注12)、および洗練(例えば、手順によって発生するストレスや苦痛を軽減するだけでなく、全般的な福利に注意を払うこと)している(注13)。しかし、このような変化は普遍的なものではなく、3Rの枠組みは、提案された研究行為の倫理的許容性を判断するための一連の原則を反映していない(注14)。3Rの枠組みは動物実験の必要性を前提としており、Russell と Burch が概説した「科学優先」という一般的な態度や、対立する場合にはヒトの利益が動物の利益を上回るという一般的な推定を反映している。

最近、動物研究政策に限定的な変化が見られるようになったが、これは態度の変化を反映したものであり、特に、動物を使ったすべての研究がヒトにとっての便益によって正当化されるという前提を批判的に再検討したことが大きい。例えば、世論の大きな論争と2010年の議会要請を受け、NIHは医学研究所(IOM)に「生物医学および行動学におけるチンパンジーの使用に関する委員会(Committee on the Use of Chimpanzees in Biomedical and Behavioral Research)」の設置を依頼した。IOM委員会は、生物医学的・行動学的研究におけるチンパンジーの科学的必要性についてのみガイダンスを提供するよう要請されたが、チンパンジー研究の必要性を評価する上で倫理的配慮を完全に避けることはできないと判断した。その報告書では、動物研究に関する道徳的な疑問が数多く残されたままであったが(注15)、委員会は、現在進行中および将来の研究活動にとって、チンパンジーはほとんど不要であると結論づけた(注16)。2013年までに、NIHは委員会の原則と対応する基準を満たさないすべてのチンパンジー研究プロトコルを段階的に廃止した。2015年11月、アメリカ魚類野生生物局(the U.S. Fish and Wildlife Service)による監禁下の(captive)チンパンジーの保護状況の変化もあり、NIHはチンパンジーの生物医学研究を支援しないと発表した。(注17)

動物研究政策に対する社会的関心と注目は、他の種にも及んでいる。2018年、Cory Booker上院議員は、独自に不必要または非倫理的と考えられるすべての非ヒト霊長類研究を阻止しようとする法案をアメリカ上院に提出した(注18)。多数の科学者、法学者、その他の専門家がこの法案を支持した。同様に、世論の反対や議会の行動の結果、サルを使った母性剥奪実験や中毒実験、イヌやネコを使った致死実験、その他いくつかの動物研究が監視の対象となり、場合によってはこれらの実験が中止された(注19)。このような政策と実践の変化は、国民感情の高まりを反映している。アメリカ人の約半数が、動物を使った医学的実験は道徳的に容認できないと考えており、動物実験に反対する世論は過去10年間で着実に高まっている(注20)。ギャラップ世論調査によれば、アメリカ人の約3分の1が、動物もヒトと同じように、危害や搾取から解放されるべきだと考えている。

アメリカ以外でも、動物研究政策に同様の注目が集まっている。2010年、EU議会は、研究における大型類人猿の使用を直ちに制限し、すべての非ヒト霊長類の使用を段階的に廃止するよう求めた。ヨーロッパをはじめ、世界中の数多くの国々が、研究における一部の動物の使用を全面的または部分的に禁止している(注22)。2006年の英国ウェザーオール・レポート(注23)や欧州委員会のSCHERレポート(注24)など、この10年間に非ヒト霊長類を用いない研究に関する注目すべき報告書が国際的に数多く発表されてきた。しかし、これらの報告書はいずれも、非ヒト霊長類を用いた研究の「必要性」を単に推定しているだけで、確立された倫理原則に基づいた有意義でインパクトのある分析を行っていない。これらの報告書は、他の報告書と同様、必要とみなされる研究が倫理的配慮の必要性を高めることはあっても、その必要性が倫理的配慮に置き換わることはなく、そのような研究が倫理的であることを示唆するものでもないという事実を無視している。さらに、アメリカやヨーロッパなどでは、非ヒト霊長類やイヌやネコなどの霊長類以外の種に注目する動きもあるが、他の動物が関与する決定も、様々な種で見られる能力、脆弱性、それに対応する倫理的問題の類似性を考えれば、より広範で一貫した倫理的指針に値するものである。

ヒト研究の諸原則を動物に拡張する根拠

今日に至るまで、「生物医学および行動学研究のヒト対象者保護に関する国家委員会」のような、広範かつ持続的で組織的な取り組みは、研究における動物の使用に対処していない。動物の情動的・知的能力に関する理解が進んでいるにもかかわらず、動物研究に関する文書で、ベルモント・レポートの範囲と影響力に匹敵するものはない(注25)。他でも述べられているように、動物研究は間違いなく、Henry Beecherが述べたような多くの道徳的問題、すなわち同意、危害、実験対象者への便益の欠如に関する問題に悩まされている。

ヒトの集団の中には、心的能力、道徳的適性、その他の性質に大きな違いがあり、それらはヒトと他の動物との道徳的地位の推定や扱いの違いを正当化するために歴史的に用いられてきた。他の研究者が論じているように、この見解に対する説得力のある論拠は見つかっていない(注27)。それでも、これらの特性の度合いが異なるヒトに対しても、生命倫理学や社会の他の領域で広く認識されている同じ基本的な原則に従って扱われるという普遍的な期待がある(注28)。広く認知され、受け入れられている原則を研究の意思決定の指針として用いることは、他のアプローチと比較して明確な利点がある。基本的な道徳的コミットメントと理解される諸原則は、文脈や状況によってその具体的内容は異なるかもしれないが、合理的で内的に一貫性のある分析と行為の基礎となる。

研究倫理の基礎の現状(ヒトとその他の動物の科学的利用を含むように拡大解釈されている)を振り返ることで、動物研究倫理における同様の原則に基づく変革の重要性が浮き彫りになる。ヒトと動物に対する研究倫理の現在の基準は著しく異なっており、ヒトと動物の研究対象には明確で関連性のある類似点があるにもかかわらず、このような差のある扱いが存在している。人間中心的な種差別への訴えは、動物研究対象者に対する違った扱いを正当化する最も一般的なものであるが、哲学的な精査には一貫して耐えられなかった(注29)。多くの人々は、研究における動物の使用を、ヒトとの類似性を挙げて科学的に正当化してきたが、その一方で、脆弱性や精神的・身体的苦痛を受ける可能性が共通していることが、倫理的正当化にどのように影響するかを無視してきた。ヒトや他の動物には、自己保存、不必要な束縛からの解放、基本的かつ複雑なニーズの充足といった利益がある。ヒトと同様、他の動物もその基本的利益を割り引かれる可能性がある。さらに、生の質を決定する性質は、種の分類に関係なく、個体の利益を考慮し、特別な保護を受ける資格に関連する(注30)。イデオロギー的なバイアスと、死や病気に対するヒトの深刻な恐怖以外に、他の動物の重要な同様の利益よりもヒトの利益を一貫して優先させることを動機づけるものはない。このような恐れやバイアスは、健全な倫理的判断にはつながらない。道徳哲学の非常に基本的な洞察は、客観的倫理は恣意的な区別や価値観、基準とは相容れないということである。このことは、倫理的エゴイズムのような道徳理論や、健常者主義(ableism)、階級主義、民族中心主義、異性愛主義(heterosexism)、人種差別主義、性差別主義などの偏見に対する哲学的批判の根底にある。同様に、ヒトと動物の研究対象者の差別的な扱いは、恣意的な区別、価値観、基準に基づいている。このような差別的扱いは、動物研究倫理の客観性に悪影響を及ぼすだけではない。ヒト研究倫理の体系もまた、このような恣意的な区別、価値観、基準の上に成り立っているのである。この状況が適切に是正されない限り、ヒトと動物の研究倫理の客観性は疑問視され続けるだろう。

このような問題を踏まえ、ここでは、ヒトの方が道徳的地位が高いという主張に基づいて、ヒトと動物の研究規制の間に大きな違いがあることは正当化できないとする。従って、動物の利益はヒトの利益とほぼ同等の道徳的重みを与えられるべきであると仮定し、そこでヒトの研究原則を動物に拡大することの意味を考察する。(ベルモント・レポートに反映されているような)自律性の尊重、善行と正義の義務など、生物医学倫理において広く認知されている概念が、動物にどのように適用されうるか、また、動物の脆弱性の結果として、動物がどのように特別な保護を受ける権利がありうるかについて述べる(注31)。

諸原則とその応用

人格(自律性)の尊重とインフォームド・コンセント

ベルモント・レポートの中で、「人格の尊重」は、自律性を認め、自律性が低下した者を保護するという、2つの別々の、しかし関連する道徳的要件を組み込んでいる。委員会が「人格の尊重」(注32)という原則を選択する際に、他の意図があった可能性はあるが、その文書化された意図は、「対象者が能力を有する限りにおいて、自分に何が起こるか、あるいは何が起こらないかを選択する機会が与えられることを要求する」ものである(注33)。

自律性(autonomy)とは、一般的に自己決定能力のことを指す。自己決定能力とは、自己統治(self-rule)の能力であると同時に、自己の利益を守り、増進させる能力でもある。その結果、脆弱性と密接な関係がある。自律性を欠く主体は、自らの利益を適切に代弁する能力を欠くため、搾取や危害に対して脆弱になる。

ヒトや他の動物がどの程度自律性や自律的行為を示すかについては、多くの未解決の問題がある(注34)。現在では、チンパンジー、カラス、ゾウ、サル、シャチ、オオカミなどの動物が日常的な目標を立て、それに従って行動を秩序立てていることが一般的に受け入れられている(注35)。チンパンジーやイルカなどの動物が示す同盟や連携は、瞬間的な関心事にとどまらない目標と計画的な行動を反映している。こうした動物社会の年長者は、かれらの選好を満たすような行動をとる。この選好は、かれらが何に価値を置いているのか、基本的な関心事を効果的に追跡するものである(注36)。また、多くの動物が子供を養っていることから、ケアをする動物の選好や関心事も追跡していることがわかる(注37)。これらの行動とそれに付随する能力は、自己決定能力の証拠となる。ヒトでも動物でも、自己決定能力は神経学的、心理学的、情動的な成熟や変性、あるいはその他の適性の変化の結果として、生涯を通じて急速にまたは長期にわたり変化する可能性がある。とはいえ、程度の差こそあれ、自己決定はヒトや多くの動物の福利に不可欠であり、自己決定が阻害されると、身体的・精神的苦痛や、学習性無力感、心的外傷後ストレス障害、うつ病などの障害につながる可能性がある(注38)。

ベルモント・レポートが示すように、自律性とは、不当な影響を受けずに、十分な情報を得た上で意思決定ができる能力でもある。囚人の場合のように、外的な「自由を著しく制限する状況」は、自律性を行使する能力に悪影響を及ぼす可能性がある(注39)。監禁などの恐怖やその他の脅迫の源は、自己決定の表明を制限する可能性がある。

ベルモント・レポートが指摘するように、自律のような能力とその含意を認めることは重要であるが、そのような自律性の低下が内在的要因によるものであれ外在的要因によるものであれ、自律性が低下した者を保護することも同様に重要である。このような場合、2つの一般的なルールが適用される。可能な限り、自律性が低下している個体であっても、自分に何が起こるか、あるいは起こらないかを選択する機会が与えられるべきであり、この福祉基準は、動物にも適用できると認識されつつある(注40)。しかし、十分な情報に基づいた意思決定ができない個体については、危害から保護されるべきである。

ヒト研究における人格の尊重は、一般に、研究への参加前にインフォームド・コンセントを求め、確保するという形で適用される。インフォームド・コンセントの要件には一般的に、十分な情報の提供、理解、自発性という3つの要素が含まれる(注41)。ガイドラインは、「研究対象者の異議」を尊重することによって、意思決定プロセスにおいて意思決定能力の低下した者が自らの利益を代表する機会を提供し(注42)、インフォームド・コンセントを提供する能力がないとみなされる場合でも、個体が異議を唱えることを認めている。場合によっては、潜在的な研究対象者の最善の利益となるものを選択する役割を担う代理決定者が、本人に代わって許可を申し出ることもある。どのような状況であっても、個人が危害を加えられると脅かされるような強制や、不当な影響力は禁止されている: 「被験者が特に脆弱な場合、通常であれば容認される誘引が、不当な影響となる可能性がある」(注43)。

動物の自律的能力については、経験的にも概念的にも未解決の問題が残っている。ヒトと動物の相互作用や、動物に対する我々の理解の粗雑さは、意味のあるインフォームド・コンセントを可能にしそうにない。したがって、ヒトの研究において用いられる拒否(dissent)、賛意(assent)、代理意思決定者といった概念が、動物の研究利用に関する意思決定に十分であるかどうかを検討することが重要である。

小児研究倫理では、研究者と規制当局は、たとえ幼い子どもであっても、その研究が他の方法では得られない直接的便益を約束するものでない限り、その持続的な拒否(dissent)を尊重すべきであるという認識をますます強めている。この要件は、子どもの自己決定レベルを軽視することに伴う危害を回避する義務に動機づけられている。また別のところでは、持続的な拒否の表明に必要な能力について述べられている(注45)。簡潔に言えば、持続的な拒否を表明する幼児は、(1)痛みや苦痛を経験する能力を持ち、(2)その発生を予期することができ、(3)痛みや苦痛を止める(または生じさせない)選好を表明することができる。多くの動物もこのような能力を持っており、それは神経学的構造、逃避・回避行動、選好行動の表明によって証明されている。しかし、逃避・回避行動がないからといって、必ずしも拒否がないとは限らない(注46)。子供と同様、動物も権力や影響力のある立場の個体から身を守ろうとして、特定の行動を適応させたり抑制したりする傾向がある(これはかれらの脆弱性をさらに際立たせてる)。実験室研究の過程で使用される監禁環境やその他の慣行は、動物が拒否を表明する能力を妨げ、操作や強制に対する脆弱性を深める。したがって、現在の状況では、持続的かつ認識可能な拒否の指標がないだけでは、動物を使った研究を許可するための十分な基準とはならない。

ヒトが確実に理解できる方法で動物が賛意(assent)を表明できるかどうかについては、未解決の問題がある(注47)。賛意は、拒否と比較して、研究その他の活動への参加にとって、より道徳的に厳格な要件であると考えられる。合意(agreement)の肯定的表現である賛意は積極的な参加を意味するのに対し、拒否がない場合は消極的または混乱した参加を示唆する可能性があり、したがって参加意思の確実性が低くなる。しかし、動物が関与するほとんどの場合、たとえ最善の状況であったとしても、認識されたヒトのニーズから生じる研究の潜在的なリスクや便益について、動物が十分な情報を得た上で意思決定できる可能性は低い。

動物実験において代理意思決定者を使用することは、特別な困難を伴う。第一に、ヒトの代理決定者からの同意は、同意能力のある研究対象者からの同意に比べ、常に最適とは言えない。しかし、同意が得られない個人(例:幼児)が関与する現行の規制ガイドラインでは、子どもに代わって許可を与えたり拒絶したりできる代理意思決定者(例:少なくとも一人の親)の意見を認めている。このような場合、持続的な拒否の尊重と、子どもの賛意(もし子どもがそれを提供できるなら)も求められる。しかし、上記のように、動物の場合は、拒否と賛意に関する特別な課題がある。同意が得られない場合、なぜ有益でない研究が許容されるのかについての説得力のある論拠が乏しいため、保守的な基準が求められる。

実際には、動物の自律性と脆弱性を尊重するには、動物が自分の意思を主張できる範囲において、また私たちが動物の選択を理解できる範囲において、動物の自由と選択を尊重する必要がある。少なくとも、罰、強制、拘束、監禁がないこと、その個体と通常の状況に適した現実的な選択肢と代替案があること、代理決定者が個人的または職業的な利害の対立によって動物の利益を代表する能力が不当に損なわれていないこと、といった基準が必要である。また、代理決定者は、強制や不当な誘導のない、独立した、十分な情報に基づいた決定ができる者でなければならない。もし代理者が個々の動物の健康と福利に必要な認知的、動物行動学的、生態学的要因を確実に理解できず、個々の動物の利益を偏りなく(impartially)代弁できない場合は、 注意深く研究への参加を避ける必要がある。

善行、およびリスクと便益の評価

ベルモント・レポートによれば、善行の原則は義務として解釈されている。善行の原則は、しばしば「善を行う」という意味にとらえられるが、ベルモント・レポートでは、この原則は2つの一般的な規則に基づいている。(1) 害を与えない(無危害、多くの学者がヒポクラテスの誓いにも体現されていると考える原則)、(2) 可能な便益を最大化する一方で、可能な害を最小化する(注48)。しかし、ヒト研究においては、善行の原則は、参加者に起こりうるリスクを最小化し、参加者にとって有利な便益/リスク比を確保するという要件を通じて運用される。

害が最小化され、かつ便益とリスクの比が良好であるという二重の要件は注目に値する。例えば、善行の原則の要件が、提案された研究に対して危害のリスクが最小化されていることだけであった場合、潜在的な危害が潜在的な便益を大幅に上回っている場合でも、一部のヒト研究が許容されるとみなされる可能性がある。逆に、危害を最小化する義務を負うことなく、便益とリスクの比率を有利にすることだけを要求すれば、予防可能な危害や正当化できない危害を含む研究を進めることができる。したがって、この2つの規則が(適切に実行された場合)連動して初めて、不当かつ予防可能な危害の回避が保証されるのである。

動物については、既存の規制の状況はかなり異なっている。例えば、ほとんどの施設内審査委員会で利用されている3Rの枠組みは、動物実験には便益/リスク分析が必要であるという主張につながることが多い。というのも、資金源は資金提供の決定において便益を評価することが期待されており、施設内審査委員会は特定のプロトコルに関連する危害を軽減しようとするからである(注49)。しかし、潜在的な危害と便益の直接的な比較が欠如してるので、動物に重大な危害をもたらす問題のある研究が簡単に進んでしまう。この問題は、便益と称されるものがわずかな発見しか約束しない可能性のある動物を用いる探索研究において特に悪化する。実際には、動物への危害は比較にならないほど軽視されている(注50)。この状況は、ベルモント・レポート(およびその後の規制方針)が、有益性の二重基準概念を含めることで回避した問題を反映している。

チンパンジーに関するIOM委員会の所見は、動物研究で用いられている現在のアプローチの失敗の明確な事例を示している。チンパンジーを用いた研究を行っている研究機関の動物実験委員会(IACUC)は、研究プロトコルの審査において、提案されたプロトコルと比べて害を最小限にするという公式の義務を果たした。それにもかかわらず、連邦政府が資金提供したチンパンジー研究のほとんど、あるいはすべてが、IOM委員会によって、最終的に不必要であり、おそらく科学的にも倫理的にも正当化されないとみなされた。このケースに限らず、潜在的な危害と便益を直接比較することなく、あるいは審査委員会の期待に応えるために形式的な(pro forma)実験を行うことは、倫理的に問題のある研究を許可し続けることになる。

いくつかの動物実験ガイドラインでは、無危害と善行の義務が言及されているが、現在の規定では、これらの原則に十分な注意が払われていない。例えば、『実験動物の飼育と使用の手引き』の最新版では、特定の研究について、「IACUCは、研究の目的と潜在的な動物福祉上の懸念とを比較検討する義務がある」(注51)と定めている。最近、研究における動物の使用を監督するアメリカとヨーロッパの組織は、動物研究における便益/リスク分析に関する2部構成の勧告を発表した(注52)。しかし、Anna Olssonらが指摘するように、この報告書は「法的な位置づけを持たず、多くの点で明確さに欠けている」。動物を用いるプロトコルの評価に対する責任者は、便益/リスクの好ましくないプロファイルをもつ研究を禁止するための明確な枠組みを持ってない。その結果、プロトコルを完全に拒否することはまれである。代わりに、プロトコルの審査では、3Rに沿った修正に焦点を当てることが一般的であり、これではまだ好ましい便益/リスクプロファイルを作成できない可能性がある。対照的に、動物実験における善行の原則に真摯に注意を払うことは、必然的に次のことを含む: (1)実際の危害と潜在的な危害を可能な限り完全に評価すること、(2)潜在的な便益を完全に評価すること、(3)どのような便益/リスクプロファイルが許容されるかという条件とともに、危害のリスクと潜在的な便益を透明かつ厳密に直接比較できるようにすること。

ヒト研究においては、善行の原則は、身体的、心理的、社会的、その他の危害の性質とその範囲を考慮することを求めてい る。しかし、動物実験の一般的な実施においては、危害の全範囲を考慮することははるかに少なく、おそらく可能でさえない。もし考慮されるならば、動物研究に伴うリスクには、繁殖や輸送に伴う害、親や兄弟、同種の他の動物との分離、自身の基本的ニーズを満たすものへのアクセスを制御できないこと、安全と安心の欠如、動物の選好の妨害、発達の可能性を十分に発揮できないこと、正常で種に適した自然環境を奪われること、殺されることなどが含まれるが、これらに限定されるものではない。

特に、監禁(confinement and captivity)はそれ自体が重大なリスクをもたらす(注55)。ある種の監禁は、動物にとって本質的に有害である。なぜなら、このような状況は、動物から倫理的に適切な環境と活動、自由と移動、刺激、遊び、家族などの基本的な心理的・社会的ニーズを奪ってしまうからである。監禁の形態によっては、ストレス、退屈、痛み、恐怖、喪失感など、経験的な害もある。現在、動物実験の実施において、前述のすべての危害のリスク、すなわちその大きさと確率は、しばしば深刻かつ確実である(注56)。

ヒト研究においては、測定されるリスクと便益には、「被験者個人の家族、社会全体(または社会における特別な被験者グループ)」(注57)に影響を及ぼすものも含まれる。同様に、動物についても、対象となる見込みのある者に対する危害に加えて、その他の潜在的危害を考慮すべきである。例えば、自由に動ける(free-ranging)動物や「野生で捕獲された」動物の子孫の場合、直接的な環境コストだけでなく、これらの慣行を支える間接的な環境コストもリスク評価に含めるべきである。

ヒト研究の多くとは対照的に、動物実験の正当性が、実験に含まれる個々の動物にとっての便益に焦点を当てて提示されることはまれである(注58)。この立場に対する明確な道徳的正当性は、既存の法律、政策、ガイドラインには提示されていないが、漠然としてるが見込まれている、ヒトにとっての将来の便益が、研究における動物使用の根拠としてしばしば参照される。ヒト研究の場合と同様、研究計画書が研究の潜在的便益を誇張していないことを施設内審査委員会が確認することが重要である。様々な科学的発見の潜在的価値を予測することは不可能であるが、ヒト研究においても、将来予期せぬ便益がもたらされる可能性は存在する。それにもかかわらず、そのような不確実性が、倫理委員会がヒト研究提案の承認プロセスの一環として、潜在的便益の現実的な評価を要求することを妨げることはない。同様に、動物を対象とする研究についても、不確実性が潜在的便益(またはリスク)の現実的評価を実施する妨げになることがあってはならない。

ベルモント・レポートはさらに踏み込んで、「リスクと便益の評価には、場合によっては、研究で求められる便益を得るための代替方法を含め、関連データを注意深く揃える必要がある」(注59)と提言している。たとえ過去において研究が知識の進歩などの特定の便益をもたらしたとしても、多くの場合、その便益はより害の少ない他の手段で得られた可能性がある。動物研究の便益の評価においても同様に、そのような便益が提案された研究によってのみ得られるのか、あるいは現在または将来において代替方法によって予想される便益が得られるのかを正確に反映することが重要である(注60)。

潜在的な危害と便益を厳密に比較するための適切なアプローチを特定することは、間違いなく、便益/リスク分析の最も概念的に困難な側面である。ヒト間の比較の場合でさえ、特定のリスクと特定の潜在的便益をどのように衡量するかについて、意見が一致することはほとんどない。同意が得られる個人の場合、その個人差は、潜在的便益を期待して特定のリスクを引き受ける意思、あるいはその欠如に影響する。同意する能力がない個人の場合は、より困難となる。それにもかかわらず、社会的便益の創出に対するコミットメントと個体への危害のリスクとの間に矛盾が生じた場合でも、ヒト研究は、一般的に、激しい痛み、心理的苦痛、永続的な障害、苦しみ、死、長期にわたる拘束などの深刻な危害から保護される。無危害〔の原則〕にコミットするには、動物も同様に深刻な危害から保護される必要がある。しかし、現在の慣行では、ヒトにとっての潜在的便益、さらには科学的な疑問そのものが、動物に対する既知のまたは潜在的な危害よりもはるかに重視されている。他の研究者が論じているように、利益に対する平等な配慮の原理に基づけば、動物に対する危害は、ヒトにおける関連性のある同様の危害と同等に評価されるべきである(注61)。同様に、一般化できない知見や誤解を招く知見によるヒトへの潜在的な害も、完全な便益/リスク評価に含めるべきである(注62)。

正義、および研究対象者の選択

「誰が研究の便益を受け、その負担を負うべきか。」

これは、ベルモント・レポートが提起した正義の問題である(注63)。正義への関心は、利用のしやすさ、社会経済的地位、立場の危うさ、操作されやすさなどの理由で、研究対象として個人を組織的に選ぶことに関連する不正義が認識された結果、浮上した。例えば、19世紀から20世紀にかけては、公的機関で医療を受けようとする経済的に恵まれない患者が研究の負担を負う一方で、裕福な民間患者はその便益を享受していた。20世紀後半には、ナチスの強制収容所の囚人、アラバマ州タスキギーに住むアフリカ系アメリカ人男性、グランドキャニオンのハバスパイ族、認知障害を持つ入院中の子どもたち、その他社会的に脆弱で搾取されてきた人々を、研究者たちが組織的に標的にした(注64)。このような全く異なる集団に課せられた被害は、欺瞞から拷問に至るまで様々であったが、それぞれの虐待は、「正義の概念が被験者を対象とする研究にどのように関連しているか」(注65)を示す歴史的背景に貢献してきた。

ベルモント・レポートにおける正義の原則の考察は、社会正義への配慮を含め、実験対象者の選定における公正な手続きと結果に対する道徳的要件を生み出した:

「被験者のクラスの選択には優先順位があり(例えば、子どもより成人)、潜在的被験者のクラス(例えば、施設に収容された精神障害者や囚人)は、研究被験者として参加できるとしても、一定の条件下においてのみである、といったことは社会的正義の問題として考えられうる。」(注66)

一般的に、個人、特に自律性が損なわれている個人は、研究の便益に不釣り合いなリスクにさらされるべきではない。また個人が研究から便益を受けそうにない集団の一員である場合、そのような個人は研究から完全に除外する必要があるかもしれない(注67)。

現在、動物が意図的かつ一般的に研究対象に選ばれているのは、その利用のしやすさや操作のしやすさ、そして社会における制度的・文化的バイアスの結果である。歴史的、組織的に対象とされてきたヒトの集団と同様、動物もまた「自由な同意の能力が頻繁に損なわれている」(注68)。動物は便益を得ることなく、圧倒的に研究の負担を強いられている。子どもや囚人を含むヒトの脆弱な集団はインフォームド・コンセントを提供する能力が損なわれているために 保護されているが、動物は現在、同様の脆弱性を持っているにもかかわらず、同様の保護から除外されている。

脆弱性という概念は広く使われているが、倫理的ガイドラインでは十分に定義されていない。ベルモント・レポートは、他の多くの研究倫理に関する声明、ガイドライン、規約と同様、脆弱性を定義していない。その中で、「人種的マイノリティ、経済的に恵まれない人々、重病人、施設に収容されている人々」(注69)など、脆弱な被験者とみなされる集団や個人をいくつか挙げているが、これらの人々は歴史的に、抑圧されていたり、利用されやすかったり、無力であったり、権利や保護を擁護する人がいなかったりしたため、頻繁に搾取されてきた。「コモン・ルール(The Common Rule)」はまた、特別な保護を必要とする集団として、囚人、子ども、妊婦とその胎児を挙げている。

国際医学団体協議会(CIOMS)は、研究規約の中でおそらく最も包括的な脆弱性の定義を提供している(注70)。脆弱性とは、(1)自律的な人格の特性を欠いていること(自らの利益を守ることができないこと、すなわち脆弱性は個人に内在的に備わったものと定義される)、または(2)行動の自由が制約されるために自律的に行動できないこと(自らの利益を守ることができないこと、すなわち脆弱性は外在的条件の結果として定義される)のいずれかであると定義される。CIOMSの以前のガイドラインでは、「脆弱な人(persons)とは、自らの利益を守ることが相対的に(あるいは絶対的に)できない者のことである。より正式には、脆弱な人は、自らの利益を守るために必要な力、知性、教育、資源、強さ、またはその他の必要な属性が不十分にしか持ってないだろう」(注71)と述べている。

このような脆弱性の実質的理解のもとでは、子どもと囚人の両方がいかに脆弱であるかは明らかである。前者は主に、研究を理解し同意する能力、あるいは自らの利益を守る能力が根本的に欠如しているために脆弱であり、後者は主に、監禁と施設収容という条件そのものが、自由で強制されない選択を行い、自らの利益を守るための自律性と能力に対する外的制約を生み出しているために脆弱である。

最近の研究は研究やそれ以外においてヒトに適用される脆弱性の概念をより善く理解しようとしており、その研究成果は、動物が研究においていかに脆弱な主体であるかを実証するために利用することができる(注72)。Catriona Mackenzie、Wendy Rogers、Susan Doddsは、脆弱性の概念が展開される多様な方法を捉える分類法を開発した(注73)。彼女らは脆弱性のタイプとして、内在的脆弱性、状況的脆弱性、病因的脆弱性の3つを挙げている。内在的脆弱性とは、ヒトや動物が生物学的な生き物として影響されやすい存在の内在的特徴(例えば、病気、疾病、事故による傷害、痛み、苦しみ、死など)であり、状況的脆弱性とは外在的なもので、個体や集団が置かれている状況や文脈から生じるものである。病因的脆弱性は状況的脆弱性の下位集合を形成し、道徳的に機能不全に陥った関係によって、あるいは既存の脆弱性を改善しようとする試みがかえって脆弱性を悪化させることによってもたらされる。

研究における動物たちは、これらすべての点において脆弱である。生物学的な生き物として、かれらは内在的に脆弱である。かれらの身体性、基本的な生存のニーズ、そしてより複雑なニーズは、研究の過程で実現しうる危害に対して影響されやすくしている。ヒトの場合と同様、動物の経験はかれらの福利にとって重要である。多くの動物が複雑なニーズを持ち、そのニーズが満たされないと苦しみやすいため、公正なアプローチでは、かれらの基本的なニーズを、ヒトと同様に、完全かつ平等に考慮する必要がある。単に入手しやすく便利だからという理由で、このような動物を完全かつ平等に考慮せず扱うことは、正義に対する義務を損なうものである(注74)。

現在の研究環境を含め、社会における動物の扱いは、動物を状況的脆弱性にさらしている。自律的な決定を下し、自らの利益を守るために必要な認知能力を発達させる可能性のある動物でさえも、非自発的に監禁され、施設に収容されたヒトに欠けているのと同じ理由で、監禁下では一般的にこうした能力を奪われている。監禁下の条件は、自らの利益を守るために行動する能力に対する外的な制約として作用する。そのような制約には、捕獲者への完全な依存や、遵守や協力を得るための強制や誘導が含まれる。

また、動物は病因的にも脆弱である。動物を研究に参加させる動機には、病因的脆弱性をもたらす少なくとも一つの原因がある。非対称的な権力関係、依存関係、種に基づく差別から、動物はしばしば研究対象として選ばれる。ヒトの制度は、多くの動物を内在的に価値ある存在として認めず、ヒトの都合のための消耗品として扱うことを組織的に根付かせている。研究における遺伝子組み換え動物の使用増加は、病因的脆弱性の特に深い例である。ヒトが遺伝子組み換え動物を開発し、繁殖させるのは、ヒトの病状を再現・模倣しようとする試みであり、研究による危害にさらすことを意図している。

社会における多くの動物の依存的立場、内在的・外在的脆弱性、インフォームド・コンセントを提供できないことを考慮すると、このような動物は脆弱な被験者として扱われるべきである。ヒト研究において、特にその個体(個人)に直接的な便益がない場合、通常、脆弱な被験者は、安全な環境において通常の日常生活で遭遇するリスクを超えるリスク(すなわち、最小リスク)、または最小リスクよりわずかに増えたリスクに曝されることはできない。ベルモント・レポートは、子どものような脆弱な被験者を対象とする非治療的研究で、最小リスク基準を超えるものに対する直接的な倫理指針を提供していない(注75)。コモン・ルールはこのような研究を制限しているが、個人の「集団」(子どもの場合、集団は研究の対象となる疾患を持つ子どもである)の「健康または福祉に影響を及ぼす深刻な問題」に関する一般化可能な知識をもたらす可能性が高い限り、研究を禁止していない(注76)。同意が得られない個人にとって直接的な便益の見込みがなく、最小リスクよりもわずかな増えたリスクを伴う研究は、連邦政府に付託されなければならない。承認された場合、そのような研究は通常、それぞれの親の許可と、子どもを対象とする研究の場合は子どもの賛意を含む、複数の許可を必要とする。同様のシステムを動物にも適用することを提案する人もいる(注77)。しかし、このようなアプローチは、研究における動物の使用に関する決定を導くには、道徳的に十分とは言えないかもしれない。

動物は、インフォームド・コンセントを提供できないヒトの集団よりも、個体として、また集団として、より脆弱な面がある。例えば、子どもの最善の利益を代弁する親や保護者は、子どもに代わって(時には子どもの賛意を得て)許可を与えることができるが、ヒトが動物の利益を代弁することははるかに困難である(注78)。良心的な保護者がよく知っているコンパニオンアニマルなど、これには例外もあり得る(注79)。しかし、一般的にこれらの違いは、動物を含む研究のリスク閾値は、子どもを含むヒトの脆弱な集団に義務付けられているリスク閾値と同程度か、それよりも低くあるべきことを示唆している(注80)。また、リスクの閾値を超えないことをより確実にする必要性も示唆される。もし動物が同意も賛意もできないのであれば、既知の危害、特に重大な危害はほとんど許容されないという慎重な見解が必要であろう。許容可能な研究には、拒否がなく、また適切な代理意思決定者の許可がない場合に、その個体に直接的な便益をもたらす可能性のある(便益/リスクプロファイルが好ましい)ものが含まれる。ヒトの代理意思決定者と同様、個体の利益、ニーズ、選好 を知り、理解することは必要ではあるが、個体の最善の利益を代表するには十分ではない。

前に進んで

ベルモント・レポートに概説された諸原則は、単独で機能するものではなく、協調して機能するものである。各原則は、ヒトを対象とした研究の道徳的側面において極めて重要なものである。我々は、これらの不朽の原則を、ヒトの研究と同様に、歴史的に矛盾や道徳的論争に悩まされてきた研究における動物の使用に関する決定にどのように適用できるかを提案した。

ベルモント・レポートで概説された諸原則を動物に拡張し、適応させることは、動物の選好、利益、脆弱性を考慮することになる。そのため、同様のアプローチがヒト研究に影響を与えたように、多くの動物の研究利用に大きな影響を与えることになる。一部のヒト研究対象者の脆弱性を認識し、かれらを搾取から保護することは、一部のヒト集団を対象とする研究の許容性に大きな影響を与えてきた。動物の脆弱性を認め、それに従って行動することが、どのような帰結をもたらすかを予測することは難しい。しかし、脆弱なヒトの場合と同様、研究の実施に望ましくない帰結をもたらす可能性があるからといって、それだけで道徳的議論が終わるわけではない。実際、脆弱なヒトを対象とした研究が制限されたことで、研究者たちは同意のある被験者を対象とした研究を行う別の方法を模索せざるを得なくなったし、動物実験をさらに制限することで、同様に変化を迫られることが予想される。しかし、望ましくない帰結を理由に、ある主張が誤りである、あるいはあり得ないなどと主張するのは論理的誤謬である。これまで述べてきたように、多くの動物が、ある種のヒトと同じように脆弱であるという十分な証拠がある。もし私たちが道徳的に一貫しているのであれば、このような類似点は重要であり、研究において動物を使用することの道徳的な許容可能性についての計算にも関わってくる。ヒトの場合と同様、そもそも状況的・病因的脆弱性をもたらす要因そのものに対処することも重要である。

一つの前進する方法として、動物研究をヒトの臨床研究に近いものに再認識し、再構築することが考えられる。このようなアプローチには「動物患者」が含まれる。動物患者は、ヒトに見られるような病態や疾患を自発的に発症するため、ヒト疾患の「自然な」モデルと考えられる(注81)。実験のみを目的として遺伝子組み換えや繁殖が行われ、実験室のような環境で飼育されるのではなく、動物患者は非施設的なヒトのケア提供者や保護者とともに家庭で生活する。動物患者は、ヒトの患者が多施設共同臨床試験に登録されるのと同様の方法で臨床試験に登録される。つまり、動物患者が獣医師のもとを訪れ、実験的被験者を求めている疾患や病態であると診断された場合、研究への参加申し出を受けることができる。その動物の保護者が、〔動物が〕研究参加者となることに同意した場合、動物は保護者のもとで保護され、研究の性質によっては、研究参加中も動物自身の家庭環境に住み続けることができる(注82)。このタイプの研究における代理同意の要件は、子どもやその他の脆弱な人を保護するために設計された要件と同様である。また最も重要なのは、保護者の同意だけでは研究への参加を正当化できないということである。研究はまた、リスクを最小限に抑え、患者にとって有利な便益/リスク比を確保するなど、他の倫理的条件も満たす必要がある。つまり、仮想のヒトではなく、実際の動物患者が、研究のリスクや負担を負う代わりに、何らかの便益(あるいは最低限、便益となりそうなもの)を享受しなければならない。代理者はまた、関連研究中いつでも同意を撤回できなければならない。

このような方法の倫理的便益には、研究に参加する動物の負担と便益のバランスが大幅に変化することが含まれる。(潜在的な危害が最小化されれば)有効である可能性のある実験的治療を受けることで、個々の動物は便益を得ることができる;研究に関与する動物が日常的に殺されなくなる;そうでなければ健康なはずの動物が外来疾患にさらされることはない;自然発生する疾病の治療に関する獣医学的知識が強化されることで、ヒト以外の種も便益を得ることができる。さらに、監禁や閉じ込めがもたらす多くの負担や脆弱性、実験的交絡の原因も大幅に軽減される。

その他のアプローチもベルモント・レポートに概説された原則に沿うものでありうる。これには、自然環境における動物の非侵襲的観察研究や非侵襲的手段によるデータ収集、組織バンクに保存された組織の利用、治療目的で収集されたその他のデータや資料が含まれる。さらに、インフォームド・コンセントを提供できるヒトの研究参加を増やす努力も必要であろう。このような努力は、ベルモント・レポートに概説された社会正義の概念、具体的には、社会で最も脆弱な立場にある者たちを保護するために、被験者のクラス選択には優先順位があるべきであるという概念によりよく合致するであろう。最後に、研究の優先順位と資金提供は、動物や研究に同意できないその他の個人を含まない技術革新を優先すべきである。

結論

動物の能力に関する科学的知識は、動物が自律性/自己決定のような倫理的に重要な能力や、痛みや心理的苦痛を経験する能力など、ヒトの能力と重要な仕方で類似している能力を持っていることをますます実証している。また、研究における動物の脆弱性は、潜在的な研究対象として利用されるヒトの脆弱性と類似している。共に、動物の倫理的に重要な能力と研究対象者としての動物の脆弱性は、現在の規制スキームやガイドラインが提供する以上の、研究の害からの保護を正当化するものである。ベルモント・レポートに見られるような、倫理的根拠に基づいた原則的なガイドラインがなければ、動物を用いた研究の倫理的矛盾や不十分さに適切に対処することはできない。

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